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メルクと医師たちを襲った「意識の壁」
2004年9月、メルクは鎮痛剤〈バイオックス〉を市場から回収した。この薬は心臓病や脳卒中の一因として疑われていたが、これまでアメリカだけでも1億件余り処方されていた。2005年末現在、調査によって〈バイオックス〉の服用が関係していると疑われる心臓病や脳卒中は2万5000件にも上る。この結果、メルクは1000件を超える提訴を受けている。
この薬害が公になったのは、2000年11月のことである。〈バイオックス〉を服用した患者の心筋梗塞の発症数は、同じ鎮痛剤〈ナプロキセン〉を服用した患者のそれに比べて4倍多いという結果を『ニュー・イングランド・ジャーナル・オブ・メディスン』誌が報告したのだ。
さらに2001年、〈バイオックス〉を処方された患者の14.6%がその服用中に心臓血管系障害を発症しており、そのうち2.5%が心臓発作などの重篤な症状を示したという報告書を、メルクそのものが連邦政府に提出している。それにしても、2000年と2001年に薬害が公表されていたにもかかわらず、なぜこれほど多くの医師たちが〈バイオックス〉を処方し続けたのだろうか。
意思決定者がある種の重要な情報を無意識のうちに無視することは、社会科学の研究によって証明されている。医師といえども、我々同様、完璧な情報処理能力を持ち合わせているわけではない。きわめて限られた時間のなか、きわめてあいまいな状況で生死に関わる判断を下さなければならない。
〈バイオックス〉の場合、医師はこの薬を処方した患者からおおむね良好な結果を得ていた。しかも最近になって明らかになったことだが、メルクの営業部門は、この薬を実際よりも安全に見せかけるという倫理にもとる行為を続けていた。そのため、医師は危険性に関する情報を知ることができたにもかかわらず、先の雑誌記事を読んだ医師ですら、実際の危険性を認識できずにいた。
メルクの経営幹部たちは、なぜ〈バイオックス〉をこれほどの期間、市場に温存し続けたのだろうか。営業部門による意図的な不実があったという証拠はあるものの、メルク経営幹部の一部がこの薬の危険性を十分に理解していなかった可能性もかなり高い。
実際、信頼できる人たちの多くがレイモンド・ギルマーティン前会長兼CEOは倫理観の高い人物であると証言しており、もし〈バイオックス〉が人命を脅かしていると知っていたならば、もっと早くに回収していたに違いないと主張している。企業不祥事の責任は最終的には経営陣にあるとはいえ、この場合の過失は、意図して非倫理的な行為を犯したというよりも、意思決定の質にあったかも知れない。
そこで本稿では、「意識の壁」(bounded awareness)現象について検討する。意思決定プロセスに意識の壁が生まれると、人間は関連性が高く、簡単に入手し認知できる情報であろうと、それを見たり、探したり、使ったり、伝えたりすることが難しくなる。
「生物が発信する情報は、必ずしもメニューで注文したものであるとは限らない。しかしディナーに招かれた礼儀正しい客のように、ふつうフォークをカチカチ鳴らしてニンジンを要求することはなく、その場の状況に逆らうことなく出されたものを受け入れてしまう」とハーバード大学心理学部教授のダン・ギルバートは説明している。
ほとんどの人が、意識に壁が生まれる仕組みに気づかない。そして、この壁を認識できないと、〈バイオックス〉の例からもわかるように、ゆゆしき事態が招かれる場合がある。ありていに言えば、医師や経営者に生じた意識の壁のなかに鎮痛効果や利益は十分に存在していたが、危険性は壁の外にあったのだ。