救急隊員はなぜ、いまでも電話をかけ続けているのか

波江野 健康や医療に関するデータは重要な個人情報ですから、データの扱いについては慎重にならざるをえない面があるというはもちろん理解するのですが、同時に伸びている業界の常識のうち、当てはめられるものをどう当てはめていくかと発想するだけでも、学ぶべき点はあると思います。

松尾 つい先日、研究室のメンバーと「救急搬送が困難な事案が増えているみたいだけど、何とかしたいね」という話になりました。新型コロナウイルス感染症の拡大で、救急車が到着しても受け入れ先の病院が見つからなくて何時間も待たされたとか、遠くの病院まで運ばれたといった事例を耳にすることが増えました。

 これは命に関わる大きな社会課題ですが、救急隊員はいまでも一つひとつの病院に電話をかけて、受け入れ可能かどうかを確認しています。地域ごとに空き病床のデータを一元管理して、救急隊員がそれをアプリで確認し、搬送先を予約するのは技術的にはけっして難しいことではありません。ただ、おそらく技術以外の何らかの問題があって実現できていないのでしょうから、その原因を突き止めて関係者で調整し、解決すべきだと思います。

 そのように、技術だけでなくさまざまな問題が複合的に絡み合って、物事が変化しないというのが日本の問題です。難度が低いところから少しずつ変えていって経験知を高めていけば、もっと難度が高い問題も解決できるようになるはずです。

長川 すごく頷けるお話です。いきなり大きな投資が必要だといっても、みんな及び腰になってしまいますから、まずは難度の低いところから小さく始めて、経験知を積んでいくというアプローチはとても大事だと思います。

 それに、投資をする際には常にリターンとのバランスを考慮する必要があります。大きな投資だとしても、社会的リターン、経済的リターンが大きければそれを実行する意義は大きい。逆に小さな投資でも、リターンがなければ単なるコストで終わってしまいます。

波江野 救急搬送の話に付け加えて言えば、患者さんにどんな既往症があって、ふだんどんな治療を受けているのか、あるいは薬や食事のアレルギーはないのかといった情報が非常に重要なのですが、情報がなければ救急隊員にはそれがわからないし、受け入れた病院でもわからない。また、この瞬間にどこの病院が、どういった受け入れ態勢になっているのかを可視化することも必ずしも十分できていない。命に関わる疾患であれば、そういった判断を助ける情報が重要であると思います。

波江野 武
TAKESHI HAENO
モニター デロイト
パートナー 執行役員 ヘルスケア ストラテジー

松尾 たしかにそれもすごく大事なポイントですね。

 私が最近思うのは、経営者やリーダーにデジタルの原体験がないことが、DXが進まない大きな要因の一つではないかということです。ものづくりの原体験があるリーダーがいる組織では、新たなものづくりにチャレンジしたり、投資したりすることが活発に行われるでしょうが、リーダーにデジタル活用の原体験がないとDXが進まない。それは、医療でも教育の分野でも同じことではないかと考えています。

 プログラムを書いたことがある、アプリをつくったことがある、それを使って小さなことでもいいので何かを成し遂げたことがある。そうした個人としての原体験に基づく理解とか、確信といったものが組織的にDXを進めるうえで大きなカギになるのではないかと思っていまして、リーダーたちがそういう原体験を積める場を用意したり、研修メニューをつくったりしようかと真剣に考えています。

波江野 海外で仕事をしてきた経験からかもしれませんが、リーダーが一部のステークホルダーに対して、建設的に「ノー」と言える組織文化も大事ではないかと思います。何らかの変革を行う際には、変えることに反対する人もいます。反対意見を全部受け入れていると、何も前に進まないか、とても中庸的な解になってしまい、課題を解決できないことになりかねません。真の社会課題、企業課題の解決につながると確信を持てるのであれば、まずは変革を進めて、うまくいかない点があれば軌道修正しながら、きちんと成果を上げ、反対していた人たちも納得できるようにしていく。そういう行動を受け入れる文化が必要だと思います。

松尾 カギになるのが、トライアル・アンド・エラーを受け入れる文化でしょうね。デジタルの原体験で学んでほしい大きなポイントの一つがそこで、どんなプログラムやアプリでも最初からユーザーが満足してくれるようなものは、なかなかつくれません。つくってみて、ユーザーに使ってもらい、フィードバックを受けてアップデートしていくことで、どんどんいいものになっていく。自分の思い込みだけでつくったものが、いかにユーザーのニーズや使い勝手とずれているかがわかるだけでも、貴重な体験です。