西上 薬のR&D、承認申請、製造などバリューチェーンの各段階でデータと業務が分断されていますが、本来であれば患者さんの健康情報まで含めてバリューチェーン全体がデータでつながり、R&Dのサイクルが回っていくのが理想です。それを実現するためには、バリューチェーンに関わる企業や組織のリーダーのマインドセットが大きく影響します。

 ここで、将来の話を伺いたいのですが、未来においてモデルナという会社はどんな存在でありたいとお考えですか。

鈴木 私たちはmRNAの力を用いて、病気という不条理をなくせる時代がすぐそこまで来ていると信じています。当社ではmRNAをデジタルモレキュール(電子分子)と呼んでいます。プログラムを書き換えることでさまざまなアプリケーションを開発できるように、遺伝子配列さえ決まればmRNA薬は速くつくれますし、コスト効率もいい。ですから、患者さんが少ない希少疾患の薬をつくるのにとても適しています。

 モデルナにはいま48のパイプライン(新薬候補)があります。新型コロナや季節性インフルエンザ、RSウイルスといった呼吸器感染用のワクチンだけではなく、たとえば、サイトメガロウイルス感染症やEB(エクスタインバー)ウイルス感染症のワクチンの治験も始まっています。

 サイトメガロウイルスに妊婦が感染すると、赤ちゃんが障害を持って生まれてくるリスクがあります。EBウイルスはほとんどの人にとって無害なのですが、ごく一部の人に多発性硬化症などの難病を引き起こします。ワクチンの開発に成功すれば、こうした病気を予防できます。

 感染症以外では、プロピオン酸血症の治療薬も治験に入っています。これは遺伝性疾患で、ある酵素が働かなくなっているか、または弱まっているためにミルクや食べ物を分解できず、重篤化すると呼吸障害や意識障害を起こします。

 米メルクと共同で個別化がんワクチンも開発中です。患者さんから正常細胞とがん細胞を採取して、がん細胞のゲノム配列の違いを特定し、それをもとにmRNAワクチンを設計して、投与します。これによって、よりがん細胞を攻撃する免疫反応を誘導します。この技術が完成すれば、患者さん一人ひとりに最適化したがんワクチンをつくることができます。

48の新薬候補は、日本でも遅延なく実用化したい

西上 一般には、モデルナというと感染症ワクチンの会社だと理解されているかもしれませんが、mRNA創薬の技術はいろいろな病気の治療に対して大きなポテンシャルを持っていることが、よく理解できました。

 専門家の立場から見ても、48ものパイプラインがあるというのはすごいことです。mRNAはデジタルだという例えがとてもわかりやすかったですが、情報の配列を組み換えることで、さまざまな病気に対応できるわけですね。

鈴木 薬の原料も95%は同じで、異なるmRNA薬であっても同じ製造設備で効率よくつくれます。しかも、製造設備はとてもコンパクトです。

 48の新薬候補を日本の患者さんにも遅延なくお届けすることが、モデルナ・ジャパンのミッションです。そのためにも、日本国内に生産拠点を持ちたいと考えています。生産拠点が国内にあれば、次のパンデミックが発生した際、数カ月以内に全国民にワクチンを届けることができます。これは安全保障上も非常に重要で、政府をはじめとするステークホルダーと協力しながら、ぜひ実現させたいと思います。

西上 海外の製薬企業にとって日本が必ずしも優先市場ではなくなり、ドラッグラグ(海外で承認された医薬品が国内で使用できない状態)だけでなく、ドラッグロス(海外で開発された新薬が日本に入ってこないこと)が懸念される中で、48の新薬候補を日本でも遅延なく実用化するというのは、とても心強いお話です。

 鈴木さんご自身は、未来に向けてどうありたいとお考えですか。

鈴木 これも「12のマインドセット」の一つですが、モデルナでは「私たちは、貪欲に学びます。」をとても大事にしています。科学は常に進歩していますから、私が学生や研究者だった頃に学んだ知識は古くなっています。

 私も、いろいろと学び直しているところなのですが、あらためて感じているのが「学びは楽しい」ということです。もちろん、楽しいだけではなく、仕事をするうえで力になっています。学んだことを周りの人たちとシェアすることで、知識が深まりますし、お互い刺激になります。

 日本人は総じて学びに向いていると思います。適切なものをしっかりと学べる環境があれば、日本全体の底上げになります。その点で残念に思ったのは、私の息子が大学でバイオテクノロジーを学ぼうとした時、専門に学べる学科がほとんどなかったことです。日本では医学部や薬学部を出た後、大学院でバイオテクノロジーを学ぶのが一般的なようですが、英国では私より年上の夫が大学生の頃からバイオを専門に学べる学科がありました。

 バイオでもデジタルでも、さまざまな分野について、若者や社会人が学びたいと思った時に学べる機会がたくさんあればいいと思います。

西上 子供には無限の可能性がありますから、若くても専門知識を学べる環境を整えることは非常に重要だと思います。実は、私はいつかそういう仕事をしたいと考えていたのですが、鈴木さんの話を伺って、思い立った時に学べる環境があれば、大人だって可能性がもっと広がると思い直しました。