
スタンフォード大学で200社を超える医療機器スタートアップの研究開発や実験などに関わり、みずから医療機器スタートアップとベンチャーキャピタルを創業した経験もある池野文昭氏は、スタートアップエコシステムの隅から隅までを熟知している人物である。
まだ黎明期にある日本の医療機器スタートアップエコシステムと、シリコンバレーの違いはどこにあるのか。日本が医療機器開発によって世界の患者に貢献するために、何をすべきなのか。池野氏をゲストに迎え、デロイト トーマツ コンサルティングでヘルスケア産業の支援に携わる立岡徹之氏、波江野武氏、植木貴之氏が、グローバルの視点を踏まえて求められる変化について話し合った。
スタンフォード大学がスタートアップ育成にコミットするわけ
植木 池野先生が医療機器開発に接点を持たれた経緯を教えてください。
池野 私は自治医科大学を卒業後、臨床医として9年間、静岡県内で地域医療に携わりました。2001年からポスドク(博士研究員)としてスタンフォード大学の循環器内科の講座に留学したのですが、所属した研究室が、ベンチャーが開発したさまざまな医療機器を評価するための動物実験を行っており、私もブタを使った実験を任されました。それが医療機器の研究開発に関わるきっかけです。
渡米から3年で帰国する予定だったのですが、スタンフォード大学からポストを用意するから残るように言われました。自分が研究開発や評価に関わった医療デバイスが何年後かに世界中で使われるようになるという経験を積ませてもらい、非常に価値のある仕事だと思っていたので、スタンフォードに残ることを決めました。これまでシリコンバレーで関わった医療機器ベンチャーは200社以上になります。
立岡 スタンフォード大学はシリコンバレーのスタートアップエコシステムの中核的な存在といわれますが、医療機器の研究開発にも深く関わっているんですね。
池野 そうですね。医療機器開発の実験や臨床試験などを持ち込んでくるのは、スタンフォードの元学生や元教員といった人たちが多く、大学と何らかの関係があるスタートアップです。
医療機器を開発するには、現場の医師など医療従事者からのフィードバックが欠かせませんし、患者さんの意見も聞かなくてはなりません。そうした人たちは大学や大学病院にいるわけですから、シリコンバレーのスタートアップにしてみればスタンフォードに話を持ち込むのが最も理にかなっているわけです。
私は日本の大学で学んだ身ですから、渡米した当初はスタンフォード大学の研究室とスタートアップが緊密にコラボレーションしている様子に少なからず驚きました。しかし、よりよい医療機器を開発して、世界の患者さんを救うという目的はスタートアップもアカデミアも同じです。
医療機器に限らず、スタートアップや産業の育成にスタンフォード大学はものすごくコミットしていて、技術や知識を提供するし、人材も輩出しています。それは何もお金儲けをしたいと思っているわけではなくて、社会が求めている大学としての役割をきちんと果たそうとしているからです。
立岡 スタンフォード大学は応用研究だけでなく、基礎研究でも全米トップレベルにあると理解していますが、医療機器のような社会実装を念頭に置いた研究に熱心な研究室と、基礎研究に重きを置く研究室がそれぞれあるのでしょうか。
池野 基礎研究をやっているラボでも、頭の片隅には研究だけで終わらせたくないという気持ちがあります。いい論文を書くのはもちろん重要なのですが、社会実装されてこそ自分の研究が真の成果を発揮すると誰もが思っているのです。
私は、医療機器以外にも医薬品の研究開発をスタンフォードの基礎研究のラボと一緒にやったことがあります。その研究でいい論文を書けたので、私はとても満足していたのですが、ラボの教授は「これを商品化しないと意味がない」と言い始め、サバティカル(長期休暇制度)を利用して起業することを決めたのです。「あなたも一緒にやりませんか」と誘われましたが、私はサバティカルを取れる身分ではありませんでしたから、アドバイザーという形で手伝いました。
その教授が起業した会社は、のちに大手のバイオ医薬品メーカーが買収しました。ふだんは基礎研究をしている教授でも、当たり前のように起業することに当時は驚きましたが、社会実装して人の命を救うところまでいかないと満足できないというマインドセットは、多くの研究者が持っていますね。
波江野 私は、同じ西海岸のカリフォルニア大学バークレー校の大学院で公衆衛生学と経営学を学んだのですが、公衆衛生学の講座では、たとえば貧困世帯における野菜摂取量をどう増やすかといった社会課題について、具体的な解決策を社会実装するところまで徹底して考えさせられました。インサイト(洞察)を得るために、私も貧困世帯が多い地域に足を運びましたが、本気で社会実装まで考えていると、得られるインサイトが違ってくることを実感しました。
池野 日本の大学でも工学系の研究室は社会実装をゴールに据えているところが多いと思いますが、変わってきているとはいえ、まだ医学系では少ないでしょうね。そこは日米の大きな違いかもしれません。