挑戦にリスクはあるが
わくわく感が人を育てる

柴田 2号店の「室町和久傳」をご自身で立ち上げられた時、まだ20代半ばだったそうですね。

桑村 学生の頃から店を手伝っていたのですが、自分ではこの仕事は向いていないと思っていました。何とか後を継がなくても済む方法はないかと考えて、大徳寺の塔頭(たっちゅう)の一つに住み込み修行に入りました。半分出家するようなものですから、両親も諦めてくれるだろうと。

 しばらく修行を続けているうちに、2号店を出す話が持ち上がって、両親が私にその立ち上げをやらないかと言ってきたのです。ずっと断っていたのですが、押し問答を繰り返しているうちに母が「そうやな、あんたには無理やな」と言ったんです。その言葉が引っかかって、条件を出しました。出店資金はすべて自分で借りる、その代わり2号店の経営にはいっさい口出ししないでほしいと。母が、わかったと応じてくれたので、私がやることになりました。いま思えば、母のおびき出し作戦にまんまとはまっただけでしたが。

 任されたからには、本店にはできないことをやろうと思いました。本店にないカウンター席を設けて、料理人とお客様の距離を近づけました。単価は本店より抑えましたので、最高級の素材は使えませんが、新鮮さには徹底してこだわるなど、いろいろと工夫しました。

 でも、店を始めて何年かは経営的に苦しくて、出店資金の利息を払うのが精一杯でした。バブル経済のさなかに銀行から借り入れたので、金利も高かったのです。

 先ほど申し上げた物販事業がうまく軌道に乗り始めたおかげで、何とか店を潰さずに10年がかりで借金を完済できました。

柴田 京都伊勢丹に出店された「京都和久傳」では、和食店としては珍しいオープンキッチンを取り入れたり、朝食営業もする「丹」という新業態を出店されたり、和久傳は常に新しいことにチャレンジしているイメージがあります。一般に伝統と革新のバランスを取るのはとても難しいものですが、新たな挑戦を続けていらっしゃるのはなぜですか。

桑村 違う業態の店舗を出し続けるのは経営的には非効率ですし、伝統的な日本料理の世界で新しいことにチャレンジするのはリスクがあるんですけれども、同時にわくわく感があります。その感覚をみんなで共有できるのは楽しいですし、わくわくしながら仕事をしていれば人は育つと信じているんです。根拠のない確信ですけれど。

柴田 トップが率先して新しいことにチャレンジするのは、とても大事です。ある程度、効率性は度外視しても、わくわく感のある革新に取り組むことで、組織全体の活力が上がります。私が組織・人事コンサルティングで多くの企業に関わってきた経験から言っても、その確信は間違っていないと思います。

 グループの中で最も格式が高い本店の女将を継ぐに当たっては、どのようなプレッシャー、あるいはやりがいを感じましたか。

桑村 本店の女将を継いだのは40歳を過ぎてからですが、お客様の世代が変わってきたので女将を代わってほしいと母に言われました。ただ、社長は母のままでした。それだと、みんなどうしても母のほうを向いて仕事をしてしまうので、結局いままで通りで何も変わりません。

 このままでは和久傳はよくならないと思ったので、私を社長にしてほしいと母に直談判しました。

柴田 社長になって和久傳をどう変えたいと思ったのですか。

桑村 自分が一人の社員として就職したいと思うような会社に変えたかったのです。飲食業は労働集約型産業で給料はけっして高くありませんし、拘束時間も長い。特に板場は完全に徒弟制の世界で、料理長が絶対的な権限を持っていました。料理も人事も料理長が一人で決めますし、料理人たちは下ごしらえや後片付けで勉強をする暇もありませんでした。それではやりがいやモチベーションが上がりませんし、将来のキャリアプランを描けません。

 そういう仕組みのままですと、料理長が辞めてしまうと料理の質を担保できないというリスクもあります。

 それで、私が社長になってからお給料を上げ、客観的な人事評価制度をつくり、昇格についても合議制で決めることにしました。

柴田 板場ともめませんでしたか。

桑村 大もめでした。3年くらいはぎくしゃくした関係が続きましたが、やがて若手を中心に私のやり方に理解を示してくれる社員が増えていきました。