格式ある料亭でありながら新たな業態や事業を次々と世に送り出す、京都・和久傳。革新を求められる企業がそこから学ぶべきことは多いはずだ。「不易流行の経営」を指針としてきた和久傳グループのトップ、桑村祐子氏とコーン・フェリー・ジャパンの柴田彰氏が、伝統の中に革新を生み続ける組織のあり方、チャレンジを楽しめる人材の育て方について語り合った。

丹後・峰山から
京都・東山へ
柴田 個人的にも和久傳のファンでして、「おもたせ」の店はよく利用させていただいています。老舗料亭がひしめく京都では比較的歴史の浅い和久傳が、いまのような確固たる地位と独自性を築けた要因は何ですか。
桑村 私どもは、初代の和久屋傳右ヱ門が1870(明治3)年に京都府北部の丹後・峰山町(京丹後市)で開業した料理旅館がルーツです。1982(昭和57)年に京都市内の東山の麓、高台寺門前に「高台寺和久傳」として移転し、料亭を始めました。
峰山は江戸時代から絹織物「丹後ちりめん」の産地として栄え、和久傳も100年以上続いたのですが、ちりめん産業の衰退とともにお客様が減り、存続の危機に立たされました。それで、先代である私の母が、背水の陣で京都に出てきました。
おっしゃる通り、数ある京都の料亭の中で私どもは新参です。老舗料亭の真似をしたくてもできませんので、自分たちのルーツとして大事にしてきたスタイルで必死に頑張るしかありませんでした。
峰山の近くの間人(たいざ)漁港で水揚げされるズワイガニは、最高級の「間人ガニ」として知られていますが、新鮮な間人ガニを座敷の囲炉裏端であぶる野趣あふれる料理を、洗練された空間とおもてなしでご提供するのが、和久傳独自のスタイルでした。その野趣と洗練の組み合わせに、京都でもこだわりました。
私どもが京都に移転した当時は、見た目がきれいなお料理が全盛で、金粉を載せた料理が喜ばれるような時代でした。それに対して、素材の味をシンプルに活かす和久傳の料理は異質でしたが、その独自性を喜んでくださるお客様もいらっしゃって、いままで続けてこられました。

柴田 なるほど。新参者として背水の陣で臨んだ覚悟が、確固たる独自のスタイルを生んだのですね。いまは他の高級料亭でも素材を活かした料理が主流の時代になりました。紫野和久傳という別会社になっていますが、料亭の味を「おもたせ」として販売する物販事業を始められたのも早かったですね。
桑村 (臨済宗大徳寺派大本山)大徳寺さんとご縁があり、門前で小さな弁当屋を始めることになったんです。お弁当に入れていた蓮根と和三盆糖でつくったお菓子が評判になりまして、そのお菓子だけ分けてほしいというお声が多かったものですから、それを5個入り、10個入りで売り始めたのが物販事業の始まりです。
そのうち、銀座の松屋さんが和久傳のお菓子を置いてくださることになり、その後、ジェイアール京都伊勢丹や玉川髙島屋など出店の話が次々と決まりました。売上げでいえば、いまは料亭より物販のほうが大きくなっています。