健康格差をなくすために、ナッジ理論を活用し始めた

波江野 共同研究は、目に見える成果を生んだと伺いました。

福吉 東京の立川市で実証研究を行ったのですが、従来のチラシと比較すると検診を受ける人が3倍に増えました。

波江野 3パターンのチラシを送り分けるグループは、どのように決めたのですか。

福吉 事前に立川市でアンケート調査をしたんです。4つの質問項目で、検診に対してどういう意識を持つ層なのかがわかるアルゴリズムを、行動医学や健康・医療心理学などが専門の大阪大学の平井啓先生(大阪大学大学院人間科学研究科准教授)との共同研究で導き出していたので、それに基づいてグループを分けました。

 いまは特定健診の受診率向上事業を多くやっていますが、乳がん検診の時のように毎回アンケートを取るのは大変なので、いまは特定健診の問診票の回答データを自治体からもらって、それをアルゴリズムで分析しています。現在、全国約700の自治体でそういう事業をやっています。

福吉 潤
キャンサースキャン
代表取締役社長
慶應義塾大学総合政策学部卒業。P&G Japanでブランドマネージャーとしてマーケティングやブランドマネジメントを担当後、2006年米ハーバード・ビジネス・スクールに進学し、MBA(経営学修士)を取得。同大学研究員として従事した後、2008年11月キャンサースキャンを創業。2021年、慶應義塾大学大学院医学部にて博士号(医学)を取得。慶應義塾大学大学院 健康マネジメント研究科 非常勤講師、厚生労働省がん対策推進企業アクション アドバイザリーボードメンバー。

波江野 そこまで普及する過程において、ティッピングポイントというか、利用する自治体がいっきに増えるトリガーになったものはあるのですか。

福吉 100自治体を超えたところぐらいで、「うちもやらなきゃ」という自治体がいっきに増えました。それまでは、自治体を訪ねても門前払いされることが多かったです。

波江野 一部の自治体が御社と一緒にやり始めて、その結果が見えるようになったことが大きかった、と。

福吉 そうですね。もう一つは、『受診率向上施策ハンドブック』を発行したことです。どうやったら健診の受診率が上がるかという、自治体向けのソーシャルマーケティングの教科書です。

波江野 発行元は厚生労働省ですね。

福吉 厚労省発行で、当社が企画・制作しました。厚労省から「企業秘密だろうから無理は承知なんだけれども、マーケティングの教科書を全国の自治体に配りたいから何とか協力してくれないか」と頼まれました。

 我々は予防医療の推進を目的としてやっているので、当社と契約がない自治体がこのハンドブックを使って、自分たちでやってくれるならそれでいい。仮にハンドブックを参考にして競合会社が現れたとしても、予防医療が進むなら社会的にはいいことですから、「もちろんいいですよ」と二つ返事でOKしました。

 結果的には、このハンドブックを見て「厚労省が認めているんだから、ぜひお宅に頼みたい」ということで、自治体から声がかかることが増えました。

波江野 マーケティングにおいて、ヒト起点で考え、行動変容を起こすことは極めて重要な要素になると思いますが、言うまでもなく生活習慣をはじめとする人の行動を変えるのは簡単なことではありません。行動を変えるという点において、福吉さんが意識しているのはどんなところですか。

福吉 医療の世界では、正しい情報を提供すると人はそれに基づいて行動するに違いないと思っている人が多いのですが、我々のようにマーケティングをやってきた人間からすると、情報はほとんど届かないということが大前提にあるわけです。

 正しいかどうかは情報を提供する側が一義的に決められるものではなくて、情報を受け取った本人が正しいと思うかどうかが大事。ですから、いかに情報を整理して、受け取る側が見たいと思う情報として届けるか、そこにフォーカスするだけで伝わり方がまったく変わります。

 情報が届くと、それに基づいて行動する人が一定割合います。つまり、情報の届け方によって人を動かすということがまず一つ。それが一番ロー・ハンギング・フルーツ(労せずして果実を得る)なやり方です。

 でも、それだけでは当然限界があります。ある自治体とは10年にわたって受診率向上の取り組みを行っているのですが、10年前と比較するとたしかに受診率はものすごく上がっていました。

 そこで、どういう層で受診率が上がったのか調査してみました。すると、受診率が顕著に上がっているのは、世帯年収が高い人たちでした。これは、リテラシーや情報処理能力が高い人たちとニアリーイコールと考えていいと思いますが、そういう人たちに情報が届き、行動が変わっていた。

 しかし、情報が届いても行動が変わらない人たちが相当数いることも同時にわかったわけです。考えてみれば、自治体から届く検診案内の封筒を開いて、文章を読んで理解して、予約をするというプロセスはかなり面倒くさいし、それなりの処理能力が求められます。

 情報の見せ方、届け方を工夫するだけで行動が変わるのは一部の人であって、その他の人は何も変わらないとなると、結果的に健康格差を広げてしまう可能性があり、本当の意味で情報を届けなきゃいけない人たちの行動変容までには至っていなかったんじゃないかと反省したのです。そこからナッジ*1の勉強を始めました。

*1 人の行動や意思決定における心理的バイアスを理解したうえで、よりよい行動を促すための仕組みや考え方。行動経済学の研究で知られる米シカゴ大学のリチャード・セイラー教授らがナッジ理論を提唱し、ノーベル経済学賞を受賞した。

 ナッジは、正しい情報を与えることで行動を変容しようというアプローチではありません。たとえば、当社が「ベストナッジ賞」*2を受賞した東京都八王子市の大腸がん検診受診率向上事業では、人は損失を回避するというプロスペクト理論を用いることで、検診を受ける人を増やすナッジを設計しました。

*2 キャンサースキャンは、環境省や行動経済学会などが主催する「ベストナッジ賞」コンテストにおいて、2018年度「ベストナッジ賞」を受賞した。

 具体的には、大腸がんの検査キットを送っても受診していない人に対して、2つのパターンのはがきを送りました。パターンAのはがきは、検診を受診した人には来年度も検査キットを送るという「利得」を強調したメッセージを入れました。一方、パターンBは検診を受けなければ来年度は検査キットを送ることができないという「損失」を強調したメッセージにしました。結果は、損失を強調したパターンBのはがきを送ったグループのほうが30%受診率が高くなりました。