「親と子」から「大人と大人」の関係に
シフトすることが大切
白井 繰り返しになりますが、キャリア自律は個人にとって重要であるとともに、企業にとっても重要です。日本企業は、非常に強い人事権、たとえば「職種を超えた異動や転勤を決定する権限」を持っているのですが、これが、個人がキャリアについて考え、自発的なリスキリング・アップスキリングを行う機会を阻害しています。
その結果、組織全体としてリスキリング・アップスキリングが進まないので、企業としても環境変化への対応が難しくなっています。であれば、強すぎる人事権を弱めればいいのではないかと考えられますが、企業は中央集権を弱めることにリスクを感じるため、個人にキャリア形成を任せられないという状況にあるのです。
この膠着状態を打破するカギが、雇用システムに「市場原理」や「競争」の概念を組み入れることにあると考えますが、グラットン教授はどう思われますか。
グラットン 日本の経営者と話していて私が感じるのは、従業員をとても大切な存在だと思っているということです。それは親が子を思う気持ちに似ているのかもしれませんが、私が以前書いた『ザ・デモクラティック・エンタープライズ』*という本では、「親と子」の関係から、「大人と大人」の関係へシフトすることの大切さについて述べています。
新しい雇用システムを日本に導入する際に留意すべきは、この「大人と大人」の関係に焦点を当てることだと思います。「大人と大人」の関係の基本は、組織の幹部と従業員が、それぞれの責任をみずから担うということです。
みずからの行動に責任を持つためには、判断に必要な十分な情報を組織が個人に提供することが欠かせません。たとえば、会社はこういう戦略を実行しようとしている、そのためにはこういうスキルが必要で、あなたにはこのスキルが足りない。足りないスキルを習得するために、社内でこういう学習プログラムが用意されている。そういう情報を個人に提供するのです。
そのうえで、個人はみずからの判断と責任において、どういうリスキリング・アップスキリングを図るのかを決めます。
私は、日本で求められている労働市場モデルは、アメリカよりもヨーロッパのモデルに近いのではないかと思いますが、ヨーロッパの労働市場モデルでは従業員のリスキリングとアップスキリングに大きく重点が置かれています。そして、社内でオープンな労働市場が整備されています。
先ほど説明したように、リスキリングとはいまとはまったく別の仕事ができるように新たなスキルを身につけることですが、いまとは別の仕事に就ける機会がないとリスキリングのインセンティブが働きません。ヨーロッパの労働市場モデルでは社内の人間が社内の別の仕事に応募することができる環境が整っているのです。
白井 しかし、ポジションに空きがなければ、いまとは別の仕事に就くことができない可能性もありますね。
グラットン もちろんです。そこも「大人と大人」の関係で決めることになります。たとえば、白井さんと奥様が休暇でどこかに出かける時、どちらかが一方的に決めることはありませんよね。
2人で選択肢を出し合って、話し合ったうえでどこに行くかを決めるとか、今回は白井さんの希望する場所に行くけれど、次回は奥様が希望する場所にするとか、それが「大人と大人」の関係です。
社内にオープンな労働市場を整備したとしても、個人が望むポジションにいつでも空きがあるとは限りませんから、そこは「大人と大人」の話し合いで決めるわけです。
白井 日本では会社も個人もそうした「大人と大人」の関係に慣れていませんから、キャリア自律のためには、十分な情報提供やオープンな社内労働市場の整備だけでなく、従業員のマインドセットを変えることも重要だと思います。
グラットン とても重要なご指摘だと思います。組織が何らかの変革を実行するには、その先頭に立つパイオニアの存在が必要です。
私が教えているロンドン・ビジネススクールのMBA(経営学修士)プログラムには、40人ほどの日本人学生がいます。皆、素晴らしい人材で、一人ひとりがパイオニアです。日本にはパイオニアになれる人材が大勢いると私は日々感じています。変革の先頭に立つパイオニアが組織の中で少しずつ増えていけば、やがて従業員全体のマインドセットも変わるはずです。