モニターデロイトの波江野 武氏(左)とキャンサースキャンの福吉 潤氏

マーケティングスキルや行動経済学の知見を活かし、データ解析に基づきヘルスケアの課題解決に取り組むソーシャルベンチャー企業のキャンサースキャン。健診受診率の向上などで同社が支援する自治体は全国700にも及ぶ。ソーシャルマーケティング分野における日本の先駆者である同社社長の福吉潤氏とモニターデロイトの波江野武氏が、社会課題解決における行動変容の重要性について語り合った。

マーケティングを用いて医療課題を解決したい

波江野 日本のヘルスケア領域において、福吉さんが率いるキャンサースキャンは2008年の創業からソーシャルマーケティングを実践してこられたパイオニアです。これまでの歴史を簡単に教えていただけますか。

福吉 私はP&Gのブランドマネージャーとして洗剤のブランドを担当していました。その仕事にすごくやりがいを感じていたし、マーケティングを極めたいと思っていました。

 でもある日、「この商品が売れても社会を変えることはできないのではないか」という疑念がふと浮かんだのです。その瞬間から、自分がやっている仕事の社会的な意義を深く考えるようになりました。

 そんなことを考え始めると、仕事に身が入らなくなります。その結果、担当しているブランドの売上げも利益も、落ちていきました。このままでは会社に貢献できない、自分を一度リセットしたいと思って会社を辞め、ハーバード・ビジネス・スクール(HBS)に留学しました。

 HBSの入学式での学部長のスピーチは、いまでも鮮明に覚えています。彼は、「社会の課題を解決することと、ビジネスとして成功することはトレードオフだと考える人が世の中には多いけれども、そんなことはない。ビジネスのプロがやればそれは両立できるんだ」と言ったのです。その言葉に、私はすごく感銘と衝撃を受けました。

 それをきっかけに、ソーシャルなベンチャービジネスをやっていきたいという思いが芽生え始めました。私のビジネススキルといえばマーケティングですから、それを活かして社会課題を解決したいと思い始めたのですが、当時の私には取り組んでみたい社会的なテーマが具体的にはまだありませんでした。

 ちょうどその頃、ハーバード大学公衆衛生大学院に留学していた石川善樹(予防医学研究者、公益財団法人Wellbeing for Planet Earth代表理事)に出会ったのです。

波江野 キャンサースキャンの創業パートナーですね。

福吉 石川が教えてくれたのは、日本人の死因のトップはがんだけれども、早期発見できればがんのほとんどは治る。がん検診を受ければ早期発見できるのに、受ける人が少ない。検診を受ける人を増やすのは医学の課題ではあるが、医学にはその技術がない。むしろそれは、ビジネスの世界にあるんじゃないか、ということでした。

 その話を聞いて、「それはまさにマーケティングだ」と思いました。マーケティングは、伝え方やコミュニケーションを変えることで購買行動を変える技術ですから、それを活用すれば、検診を受けるという行動変容を起こせるはずだと考えたのです。それで、医療の課題をマーケティングで解決する会社を起こそうということになり、2008年に石川と2人でスタートさせたのが、キャンサースキャンです。

波江野 ヘルスケア・医療の世界で、マーケティングを前面に出した新しい取り組みを始めるのは、ご苦労もあったのではないでしょうか。

福吉 最初は誰も真剣に取り合ってくれませんでした。医療や公衆衛生に携わる人たちはマーケティングのことをよく知りませんし、「物を売るためのテクニックは、医療とは関係ない」と不信感を持たれました。

 最初に期待をかけてくれたのが、当時、国立がん研究センターの検診研究部の部長だった斎藤博先生です。「受診行動を起こすには、マーケティングが必要だと思います」と提案したら、最初は「この世界にそういうビジネスの発想は馴染まないのでは」とおっしゃいましたが、共同創業者の石川善樹は空気を読まない天才で、「斎藤先生、そうおっしゃらずに、本当にマーケティングが使えないかどうか共同研究をしませんか」と持ちかけたんです。

波江野 すごいですね。

福吉 斎藤先生は、「わかった。じゃあ、やってみよう」と。

 受診行動を起こすための我々のアイデアは、自治体が検診案内で送っているチラシをマーケターの視点でつくり直すというものでした。検診に対する態度や規範意識、ニーズ、そういったものは人によって違うので、対象者によってメッセージを変えていこうと。

 具体的には、無関心層には「がんは死亡要因の第1位です」といったメッセージ、検診でがんが見つかるのは怖いと思っている人には「2cm以内のがんを早期発見できれば99%の確率で治ります」というようなメッセージ、そして、検診を受けてもいいけど手続きが面倒だと思っている人たちには、申し込みの仕方をわかりやすく教えてあげるメッセージです。

 そういう3つのパターンのチラシをつくって、受診率がどれだけ変わるか共同研究しましょうと斎藤先生に提案しました。すると、先生が研究予算を出してくれたのです。それが、キャンサースキャンとしての最初の売上げでした。