成功の要因は何か

 なぜある経営が成功し、他が失敗するのかは、容易に示すことはできない。成否の原因は根深く複雑で、運も関わってくる。とはいえこれまでの経験から私は、経営者にとってはモチベーションと機会が重要だと強く信じている。モチベーションはインセンティブによって引き出され、機会は分権化を通してもたらされる面が強い。

 しかしそれだけではない。これまで繰り返し述べてきたように、優れた経営は集権化と分権化をうまくバランスさせ、分権化を進めながらも全体の足並みを揃え続ける。

 こうした考え方の下で、矛盾するさまざまな要素を調和させると、稀に見るような成果を上げられる。分権化を進めると積極性、責任、各人の能力、事実に基づく判断、柔軟性――すなわち、組織が新しい状況に対応するうえで欠かせない資質を引き出せる。全体の調和を図ると、効率性と経済性を高められる。

 とはいえ、事業部制を取ってなおかつ全体を調和させるのは、容易なことではない。この点はあえて説明するまでもなく、明らかだろう。多彩な責任を整理して分け与えるための、はっきりしたルールがあるわけではない。全社と事業部のバランスは、判断の対象が何か、どのような時代環境か、これまでどのような経緯を経てきたか、経営者がどのような性格と技能を持っているかによって異なってくる。

事業部制組織における自由と統制

 ゼネラルモーターズ(以下GM)では、事業部と全体をバランスさせるための仕組み――すなわち事業部制――は、実際の経営課題に対応するなかから生まれてきた。すでに紹介したとおり、事業部制の萌芽が現れた40年前には、間違いなく、各事業部に強い権限を与えて、担当事業についての主導権を握ってもらうのが適切だった。

 だが1920年から21年の出来事は、それ以前に比べて大きな権限を事業部に振るうべきだと、私たちに教えてくれた。本社が適切なコントロールを及ぼさずにいたら、事業部は無策に陥り、本社上層部が定めた方針を守らなくなり、全社に深刻なマイナスが及んだのである。

 その間、本社経営陣は望ましい方針を立てられずにいた。事業部から適切なデータが適切なタイミングで提出されなかったからである。後に経営データが定期的に本社に提出される仕組みを設けて、ようやく本当の意味で全社の調整が図れるようになった。

 それでもまだ、事業部の裁量と本社からのコントロールをどうバランスさせればよいのか、答えが見つかったわけではない。もとより、一度決めればそれが常に有効だというわけでもない。状況が変われば、適切なバランスも変わり、望ましい組織を生み出していく仕事は、絶えることなく続いていくのである。

 一時期は、自動車など製品のスタイリングを決めるのは事業部の権限とされたが、以後現在に至るまで、主要製品のスタイリング方針を定めるのは、本社スタイリング・スタッフの仕事となっている。その理由は一つには、スタイリング全体の調和を取ることで、経済的な効果が見込めることだ。

 加えて、これまでの経験から、優れた才能を全社で生かすことで、業務全体の質が高まることがわかったのである。今日では製品のスタイルを決めるのは、管轄の事業部、スタイリング・スタッフ、本社経営陣の連帯責任とされている。

 以上のように、本社と事業部の権限を絶えず調整できたのは、事業部制があり、従来の経験や状況の変化によって、業績を向上させる機会が生まれた時には必ず対応に乗り出したからである。私がCEOを務めていた間は、本社が事業部に強権を発動することはなかった。今日では、当時とは状況が変わり、新しいより複雑な課題が生まれているため、調整の必要性は高まっているけれども、基本的な考え方は私の頃と同じだと思う。

ラインとスタッフ

 GMは、「ラインとスタッフ」を教科書どおりに解釈しているわけではない。私たちにとって重要なのは、「(スタッフ組織を含む)本社と事業部」の区別なのだ。おおまかに述べれば、スタッフ組織の人材――スペシャリストが主体である――は、ラインの権限を持たないが、規定の方針に関しては、事業部とじかに相談・調整することもある。

 本社経営陣の使命は、本社、事業部ではそれぞれ、どのような意思決定を効率的、効果的に行えるかを見極めることだ。その際には、洗練された良識ある結論を得られるように、スタッフ部門の力を大いに借りる。実際、本社経営陣による重要な判断の多くは、まずはポリシー・グループに属するスタッフとの共同で案を練り、次いで本社委員会での検討を経て承認される。一例を挙げれば、ディーゼル機関車の製造に参入するという決定は、スタッフ部門による製品研究を土台としている面が大きい。

 スタッフ部門のなかには、法務部門のように、対応する組織が事業部にないものもある。あるいはまた、エンジニアリング、製造、流通など、事業部の複数の業務と関連が深いものもある。とはいえ、本社スタッフと事業部の間には、大きな相違がある。本社スタッフは事業部よりも長期的で、応用範囲の広い課題を扱うのである。

 では事業部の役割は何かというと、すでに決まった方針や計画を実行に移すことが中心となる。ただし例外的に、事業部にプロジェクト開発が任される場合もある。〈コルベア〉の開発などはその事例といえる。

 本社の活動からは、きわめて大きな経済的価値が生まれているが、そのコストは純売上高全体の1%にも満たない。本社が各種の業務を行っているため、各事業部は市場価格よりも割安で、しかも良質のサービスを受けられる。

 この「良質の」という点が、私の考えでははるかに重要である。スタッフ部門は、スタイリング、財務、技術研究、先端エンジニアリング、人事・労務、法務、製造、流通といった分野で目覚ましい貢献をしており、コストの何倍にも及ぶ価値を生み出していることは疑いない。

 本社にスタッフ部門を置くことで、さまざまな経済的効果が生まれている。とりわけ重要なのは、事業部同士が足並みを揃えることによる効果だろう。事業部と本社の人材が、知識や業務成果を紹介し合うのだ。事業部は他の事業部、そしてまた本社との間で、アイデアや手法を紹介し合うのだ。

 GMでは経営、技術分野の逸材、そしてまた本社スタッフの多くは、事業部出身の人々で占められている。たとえば、高圧縮エンジンやオートマチック・トランスミッションは、本社スタッフと事業部両方の努力によって開発された。航空機エンジンやディーゼルエンジンといった分野での進歩も、両者の開発努力が土台となっている。

本社と事業部

 事業部制では、同じような問題であっても事業部によって異なる対処がされる可能性があるが、どの事業部も本社の指示には従うことになっている。このようなプロセスからは、多彩な手法やアイデアが次々と生まれ、判断能力や技能が高まる。GMが全社として優れた経営を実現できているとすれば、それは一つには、各事業部が共通の目標を目指しながら、切磋琢磨してきたからだろう。

 事業部制はまた、専門化による利益をも生み出している。専門化や分業が進めば、コストが下がり、新しい取引が生まれる。これは経済の基本原理といえる。これをGMに当てはめて述べれば、社内向けに部品を製造している部門は、価格、品質、サービスの面で十分な競争力を備えていなくてはならない。そうでなければ、部品を用いる側の部門は社外から自由に調達して構わない。

 たとえある部品や資材を、社外から調達するのではなく、社内で製造する道を選び、そのための体制を整えたとしても、その決定を永久に守るとは限らないのだ。私たちは機会がある都度、社外のサプライヤーとの比較を行って、内製を続けるべきか、あるいは社外調達に踏み切るべきか、判断を繰り返している。

「内製すれば社外から調達するよりも、必ず利益につながる」との誤解が広く見受けられるが、これは主にコストを抑えられる、との仮説によっている。社内で製造を行えば、上乗せ利益の分を節約できるはずだ、ということにもなる。

 だが実際には、他社の利益が健全で、なおかつ競争力を持った水準にあるのなら、自社製造からも同じだけの利益を得られるはずだろう。そうでなければ、全体としてコスト削減にはならない。GMは、一部の競合他社とは違って、原材料や資材の製造は行っておらず、膨大な量を他社から購入している。それというのも、自社で製造しても、より優れた品質や低コストが保証されるとは考えられないからだ。

 社外から部品、原材料、サービスなどを調達したコストは、製品売上全体の55ないし60%に上っている。

 効率性と適応性を共に保つうえでは、事業部ゼネラル・マネジャーの役割が大きい。彼らは事業部の運営に伴う判断をほぼすべて担っているが、いくつかの重要な条件を満たすことが前提となる。すなわち、全社の大方針に従うこと、事業部の業績を本社に報告すること、事業方針を大きく変える際には本社経営陣にそれを「売り込む」こと、本社の意見に耳を傾けること、などである。

天才には不向きな組織

 大胆な提案を社内に売り込むというのは、GMの経営の大きな特徴だといえる。提案はすべて本社経営陣に、他事業部に影響を及ぼす場合にはその事業部にも、売り込まなければならない。健全な経営を進めていくためには、本社もまた事あるごとに――ポリシー・グループやグループ・エグゼクティブを通して――事業部に提案を出していかなくてはならない。

 こうした「売り込み」を重んじたGMのアプローチは、軽率な意思決定を避ける手段となっている。経営陣が株主に対して果たすべき、通常の責任に加えてである。このような仕組みがあることで、基本的な意思決定でもすべて、関係者すべてが熟考したうえで下されるのだ。

 単に命令を下すのではなく、提案への納得を引き出すという仕組みと、事業部制が重なり合って、すべての管理者層が、何か提案をする場合には十分な理由を用意しなければならない。このような仕組みの下では、直感だけで物事を進めようとする人々は、周囲から納得を引き出せないだろう。

 一般にこのやり方では、素晴らしい直感を排除してしまう危険があったとしても、平均以上の成果を生み出すことで十分にその危険を埋め合わせることができる。十分な情報に基づいた、理解ある批評に耐える方針だけが、そのような成果を生み出すことができるのだ。

 要するにGMは、もっぱらひらめき型の経営者には不向きだが、有能で理屈を重んじる人々には適した環境だといえるだろう。組織によっては、天才の資質を花開かせるために、その人物を中心に据えて、その性格に合った環境づくりが求められる。だがGMは全体として、そのような組織ではない。もっとも、チャールズ F. ケッタリングのような明らかな天才もいるが。

経営方針の決定者は現業を知らねばならない

 GMの経営方針は、各種の委員会やポリシー・グループの議論を通して形成される。一瞬のひらめきによってではなく、根本的な経営課題に取り組むなかで長い時間をかけて生み出されるのだ。ただ判断を下すだけでなく、義務を果たすことにも長じた人々に、大きな責任を与えることによって生み出されるのだ。

 ここにはいくらかの矛盾がある。まず、義務を果たすのに適した人々は、事業上の幅広い視野から株主の利益を目指しているはずである。その一方で、具体的な判断を下せる人々は、実際の事業に密着していなくてはならない。私たちはこの矛盾を解決するために、本社の意思決定を経営委員会と財務委員会で分かち合うという試みを取り入れている。詳しくはすでに述べてきたとおりである。

 他にも、業務管理委員会が方針の策定を担っている。この委員会は、製造や販売といった活動、さらには社長や経営委員会から相談された諸問題に関して、社長に意見を述べる役割を負っている。

 議長を務めるのは社長で、現時点では、経営委員会メンバー、経営委員以外のグループ・エグゼクティブ2名、乗用車・トラック事業部のゼネラル・マネジャー、フィッシャー・ボディのゼネラル・マネジャー、海外事業部のゼネラル・マネジャーがメンバーとなっている。

 このように責任を分散させた結果、方針の策定と提案は本社経営陣のなかでも、事業に最も近い人々が主に担うようになった。もちろん彼らは、事業部の人々と密接に働いており、事業部の人々もポリシー・グループのメンバーとなっている。経営委員会は、会社全体を見渡すと同時に、業務運営にも密接に関わっており、いわば裁判所のような機能を果たしている。

 すなわち、ポリシー・グループや業務管理委員の仕事、さらにはメンバーの事業についての詳しい知識をベースにして、経営の根本に関わる意思決定を行う。財務委員会は、社外取締役をもメンバーとしており、より幅広い経営方針に権限と責任を負う。

 私はGMの経営に携わってきた期間の大半を、これまで説明してきたような経営体制を立ち上げ、組織づくりをし、時には再編成するといった仕事に費やしてきた。なぜなら、GMのような組織では、意思決定のために適切な枠組みを用意することが、何にも増して重要なのである。

 このような枠組みは、意識的に維持しようと努めない限り、どうしても緩んでいく傾向にある。集団での意思決定は必ずしも容易ではない。経営リーダーは、ともすると周囲に自分の考えを理解してもらうような、煩わしい議論のプロセスを避けて、自分たちで判断を下したいという誘惑に駆られるものだ。

 集団なら個人よりも優れた判断を下せるかというと、必ずしもそうではなく、かえって判断の質を落としてしまうこともあるだろう。しかし、GMのこれまでの実績を見る限り、うまい具合にプラスに働いているようだ。このことからわかるように、GMはその組織形態ゆえに、1920年以降10年おきぐらいに自動車市場が大きく変化したにもかかわらず、常に対応できてきたのだろう。

自動車の発展に寄与できた喜び

 これまで述べてきた出来事や思想からも明らかなように、私が生きてきたのはアメリカの歴史上でも独特の時代である。当初、自動車は生まれたばかりで、大規模企業も登場したばかりだった。私たちは自動車に大いなる可能性があることに気づいてはいた。

 だが、これほどまでにアメリカと世界を変え、経済全体を揺るがせ、新しい産業を生み出し、日々の生活の足取りやあり方を一変させてしまうとは、最初はだれ一人として考えていなかった。自動車産業に携わる者にとって、大多数の人々に自家用の輸送手段を届ける一助となったことは、大きな達成感となっている。

 私個人としても、自動車産業を生み出し、その発展に尽くした素晴らしい人々と仕事を通して――サプライヤーや競争相手として――出会えたのは、大きな喜びである。そうした人々の名前は、車種あるいは企業の名称としても刻まれており、アメリカに新しい伝説を生み出した。

 私の世代とこれまでの巡り合いからは、ヘンリー・フォード、デイビッド・ビュイック、ルイ・シボレー、ランサム・オールズ、ウォルター・クライスラー、チャールズ W. ナッシュといった各氏の名前を挙げさせていただくのが自然だろう。

 これら各氏は、他の何千という人々と共に自動車産業の命運を担い、自分たちが革命を起こそうとしているなどとは露ほども気づくこともなく、事業を運営するという地味な仕事を続けたのである。

常に変化に対する備えを

 アメリカでは、成功企業は往々にして成長の軌跡をたどってきた。GMも成功企業であることに間違いはないだろう。GMは優れた力を持っているからこそ成功し、成長してきたのだ。当社ほどの活力を持った大規模企業であれば、経済をリードする存在になったとしても驚くに当たらないだろう。

 とはいえ当然、批判もある。過激な批判を向ける人々に対しては、こう述べさせていただきたい。

 今日のGMがあるのは、人材ゆえ、彼らが互いに力を合わせているがゆえである。彼らが参画した企業が、各人の活動をうまく結びつけたからである。活躍の場はすべての人々に開かれている。技術知識は、科学の発展に伴いすべての人に開かれた「倉庫」から流れ出てくる。生産の手法も広く公開されている。ツール類もだれでも手に入れられる。市場は世界全体に開かれており、人気を博する秘訣は顧客の心をとらえることに尽きる。

 ここでぜひ指摘したいのだが、今日の大企業は、けっして最初から規模が大きかったわけではない。これまで述べてきたとおり、GMが果てしない冒険を始めた1900年頃には、自動車産業全体がいわば手探りで道を切り開こうとしていた。

 GMも産業全体も、今日では当然とされている手法を何も持たずに出発した。先が見えないように思えた。ディーラーの販売台数は不明。そもそも各ディーラーがどの程度の在庫を抱えているかもわからない。消費者の購買トレンドも見えない。中古市場の重要性にも気づいていなかった。各車種がどれだけ普及しているか、その違いを知る手段もなかった。登録状況をだれも追跡していなかったのだ。

 生産計画は最終需要と無関係に決められるありさまだった。個々の車種は、他の車種とも、市場とも無関係に投入されていた。フルラインの車種を揃えて市場全体のニーズに応えようとの発想は、生まれていなかった。今日のように年ごとにモデルチェンジが繰り返されるようになるのは、はるか先のことである。品質にもその時々でばらつきが見られた。

 私たちは、何もない状態から始めなければならなかった。どのような組織が望ましいかを自分たちで探り出さなければならなかった――何よりも、市場の大きな変貌に対応できる組織を生み出さなくてはならなかった。動きが鈍ければ、どれほど規模が大きくても、どれほど評判が高くても、市場からはねつけられる――1920年代のフォードのように。フォードはかつて大きな成功を博した事業コンセプトに長く執着しすぎてしまったのだ。

 GMは、それとは異なった事業コンセプトを基にフォードに競争を挑んだ。場合によっては、フォードの考え方が正しかったのかもしれない。ただしそのためには、フォードの自動車観を支えた経済状態が長く続くとの前提が必要とされた。実際には、経済の実情、自動車技術の進歩、消費者の嗜好、関心の変化に合ったのはむしろGMの考え方だった。

 しかしそのGMも、ひとたび繁栄を築いた後に失速していたかもしれない。この業界ではこれまで、いやこれからも、どこかでつまずく危険があふれている。市場、製品共にたゆまずに変化している状況では、変化に対応できなければ――それどころか私の意見では、変化に対応する方法を設けていなければ――、どのような組織も打ち壊されてしまう。

 GMでは、本社経営陣が市場の長期にわたる幅広いトレンドを見極め、いかに変化に対応すればよいか、その方法を設けている。そのことは、GM製品の変遷からもうかがえるだろう。20年代には、市場の諸問題に受け身で対応した結果、徐々に製品が進化していった。その後は、「すべての所得層の、すべての目的に応える」という製品政策に変わっていった。

 業界が成長と進化を遂げるにつれて、この製品政策に忠実に沿いながら、競争に、そして顧客需要の変化に対応できることを示してきた。この点と関連させながら、以下、製品の進化を概観しておきたい。

顧客の嗜好の変化への対応

 1923年、乗用車とトラックの販売は400万台に達し、以後、20年代の終わりまでおおよそこの水準で推移した。この間、GMの製品はさまざまな面で絶えず改良されていったが、とりわけ重要なのはクローズド・ボディの開発である。高級車の販売台数は、経済の繁栄に合わせて増えていった。

 ところが恐慌中の30年代初めには、需要が冷え込み、低価格車に集中した。33年と34年は、アメリカ国内で販売されたGM車の4分の3近くが、低価格車で占められていた。私たちはそこで、需要動向に生産を合わせることにした。

 景気が回復すると、高級車志向が強まり、アメリカが第2次大戦に参戦する前夜の39年から41年にかけては、低価格車の比率はわずか57%――29年と同じ水準――に下がっていた。やはりGMはこの傾向に対応した。

 第2次大戦が終わって平時生産が再開されると、資材、なかでも鉄鋼が不足していたため、業界全体として資材制限の下で事業を行わなければならなかった。資材の割り当てはカイザー・フレイザー、ナッシュ、ハドソン、スチュードベイカー、パッカードなど小規模メーカーに有利だった。

 これらメーカーは当時、中価格帯に的を絞っており、市場での比率が急増した。この時期、生産力が競争の行方を大きく左右していた――生産さえすれば、待ち構えていたように購入されていった。

 1948年には、新車の登録台数が戦前のピーク値(29年と41年の実績)に近づき、中価格車の比率が45.6%に達した。これは低価格車の比率(46.6%)にほぼ肩を並べる水準だった。

 1948年以降は、市場の一部では競争が平常に戻り、中価格車を主体とした小規模メーカーの売上げは減っていった。表面的には、需要は戦前と同じパターンに戻りつつあるように思われた。54年には、従来の低価格車が全体の60%ほどを占めているように見えた。

 ところがその陰では、低価格帯の製品には大きな変化が生まれていた。1950年代には、消費者の購買力が伸びたため、それを自社に引きつけようと、各社ともオプション製品を盛んに提供するようになっていたのだ。

 この時期の低価格帯市場については、1953年9月の『フォーチュン』誌(「新しい自動車市場」)によく表れている。「戦後の売り手市場では、1台当たりの売上げを伸ばそうとの動きが見られる。アクセサリー、高級付属品、改良、改装などを売り込むというのだ。しかし現在では、考えを変える必要があるようだ。台数需要と購買力の差が開きつつあるため、1台当たりの売上げをさらに増やす推進力となるだろう、と」

 このような新しい見方の下、1955年式の自動車は大型化して馬力も増し、多くのアクセサリーが標準装備された。自動車市場が、全体として多彩さを強め、ハードトップ、コンバーチブル、ステーションワゴンといった高価な車種に人気が集まった。

 従来、「中価格帯」として知られていたセグメントの売上げが好調で、フォードなどはこのセグメントで勢力を伸ばそうと、〈マーキュリー〉の製品ラインアップを充実させ、1957年には新型車〈エドセル〉を発売した。

 他方、従来の低価格帯では大型化と価格上昇が進んでいた。〈フォード〉〈シボレー〉〈プリマス〉はいずれも、それぞれの製品ラインの最上位に新しい、高めの車種を投入した。それらは、「低価格」と謳っているだけで、実際には中価格車にほかならなかった[注]。こうした動きは、消費者の購買力の大きさに注意を向け、その新しいニーズに応えようとしたものである。

 興味深いのは、1950年代に「基本装備車」、すなわち低価格車に最低限の装備をほどこしただけの製品が発売されたが、多くの買い手を引きつけることはできなかった点だ。この事実を踏まえると、いわゆるコンパクト・カーやエコノミー・カーの需要が急激に増え、1957年以降にその勢いを強めたことは、一見不可解に見える。

 しかし詳しく見ていくと、顧客が多様性を求めていることが明らかになった。自動車産業は、誕生から今日まで常に、顧客の嗜好変化を先取りしようと努めてきた。新製品を開発するには何年もかかるが、それでもはやり、需要が生まれた時には準備ができているようにしておくことが、メーカーの務めである。現在のGMの会長兼CEOが、先頃こう述べている。

「市場での課題に応えるためには、顧客のニーズや欲求がどう変化するかを十分に早くから予測して、適切な製品を適切な場所とタイミングで、適切な数量、用意しなければならない。

 嗜好のトレンドと、完成品をつくるまでに必要なさまざまな妥協とを、うまくバランスさせなくてはならない。高い信頼性と優れた外観を備え、性能がよく、競争力のある価格で必要な数量販売できる自動車を完成させるためのさまざまな妥協とを。自分たちのつくりたい車よりも、顧客が買いたいと思ってくださる車を生み出すことが重要である」

多種の車のなかからの選択の自由を

 顧客の嗜好がいかに移ろいやすいかは、また業界がどれだけの適応力を持っているかは、1950年代末から60年代初めにかけて市場で起きた、劇的な出来事を見ればよくわかる。

 1955年、販売台数が過去最高を更新したが、この年、全販売台数の98%が標準サイズのアメリカ車で占められていた。残り2%――15万台弱――は、45種類の外国車と国産の小型車で占められていたが、その比率は1957年には5%に上昇していた。

 この年には、小型車の需要が伸び続けるかどうか明確ではなかったが、GMはしばらく以前からその可能性があると見通して、小型車の設計に着手していた。早くも1952年にシボレー事業部は、本社経営陣の了解を得て、小型車の設計を使命としたR&Dグループを設けている。

 仮に需要が伸びて量産の機が熟したら、すぐに動けるようにしておくためである。この動きはある意味で、1947年以前の――小型車の開発をGMが熱心に検討した時の――業務成果がかたちになったものだといえる。

 この小型車〈コルベア〉の設計内容は1957年末に固まり、59年秋に発売された。他のメーカーも、ほぼ同じ頃、小型の新モデルを発売した。

 その後GMは、1960年に〈ビュイック・スペシャル〉〈オールズモビルF-85〉〈ポンティアック・テンペスト〉を、61年に〈シェビィ皜〉を、63年に〈シェビル〉をそれぞれ売り出した。小型車は、初期コスト、運用コスト共に低い自動車を求める経済観念の発達した買い手にアピールするように設計されていた。

 しかしほどなく、矛盾するような事実が判明する。顧客は、中型車の快適性、利便性、スタイリングなどを求める気持ちを失ってはいなかったのだ。このため小型車を注文する際にも、豪華な内装を指定し、便利なアクセサリー、オートマチック・トランスミッション、パワーステアリング、パワーブレーキなどを注文した。これらの装備は、それまでは中型車向けのものだったのだが。

 1960年に〈コルベア・モンザ〉が、オートマチック・トランスミッション、バケットシート、特注の装飾、豪華外装を備えて登場し、発売とほぼ同時に〈コルベア〉の販売数の半分近くを占めるようになった。

 さらに、中型車と同じモデル、同じボディスタイルを小型化した自動車が求められていることも、すぐに明らかになった。つまり、ハードトップ、コンバーチブル、ステーションワゴン、2ドア・セダン、4ドア・セダンなどが期待されていたのだ。こうした小型車に加えて、標準サイズの自動車が幅広く提供されたことで、買い手にはかつてないほどバラエティに富んだ選択肢が用意された。

あらゆる個人のための自動車を

 1950年代末から60年代初めにかけては、20年代以降で初めて、自動車市場が劇的に変わった時期に当たる。この時期、クローズド・ボディが登場し、〈T型フォード〉が市場から消え、車種の買い換えが一般的になった。この数年の自動車市場の変化は、21年にGMが築いた製品ポリシーが正しかったことを何よりも証明していると思う。

 GMの社長ジョン・ゴードンの、「すべての所得層の、すべての目的に応える」というスローガンは、現実をこれまでになく適切に映し出しているといえる。アメリカ車の種類は1955年モデルイヤーには272だったが、63年には429車種に増えている。ゴードンが説明している。

「現在提供しているあらゆるカラー・バリエーション、オプション、アクセサリー――パワーアシスト、エアコンディショナー、ステアリングホイール、オートロニックアイ(ヘッドライト光量自動切換え用センサー)など――を考えに入れれば、少なくとも理屈のうえでは、まったく同じ自動車を2台とつくらずに1年を終えることができるだろう。

 GMの目標は、単に『すべての所得層の、すべての目的に応えること』ではなく、『すべての所得層の、すべての人の、すべての目的に応えること』と言えると思う」

 自動車が小型化するというトレンドは、1957年以降鮮明になり、59年には輸入小型車がアメリカでの自動車売上のおよそ10%を、国産小型車が10%をそれぞれ占めるまでになっていた。その後、輸入車の比重は低下して、63年には市場全体のおよそ5%となっていた。国産のほうは売上げを伸ばし、60年以降、市場全体の3分の1を占めている。この間、かつて「低価格」と呼ばれていた車種の一部は、中価格帯で確固としたポジションを得るようになった。

 このような傾向を考えて、国内メーカーのなかにはいわゆる中価格帯の製品を減らすところも現れた。1957年末に発売された〈エドセル〉は、1959年には販売中止となっている。クライスラーの〈デ・ソト〉も、1960年に市場から消えた。〈マーキュリー〉、〈ダッジ〉の一部、アメリカン・モーターズの〈アンバサダー〉は小型化して装備を減らした。

 しかしGMは中価格帯の標準車について、重量、サイズ、モデル数とも従来どおりを維持することにして、その一方で小型の車種も追加した。

 当社の事業は自動車関連が90%を占めているが、各事業は、検討中のものも含めてすべて別個のものとして考えている。製品分野を狭く限っているわけではないが、自動車が核であることは変わらない。どういった製品を生産するかという判断は、どうしても経験を基にせざるをえない。実際に扱ってみて、当社の経営スキルに適していないと判明して、撤退することもある。

 具体例を挙げれば、GMは1921年に農業用トラクターの分野から撤退するのが最良の道だと判断した。GMならではの貢献はできそうもないと考えたからだ。

 以後も、航空機、家庭用ラジオ、ガラス、化学物質などを製造する企業をつくり、やがて撤退した。

 航空機エンジンとディーゼルエンジンの分野に参入したのは、エンジニアリングや大量生産のノウハウを生かし、新しい価値を生み出すためである。2サイクルの新しいディーゼルエンジンを開発、機関車に搭載して、アメリカの鉄道に革命を起こした。

 GMはこの海のものとも山のものともわからない製品に何百万ドルも注ぎ込んだが、当時、顧客の多くは深刻な財務危機や破産状態にあり、イノベーションになどほとんど関心を示さなかった。ところが、GMの貢献によって鉄道会社は支払い能力を取り戻した――今日、鉄道会社の経営陣は感謝を示してくれている。

 GMはいずれの製品分野でも、他社を買収してのし上がったことはない。一般に、各事業分野には黎明期に参入して、努力によって自社製品の市場を切り開いていった。自動車、家庭用冷蔵庫、ディーゼル機関車、航空機エンジンなど、いずれも同じである。事業を買い取るのではなく、育ててきたのである。

 これまでGMの組織についても説明してきたが、読者の皆さんに、私が「組織はすでに完成している」と考えているとの印象を与えてしまっていなければよいのだが。

 企業は例外なく変わり続けていく。変化は好ましい方向、悪い方向、両方がありうる。私はまた、組織は放っておいても動いていく、との印象を皆さんに残していないことも、願っている。組織が判断を下すことはありえない。組織の機能は、すでにある基準に沿って枠組みを――秩序立った判断が下せるような枠組みを――用意することである。判断を下し、その判断に責任を持つのは、一人ひとりの人材である。

 私が第一線から退いて以降、GMで意思決定に携わってきた人々は、複雑このうえない課題に実に見事に対処してきた。組織を惰性で動かしているだけでは、けっして答えははっきりと見えてこなかった。経営者の仕事とは、方程式をただ当てはめることではなく、その時々の課題に柔軟に対処していくことである。柔軟性に欠けた、融通の利かない規則を意思決定に取り入れても、堅実な判断の代わりはけっして果たせないのだ。

創造はどこまでも続く

 これまで紹介してきた事柄の成果は何かと言えば、広い意味での優秀性ということだろう。私は、GMが競争の激しい経済で優秀性を身につけたことは、その成長と密接に関係し合っていると思う。

 仮に企業が「巨大だから」というだけの理由で攻撃されるのなら、優秀性も攻撃の対象になるということだ。もし優秀性を非難してしまったら、アメリカはどのようにして世界経済全体のなかで競争に勝ち抜けるのだろうか。

 私自身に話を移せば、私の仕事はすでに終わっている。いまからはるか以前の1946年、71歳で私はCEOを辞した時に、社に対する責任は軽くなった。その時点では会長職にとどまったが、1956年には名誉会長に退いた。

 以後、私が実質的に関わってきたのは財務委員会、ボーナス・給与委員会、取締役会のみである。取締役会では、時の流れを痛感せずにはいられない。大きな変革の波が押し寄せ、メンバー構成にも影響を及ぼしている。デュポン社はかつてGMに25%ほど出資し、経営面でも大きな力となってくれたが、現在では取締役は派遣していない。旧世代に属するメンバーの多くは故人となっている。

 旧世代の経営者で以前からGM株を多数保有している人々、すなわちチャールズ・モット、ジョン L. プラット、アルバート・ブラッドレー、O. E. ハント、R. サミュエル・マクローリン、フレッド・フィッシャー、そして私自身などは、取締役会、各種委員会に今後も長く参加し続けることはできないだろう。私たちはかなり以前に、経営に積極的に関わる責任を手放した。

 この責任は別の人々によって引き継がれてきたし、ほどなく引き継がれなくてはならない。新しい世代はいずれも、変化に対応していかなくてはならない――自動車市場の変化に、GMの経営全般の変化に、そして変化する世界とGMの関わり方の変化にも。現在の経営陣にとっては、この仕事はまだ始まったばかりである。

 彼らの直面する課題のなかには、私の時代と似たものもある。私が想像すらしたことのなかったものもある。創造の仕事はどこまでも続いていく。


※本連載は、再編集の上、書籍『【新訳】GMとともに』に収められています。

『【新訳】GMとともに』

[著者]アルフレッド P. スローン, Jr.
[翻訳者]有賀裕子
[内容紹介]ゼネラルモーターズ(GM)を世界最大の企業に育てたアルフレッド P. スローン Jr. が、GMの発展の歴史を振り返りつつ、みずからの経営哲学を語る。ビル・ゲイツもNo.1の経営書として推奨する本書には、経営哲学、組織、制度、戦略など、マネジメントのあらゆる要素が詰まっている。

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【注】
やがてこの事実が広く知られるようになり、統計上の価格グループにも
反映された。今日では、これらは中価格帯に含められている。

有賀裕子/訳
DHBR 2002年12月号より
(C)1963 Sloan, Alfred P., Jr.

 

アルフレッド P. スローン, Jr.(Alfred P. Sloan, Jr.)
ゼネラルモーターズ 元会長。1875年生まれ。1920年代初期から50年代半ばまでの35年間にわたってゼネラルモーターズ(以下GM)のトップの地位にあった。20年代初めに経営危機に陥ったGMを短期間に立て直したばかりでなく、事業部制や業績評価など、彼が打ち出したマネジメントの基本原則は現代の経営にも大きな影響を与えている。彼のGMでの経営を振り返り、63年にアメリカで著したのが『GMとともに』である。同書は瞬く間にベストセラーとなり、組織研究や企業現場のマネジャーに大きなインパクトを与えた。『GMとともに』が刊行された3年後の66年に没した。