サマリー:ヘルスケア領域においてデータの利用価値が大きいことは誰もが認めながら、その活用がなかなか進まない。その現状を打破できれば、日本だけでなく世界の健康課題を解決できる可能性が大きく広がる。

日本におけるAI(人工知能)研究の第一人者であり、多くのAIスタートアップを生み出してきた研究室の主宰者である東京大学教授の松尾豊氏と、デロイト トーマツ グループの長川知太郎氏および波江野武氏の対談は、ヘルスケア領域におけるAI・データ活用の可能性を出発点とし、健康寿命の延伸をはじめとする社会課題の解決に向けて乗り越えるべきハードルは何か、求められる変化は何かという、より普遍的な議論へと発展していった。そして、世界の医療・健康課題に貢献しうる日本のポテンシャルは大きいという点で、3人の意見が一致した。

ヘルスケア領域はデータ活用の余地が非常に大きい

波江野 まず松尾先生の研究室ではどんなことに取り組んでいらっしゃるのか、ご紹介いただけますか。

松尾 私の研究室では、主に以下の4つの活動を軸にしています。まずは、ディープラーニング(深層学習)を中心としたAIの「基礎研究」。2つ目が「教育」で、データサイエンスやディープラーニングなどの先端技術を習得する機会を広く提供しており、ここ数年は年間1500人以上の学生、社会人が受講しています。

 3つ目はディープラーニングなどの技術を活用した企業との「共同研究」です。過去にはリクルートホールディングスやみずほ銀行、ドワンゴなどの企業と共同で社会実装に取り組んできました。そして4つ目が、優良なスタートアップを輩出する「インキュベーション」です。研究室メンバーが発起人となっているGunosyやPKSHA Technologyといった上場企業を筆頭に、多数のスタートアップを支援しています。

波江野 私自身は社会課題としての「健康」領域に関するコンサルティングを専門にしているのですが、そうした領域においても、データやAI、ロボティクスを活用した取り組みが非常に増えています。松尾研究室の活動との親和性についてどうご覧になりますか。

松尾 ヘルスケアは大きな社会課題であり、データを活用する余地が非常に大きい領域でもあります。私の研究室の中でも医療、ヘルスケア関係のプロジェクトがいくつかありますし、医療だけではなくて、生活環境や食とか、いろいろな分野とつながるという意味でも重要だと思います。

波江野 具体的にはどのようなプロジェクトが進行していますか。

松尾 医療に直結しているもので言うと、画像認識による認知症の診断があります。ディープラーニングを使って脳の画像診断の精度を上げていく研究です。最近ですと、国の事業として東京大学が国産ワクチン開発のフラッグシップ拠点に選ばれまして、国内の複数の研究拠点と連携しながらワクチン開発を進める大きなプロジェクトが立ち上がりました。このプロジェクトをAIを使ってサポートしていくことが決まっています。

 そのほか、介護施設の入居者の転倒事故防止などにつながるAI検知システムの共同研究も行っています。

長川 幅広いですね。

松尾 研究室全体で常時10くらいのプロジェクトが走っていて、170〜180人ほどが関わっています。

長川 AIを使っていろいろなことができるからこそ、研究テーマや仮説の立案について豊かな発想、柔軟な着想が求められそうですね。

松尾 そうですね。未来社会がどうなっていくのかをイメージすることはすごく大事です。

長川 研究室の皆さんで、そういうディスカッションをすることはよくあるのですか。

松尾 研究室内はもちろんですが、外部の人たちと議論することのほうが多いです。たとえば、食品関係の企業の人たちと数年前から議論しているのは、食のデータプラットフォームの必要性です。

松尾 豊
YUTAKA MATSUO
東京大学大学院 工学系研究科
人工物工学研究センター/技術経営戦略学専攻 教授

 健康状態や体質によって、食べていいもの、食べられないものがあります。食べていいものの中で、自分が好きなもの、一番食べたいものを簡単に選べたり、注文できたりすればとても便利ですし、健康な生活を送るうえで大変役に立ちます。一方で、食文化はローカル性が強いので、グローバルな単一プラットフォームではなく、国や地域の特性に根差したローカルなプラットフォームが求められるのではないかといったことを議論しています。10年先、20年先を考えればきっとそうしたプラットフォームができているはずなので、日本企業もいまのうちから手をつけておいたほうがいいと思います。