新しい変化

 変貌を続けた自動車市場も、1929年にはほぼ一定の姿に落ち着いた。現代の経済史上でもきわめて重要なこの年、ヘンリー・フォードは依然として旧来の考え方に固執していた。新車〈A型フォード〉からもそれが見て取れた。

 そこへクライスラーが彗星のように現れて、底知れぬエネルギー、そしてゼネラルモーターズ(以下GM)に似た製品ポリシーでフォードに対抗したのである。

 1929年、アメリカ製の乗用車・トラック販売台数は合計500万台。そのうち実に200万台近くをフォードが占めていたが、これは偶然にすぎなかった。長期的なトレンドではなく、打ち上げ花火のようなものだった。

 GMは、もはや1920年のような“寄り合い所帯”ではなく、求心力のある効果的な組織へと生まれ変わっていた。「分権制を取りながら全体の調整を図っていく」というマネジメント哲学は、適切に機能していた。

 財務コントロールも定着して、絶えずクリエイティブな手法が生み出されていた。製品ラインは、多様性を重んじたウィリアム・デュラントの思想を受け継ぎながら、1921年の製品プランにほぼ沿って価格帯別に棲み分けていた。

 さらに付言しておくべきは、GM車の輸出台数は過去最高に達していたが、その一方で海外生産にも着手し、1925年にイギリス、29年にはドイツにそれぞれ現地工場を開設した点である。これらすべてが当時の経済トレンドを反映していた。

 そして言うまでもなく、GMも経済トレンドのいくつかには影響を及ぼしていたはずである。GMの発展は、自動車業界にとどまらずアメリカのさまざまな大企業に影響を及ぼした。他社はGMの手法を研究し、採用した。とりわけ事業部制と財務コントロールを大いに模倣した。

 私は歴史家ではないので、当時の一般的な出来事ではなく、GMの発展を中心に引き続き述べていきたい。

 1930年代初めの大恐慌期、売上げは減少したが、GMのあり方は変わらなかった。ただ一つの例外は、売上げが減少したため、全社の結束を強める必要性が高まったことである。どれほど困難な変化にもスピーディに対応し、高いコスト効率を実現しなければならなかった。

 このような必要性から、GMは再び組織構造を改め、それによって今日まで続く組織の土台をつくり終えた。実のところ、1929年10月に株価が暴落する以前から、将来に備えて改革に着手していたのだが、その時点では明確な見通しを持っていたわけではなかった。

 改革の一つとして、〈シボレー〉が華々しい成功を収めていたため、私はそのマネジメント手法の利点を全社で共有したいと考え、シボレー事業部の面々を戦略ポストに抜擢した。

 1929年5月9日にリチャード H. グラントとO. E. ハントを本社バイス・プレジデント(VP)に据え、おのおのセールスとエンジニアリングを任せることにした。

 併せてデルコ‐レミーのC. E. ウィルソンをやはりVPに登用して、製造を委ねた。その数年後には、ウィリアム S. ニュードセン(シボレー事業部ゼネラル・マネジャー)をエグゼクティブ・バイス・プレジデント(EVP)に任命して、乗用車、トラック、ボディの製造オペレーションを統括してもらうことにした。いわばこの時期、経営陣の世代交代が進み、全社に新風を吹き込んだのである。

 ただし、財務部門とチャールズ F. ケッタリング率いる研究部門を除けば、本社スタッフ組織はさほど充実しておらず、全社委員会と連携しながら業務を進めていた。

 高度な技術プロジェクトを推進する際には、特命の「製品研究グループ」を設置して製造事業部の管轄下に置いた。このような状況のなか、前記のような経営陣の登用を契機に、本社スタッフ部門の刷新が行われるようになった。

 やがてスタッフ部門は全社委員会の役割を踏襲し、今日のように充実した役割を果たすようになる。その詳しい経緯は後に譲るとして、ここではGMが全社の結束を強めていったプロセスに焦点を当てていきたい。

新しいポリシーが必要となる

 1929年の春から夏に季節が変わろうとする頃、アメリカはかつてない好況に沸き返っていた。その後、工業生産高の急減にもかかわらず株価は伸び続け、10月の大暴落を迎えることになるのだが、7月18日の時点で私は経営委員会に対して、GMがどこまで変化に適応できるか不安であると述べ、全社の求心力を強めるために自ら努力する決意を示した。

GMの求心力を高めるために

(前略)これまでに、数多くの建設的なプランや方針が提案されたにもかかわらず、実行されることなく終わっている。これは、既定路線を守ろうとの判断によるのかもしれないが、同時に私たちの弱さでもある。

 人間は一般に、変化に抗おうとする傾向があり、当社の経営陣もアイデアを売ることばかりに時間をかけ、変革を強く推進してこなかった責めを負うべきだろう。正すべき点があることを知りながら、有効な手を打たずに対応を先延ばしにしてきたことについても同様である。 

 したがって私は以前から、全社の求心力を高めるために、よりわかりやすい、効果的な仕組みが必要だと考えてきた。言葉を換えれば、変革への抵抗を乗り越えて、社の前進を促すだけのエネルギーに欠けていたといえる。発展の足取りが鈍かったのはそのためである。

 いまこのような矛盾を絶ち切らないことには、市場での地位を高めるのはおろか、守ることすらできないだろう。これ以上待つことはできない。競争は激しさを増し、課題は日々困難の度を深めるばかりである。

 私が伝えたいのは、日常業務を改善すべきというよりもむしろ、全社の経営原理、さらにはそれを実行するための方針を見直さなければならないということだ。加えて、組織を細部にわたって見直し、より高い効果が上がるように変えなければならない……。

 1929年10月4日――株価大暴落の直前――私は経営委員会に宛てた文書のなかで、拡大の時期が終わったことを告げ、新しい経営方針を示したのである。

大暴落直前の新しい経営方針

 いまこそ、関係者すべてに真剣な注意を促したい。以下に述べるのは重要このうえない問題である。

 過去何年間にもわたって需要が好調であったため、工場その他はフル稼働を続けてきた。これは国内外を問わず、GMグループ全体に当てはまる。

 そのうえ、製品にも大幅な変更があったため、一部の工場設備は根本的に刷新され、事実上すべての工場・設備に何らかの変更が加えられた。したがって経営陣は、平素からの課題のほかに、生産施設の拡大、オペレーション効果の維持などに忙殺された。

 このプロセスでは、投資額も多大に上った。そしてそれ以上に多額の金額を、これまでにない新しい試みのために投じてきた。これらはすべて有益で、成果の面からも高く評価できる。私自身も確信している。これまでの大方針から高い成果が上がり、過去から現在に至るまでGMは市場で大幅な躍進を遂げてきた。この傾向は今後も続くだろう。

 これらの点を振り返ったのは、方向性を改めるべき時が訪れたと考えるからだ。少なくとも短期的には、経営の舵を切り直す必要があるだろう。

 いま注力すべきは、効率アップと経費削減を通して収益力を高めることではないだろうか。過去数年間は、より優れた車種をより多く生産することに精力を注いできた。絶えず価値の向上を目指してきた。製品向上への努力は今後も怠ってはならないが、それ以上に価格と価値の関係を慎重に検討して、これまで拡大や前進に傾けてきたエネルギーを、効率化に振り向けなければならない。

 もとより、今後は生産施設を拡大しなくてよいという意味ではない。最先端の技術をベースに、適切な価格で優れた製品を提供していれば、業績や事業規模は拡大を続けていくだろう。その半面、ここ数年と同じペースを維持するのは不可能である。GMも業界全体と同じトレンドをたどると見るべきだろう。

 私はけっして、支出が軽々しく行われてきたと述べているのではない。たしかに注意は払われてきた。しかし今後は、全事業部、全子会社が、これまで事業の拡大と発展に注いできたエネルギーを、収益性アップのために傾け、全力を尽くさなければならないのである。工場や設備の拡大にも増して、収益性が重要になるのだ。

 なお、ここで言う「経費」は、製造経費にとどまらず、販売原価全体を指している。

 言うまでもなくこのプログラムは、GMグループ全体として取り組むべきである。私自身の考えが時代遅れにならないように、アルバート・ブラッドレー、グラント、ハント、そしてウィルソンの諸氏には、スタッフ部門の視点から、全般的なトレンドを調査してもらいたい。

 その際には、各事業部、各子会社の関連部門とも協力するように。具体的な方法は、作業を進めるうちに見えてくるだろう。このように足並みを揃えて努力を重ねていけば、より好ましい結果が得られるに違いない。

 以上と同様の考え方から、新規プロジェクトについてはこれまで以上に慎重に精査し、妥当性を十分に検証しなければならない。現行の組織では、VPのウィルソンがプロジェクトの予備審査を担当している。

 そこで子会社を含めた各組織は、事業拡大が必要だと考えたら、プロジェクトを開始する前にまずウィルソン氏に相談されたい。念押しをすれば、以上述べてきたことは、生産施設の拡大・新設案件のうちですでに承認済みのものに関しては当てはまらない。

緊急事態にどう対処したか

 その後、私の考え方は楽観的すぎたことが明らかになる。それというのも、ほどなく経済状態がだれも予測していなかったほど悪化し、その危機を乗り切れるかどうかが焦点となったのである。まったく予兆がなかったわけではなかったが、それにしても経済の悪化はあまりに急激だった。

 GMの売上げは1929年から30年にかけて、15億ドルから9億8300億ドルへと、およそ3分の2に減少した。1930年の決算を振り返って私は、アニュアル・レポートに次のように記した。

「大恐慌は世界の主要消費国すべてを大きな経済混乱に陥れています。調整を試みようにも、事実上は不可能であると言わざるをえません。重要な事業活動に携わる企業はほぼいずれの国でも、大恐慌の影響で業績を悪化させています。

 その結果、経営・方針の面で異例の諸問題が生まれ、株主の皆様の利益を守るためには、積極的かつ効果的な対処が求められています。社会からの信任、すなわち信用度、そして業績を共に維持するためには、すべての問題を徹底的に分析しなければならないのです(後略)」

 こうして分析が始められた。

 GMのような企業の経営者は、極限的な状況に置かれるとどのような姿勢を示すのだろうか。その臨場感のようなものに、読者の皆さんにも関心があるかもしれない。1931年1月9日、私は業務執行委員会に書簡を送った。

難局を打破するために

 木曜日の委員会に欠席したメンバーのために、また出席メンバーに記憶を新たにしてもらうために、この文書をしたためている。次回の委員会では主要テーマとして、各メンバーに「業務手順、方針、発想などの面で昨年度はどのような問題があったか、何を解決しなければならないか、1931年度には何を試みるべきか」に関して意見を述べてもらいたい。

 年度当初は、気持ちのうえでも、また実際上も、このようなことを考えるよい機会である。当然ながら、ここで取り上げようとしているのは実務の詳細よりもむしろ、幅広い原理原則や考え方である。

 意図を十分に汲んでもらえるように、これまでの覚え書を基に私自身の考えを紹介しておきたい。

①人材に厚みを持たせるべきであるにもかかわらず、これまで二の足を踏んできた。この問題はだれもが認識していながら、あまりにも長く腰を上げずにきた。ここで改めなければならない。後になってみれば、なぜここまで放置してきたのか、いぶかしく感じるのだ。

②GMは事実データの収集力に定評があるが、必要なデータをすべて手に入れているわけではない。事実に基づかないまま議論をすることも少なくない。この悪弊は解消すべきだろう。全メンバーに事実データを示し、各人が判断を下せる環境を用意してからでなければ、重要な事項に関して決定を下してはならない。

 それが守れなければ、業務執行委員会は自らに対して、また全社に対して公正であるとはいえない。責任をまっとうしているとはいえないのである。

③私たちは深く考えることを怠ってきたようだ。これも改めなければならない。難題は積み重なるばかりで、しかもタイムリミットは迫ってくる。会議が長引けば、疲労感にさいなまれる。これにさまざまな要因が重なると、判断が狂い、ミスを犯すことになる。ミスが避けられなくなる。

 無計画あるいは軽率に何かを始めるよりは、たとえ事業チャンスを逃すことになったとしても、動かずにいるほうが安心ではないだろうか。チャンスはいずれまた訪れるに違いない。長い目で見れば、問題に徹底的に向き合うことが利益につながるはずである。

 以上、私がどのようなことを期待しているかをよりよく知ってもらうために、自分自身の考えを述べた。ぜひ全員が貴重な意見を出してほしい。

 状況の厳しさと比べると、穏やかな文面ではないだろうか。しかし、各企業、各職業、そして各グループにはそれぞれの流儀があり、独特の言葉の使い方や表現がある。GMの経営陣は、この文面から私の意図を汲み取ってくれた。あらゆる問題を熟考しなければならないのだと。

 以後半年の間、私のデスクには、ありとあらゆる問題に関するメモが洪水のように押し寄せ続けた。意見や考え方もさまざまだった。ジョン L. プラット、ニュードセンなどは、GMは中央によるコントロールを強めすぎたと考えていた。

 プラットが1931年1月12日付で記している。

プラットの問題提起

 GMの業務手順や方針が持つ最大の問題点は、業務執行委員会の姿勢にあるのではないでしょうか。業務執行委員会は、各事業部の細かい問題を取り上げ、議論しています。各事業部に対して、方針策定や問題点の特定を促すことも、その解決策に関して委員会のチェックと承認を求めるように指導することもありません。

 近年、業務執行委員会の施策や行動からは、意識的にそうしているのかどうかはわかりませんが、事業部を統制しすぎているとの印象を受けます。逆が本来のあり方ではないでしょうか。

 主導権は事業部が持つべきです。委員会の使命は、各事業部のゼネラル・マネジャーが実際にイニシアティブを取っているかどうか、目を光らせることではないでしょうか。みずから主導権を握ろうとするのではなく。

 もう一点提案があります。どこかに問題点があるようであれば、それがだれに関するものであっても、議論の俎上に載せて率直に意見を戦わせるべきでしょう。

諮問委員会の設置

 たしかに、深刻な不況の影響で中央による統制が行きすぎていた。これは正さなければならなかった。

 他方、スタッフ部門を統率するウィルソン、グラント、ハントらは、プラットとは対照的な考えを持っていた。3人はそれぞれ、組織間の結束を強めるべきだと主張して、具体案を示してきた。

 ウィルソンは、最も先進的な事業部の製造活動を基準に据えて、その組織、機械設備、工程などをすべての事業部に倣わせるべきだとの意見だった。グラントからは、セールスとゼネラル・マネジメントに関して、似たような提案が寄せられた。ただし、どうすれば分権化を保ちながらそれを実現できるのかについては、名案が浮かばないという。

「少なくとも当面のところは、解決策は一つのみではないでしょうか。強い意志、忍耐、販売能力などが求められます」

 ハントはいかにも技術者らしい具体的な表現で、ボディの共有化を可能な限り推し進めること、技術研究の成果を製品に生かすことを提案した。後者はすぐにでも実現できる内容だった。ブラッドレーは、業務執行委員会に関して「議論の準備が十分ではない」と指摘して、小委員会を設けてルーチン業務を任せてはどうかといったアイデアを出した。

 私は、両者の主張にそれぞれ傾聴すべき点があると考えた。かつてのジレンマが再び頭をもたげていた。新しい状況に対応するために、全社の調整を促す必要があったが、その一方で、経営トップが個別事業部の問題に干渉するのは避けなければならなかった。

 1931年6月19日、私は初めての試みとして、複数の諮問委員会を設置した。その提案はこのような書き出しになっている。

「グループ・エグゼクティブに助言をするために、諮問委員会を設置する。その目的は、可能な限り幅広い事実データと意見を集めて、業務執行委員会への勧告やその他の意思決定を――委員会に示されないものも含めて――社内の粋を集めた建設的な内容にすることである」

 この提案の意義は、経営陣、スタッフ組織、各事業部の交流を活性化させて、より広範なテーマに関して、定期的に意見を交わせる場にしようとしているところにある。それでいながら、事業部に勝る権限をスタッフに与えているわけではない。一部には、この施策を契機にスタッフ組織が事業部に指示を出すようになるのではないか、との懸念があったが、そのようなことが起きる必然性はなく、現在も起きていない。

 各諮問委員会のメンバーは1931年に決められたが、その年の末には、組織上の問題を幅広く議論できる状況ではなくなっていた。アメリカ、そして世界が大恐慌の淵に沈みゆくなか、社の生き残りをかけて思い切った緊急対策を打たなければならなかったのである。

 アメリカ、カナダの自動車産業も苦境に陥った。1929年は乗用車・トラックの総生産台数がおよそ560万、小売販売額が51億ドルだったが、32年にはそれぞれ140万台、11億ドルへと激減していた。この数字は第1次世界大戦中の1918年以降で最悪の記録である。

 これまで述べてきたように、GMは財務と業務オペレーションのコントロールを強化していたため、1920~21年とは違って、経営破綻の瀬戸際に立たされることはなかった。業績全般が段階的に後退していき、賃金や給与も減額となったが、いかなる局面でも秩序は保たれていた。

 アメリカ、カナダの工場出荷台数は1929年のおよそ190万台に対して、1932年は52万6000台だった(乗用車・トラック合計)。減少率は実に72%。固定費用の高さを考えると、凄まじい打撃である。

 それでも他社に比べれば、GMの受けた痛手は小さかった。事実、GMの市場シェアは1929年の34%から1932年――景気が最も冷え込んだ年――には38%へと上昇している。利益は2億4800万ドルから16万5000ドルへと縮小したが、辛くも黒字を保つことができた。

 これは、主に財務コントロールの恩恵だといえるだろう。1932年、工場の操業率は30%を下回っていた。

 コスト節減に向けては、購買、設計、生産、販売といった諸活動での全社協調を大胆に進めた。

 この時に行った変革の一部は、後々まで大きな効果を及ぼした。購買と生産の面では、部品を緻密に分類して、事業部間で数多くの部品を共有できるようにした。

 わけても特筆に値するのは、3タイプの基本ボディだけですべての車種に対応できるようにしたことである。販売費の削減は難航をきわめ、打開策として抜本的な変革が行われた。

 1932年3月、業務執行委員会は3日間をかけて集中議論した後に、1921年策定の製品ポリシーを大幅に改めるという勇断を下した。内容はこうである。

〈シボレー〉と〈ポンティアック〉の製造を一本化して、ニュードセンの管轄下に置く。〈ビュイック〉と〈オールズモビル〉に関しても類似の措置を取る。セールス面では、〈ビュイック〉、〈オールズ〉、〈ポンティアック〉を束ねて新設のBOP社に販売を委ねることとし、各ディーラーに複数の車種を卸す――。マネジメントの切り口から見る限り、1年半の間、GMの自動車事業部は5から3に減っていたのである。

政策立案組織の変遷

 不況の深刻さと、それによる社の窮状に直面して私は、当時のマネジメント体制で適切な対応ができるかどうか、思いをめぐらすようになった。

 事業の拡大・縮小を意識的に調節できるのだろうか。社内の調和を図りながら、方針策定と実行を明確に線引きしておくことはできるのか。従来のように製品ラインを5つに戻した場合、各ラインをどのようにして関連づければよいのか。大恐慌のような強大な力に揺り動かされれば、企業は混乱を避けようがない。

 1933年11月、私は再び新しい方針について考えを書き記すようになった。「方針」というテーマについて、基本中の基本と向き合おうとした。

1933年11月発表の方針

 GMの組織は全体として、きわめて重要な局面を迎えているようだ。なぜなら規模だけにとどまらず、事業の性質が、目まぐるしい変化にさらされているからである。自動車業界の企業や人は、他の大多数の業界に比べてスピーディに行動する力が劣っているのではないだろうか。

 将来を見据えて分析すると、GMが繁栄できるかどうか、あるいは市場での地位を維持できるかどうかは、ひとえに戦略立案の力量にかかっている。GMは、激しい変化を予測し、迅速に対応できるように、戦略を磨かなければならない。関心のあるさまざまな分野に今後、各機能部門を巻き込みながら乗り出して、変化に迅速に対応しなければならない。

 方針を実行するに当たっては、コストを抑え、高い効果を目指さなければならない。この点の重要性をけっして軽んじるつもりはない。ただ、方針を策定するフェーズを重視しなければならないことを強く訴えたいのである。

 なぜなら、このフェーズで賢明な判断を下さないことには、実行体制がどれほど優れていようとも、効果的な働きは期待できないからである。

 付言するなら、将来に向けてGMは、積極的な方針立案を心がけなくてはならない。競争力、収益力共に、維持するのは困難になっていくだろう。これまでのように意思決定に時間をかける余裕はない。トレンドが変化して我々の事業に影響を及ぼしている以上、何をなすべきかを速やかに判断しなければならない……。

 このメモを記した大きな目的は、「戦略立案のみに集中する」という経営委員会の使命を確認し直すことだった。私はまた、こうも書いた。

「(経営委員会は)すべての事業部に、あるいは事業部間の問題に、率直さと熱意を持って対応すべきである」

 私は、これを効果的に実現するためには、経営委員会メンバーを本社上層部に絞って、事業部の代表者を除外すべきだと考えた。その場合には、どのようにして各事業部の情報を吸い上げるかが課題となるため、その対策も提案した。

「経営委員会メンバーが十分な知識や情報を得られるように、方策を考えなければならない。委員会には単に賢明な判断を下すだけでなく、独自に賢明な判断を下すことが求められているのだから」

 経営委員会は、以前から名実共に経営の最高機関だったが、ミーティングは業務執行委員会との合同で、意思決定には実務サイドの代表者も携わっていたため、戦略の立案と遂行を隔てる境界があいまいになっていた。そこで何よりもまず、経営委員会を実務サイドから切り離して、高い独立性の下で意思決定できるようにしなければならなかった。

 独自に判断を下す体制を整えることは、特に大きな意義を持っていた。自動車市場は変化していた。自動車事業を旧来の5事業部体制に戻せば(私はそうすべきだと考えていた)、経営上新たな課題が浮上するに違いなかった。

 当時の状況を振り返っておきたい。1933年の段階では、低価格車が販売台数ベースで全市場の73%にまで伸びていた(26年には52%だった)。したがって、GMは全市場の27%に向けて4車種を揃えながら、73%の低価格市場に向けては1車種しか投入していなかったことになる。

 ドナルドソン・ブラウン(財務責任者)は、経済性の観点から3事業部体制を擁護していた。私は、たとえコストを押し上げたとしても5事業部制に戻すべきだと考えていた。販売台数が増えれば、コストの増加分は相殺できるはずだった。

 1934年1月4日の財務委員会に提出したリポートで私は、販売方針に関する以前からの信念を再び示した(その一部は、すでに別の場で表明していた)。全社の方針として採用されたその内容をここに引用する。

GMの自動車製品ラインに関する基本的構想

 当委員会の一部メンバーは記憶していることだろう。ピエール S. デュポンは、社長就任直後にグループを立ち上げて、自動車製品に関わる非常に重要なテーマを検討させた[注1]。製品に関してはそれまで、定見やポリシーと呼べるものは何もなかった。各事業部が別々に――つまり横の連携をまったく取らないまま――製品を開発していたのである。

 しかし、事業部間の連携と一定の協力を実現すべきだとの考えが広まり、具体的内容を詰めるために検討グループが設けられたのだ。その結論は1921年4月6日の経営委員会で了承されている。あれから13年が経過しようとしている(後略)。

技術からスタイルへ

 私は1921年から34年にかけて自動車がどのように進化したか、記録にしたためた。競争激化による危機感もあったが、自動車の価値が外観、スタイル、技術品質、価格、評判など一定のファクターによって決まることに気づくようになったからである。

 私の印象では、メーカーや車種による差異は縮まってきているようだった。最新技術はどの企業でも入手できるため、将来的には技術の差によって買い手の心を捉えることはできなくなると考えた。

 この点は見込み違いだったが、全般的には私の予想は的中して、買い手の嗜好、なかんずくスタイリング面での顧客の嗜好に合わせることに重点が移っていった。

 買い手の嗜好には幅がある。多くの人々が、隣人とは違う車種に乗りたいと考えているだろう。自動車を設計するうえでは、デザインと技術の両面で妥協を余儀なくされる。理想形を実現するのは不可能なのである。

 製品の売れ行きは往々にして、比較的些細な機能によって決まるものである。買い手が、より重要な機能に関心を持っているにもかかわらずである。これから自動車を購入しようとする人々は、さまざまな機能の重みを測りかねるものだ。

 買い手はまた、ディーラーとの個人的なつながりに大きく影響されており、善きにつけ悪しきにつけ、一部のディーラーに悪感情を抱く場合もある。GMは販売台数シェアで業界の45%、つまりほぼ2台に1台を占めており、上述のような問題に大きな責任を負っている。

 このような状況の下、新規顧客を獲得するのは容易ではなく、既存顧客をひとたび失うと埋め合わせをするのは困難である。市場シェア45%の重みは大きい。5%とはわけが違う。

 技術と製造の両面から考えると、基本的に同じ製造設備・機器を用いながら、2つの車種――価格・重量はほぼ同じだが外観がまったく異なり、技術的特徴にもある程度開きのある2つの車種を製造することは、100%可能だろう。

 狭い価格帯に多くの車種がひしめき合っていることを踏まえると、これまで述べた点を含めて数多くの事柄を考え合わせて、全車種を同じ組織に委ねたほうがよいのだろうか。あるいは①顧客の嗜好に幅がある、②優れた技術アイデアを単一車種にすべて盛り込むことはできない、③ディーラーの影響力を軽視してはならない、といった点を重んじるべきなのだろうか。

 このような疑問に答えるために私は、販売方針を示すことにした。

販売方針

(前略)全販売台数の80%ないし90%以上を占める低価格車の分野では、複数のセールス・ポイントが求められるだろう。

 当社の利益を考えるならば、基本のデザインそのものにバリエーションを持たせて、できる限り多くの買い手に幅広くアピールすべきである。このような考えを私は、自動車の製造、流通が共に複雑だということを理解しながら述べているつもりである。単一の車種ですべての人を惹きつけられればよいが、残念ながら現状ではそれは叶わない。

 自動車市場は大きな可能性を秘めているため、当然だが、多数のディーラーが同じ市場で同じ製品を販売しようとしのぎを削っている。そこで、車種別に取り扱いディーラーを限定して、多彩な車種の多彩な魅力によって顧客の数を増やすのが得策だろう。

 具体的に説明したい。ある市場にGM車を扱うディーラーがX社あるとしよう。このX社すべてが同一の車種を販売するのでは、士気を削ぐことになるだろう。

 むしろ、一部の製品は重なるにせよ、主軸とする製品はディーラーごとに変えて、あるディーラーは〈シボレー〉を、別のディーラーは他の車種を扱う、とするのが望ましいに違いない。

 以上のように多数の理由から、私はかなり以前(1921年)に策定した製品ポリシーを大幅に改めるべきだと考えている。

 低価格セグメントに売上げが集中している現状を踏まえて、このセグメントでのプレゼンス拡大を目指す必要がある。その際に何よりも重視すべきは、バラエティをどこまでも広げて、あらゆる嗜好に応えることである。それが多くの顧客にアピールする最も近道だろう。

ポリシーと管理の分離

 この提案のとおりに、競争の激しい低価格市場に多彩な車種を投入して、各事業部で販売努力をするためには、新しいかたちの協調が求められた。協調が進めば進むほど、戦略面でさまざまな問題が持ち上がってきた。

 そこで、戦略の立案と実行をより厳密に分ける必要が生まれた。同じ部品を用いる事業部は、共同プログラムを推進しなければならないため、独自路線を突き進むわけにはいかない。だれかがプログラムを調整する必要があった。調整が進むにつれて、戦略上の課題が積み重なっていたが、それらは従来であれば実行部隊が扱っていたものだった。

 私は常々感じているのだが、戦略と実行は峻別しておかなくてはならない。この境界があいまいでは、何を各事業部の権限とすべきかをめぐって、分権化された組織が混乱から抜け出せなくなる。まさに戦略が問われていた。幅広い解決策が求められていた。

 やがてその解決策が編み出され、今日までGMの意思決定プロセスを支えてきた。私が1934年10月に経営委員会へ示した提案のなかから、その解決策を紹介したい。

経営委員会に示した解決策

 ご存じのように、方針を立案するのは本社あるいは事業部、子会社である。他方、統治委員会から方針が提出されれば、本社が承認あるいは決裁することになる。どこが立案した戦略であっても、承認を下す者はそれが現在、そして将来の事業にどのようなインパクトを与えるか、熟知していなければならない。

 GMの業務オペレーションに関する事柄のように、重要な影響を持ちうる方針に関しては、あらゆる考え方と事実を視野に入れながら、あらゆる角度から検討を加えなければならない。軽率に判断を下すと、事業の危機を招いたり、発展を阻害したりしかねない。

 やや哲学的な議論を展開してきたのは、なぜこれまでよりも幅広い視点から方針を策定すべきか、その理由を示すためである。

 ここでは2つの新原則を定めたいと思う。

①建設的で進歩的な方針を掲げることは、事業の発展と安定にとってこのうえなく重要である。

②GMにおいては、方針の策定を可能な限り実行から切り離すべきである。

 このようにして、方針策定を担う組織として複数の「ポリシー・グループ」が設置された。ポリシー・グループはエンジニアリング・ポリシー・グループ、流通ポリシー・グループなど、大多数が業務上の機能を名称に冠していた。後には海外ポリシー・グループも設置されている。

 メンバーは社長以下の経営陣と、当該機能を担当する本社スタッフで構成され、各グループは方針案を作成して業務方針委員会に提案するのが使命だった。事業部長は方針の遂行をその任務としているため、ポリシー・グループからは意識的に除外されていた。

 ポリシー・グループは事業部に指示を与える権限、方針を決定する権限などは持たなかったが、経営陣のほとんどが参加していたため、勧告を行えば各機能分野の統治委員会から承認されるのが通常だった。

 ポリシー・グループは、1934年から37年にかけてエンジニアリング、流通分野で試行的に運営された。1937年には他の領域にも広げると共に、正式の制度として取り入れられたのである。この仕組みはいわば、私が1919年から20年にかけて『組織についての考察』で示したマネジメント方針――分権制を採用しながら全体の調整を図る――をより洗練させたものだといえる。

ポリシー・グループの役割

 現在GMには9つのポリシー・グループがあり、大きく2つのカテゴリーに分けられる。第1のカテゴリーは、エンジニアリング、流通、R&D、人事、広報といった機能別であり、第2のカテゴリーは、海外市場、カナダ市場、エンジン全般、家電製品といった事業別である。

 機能別のポリシー・グループは、関連の本社スタッフから支援を受けながら活動する。一例としてエンジニアリング・ポリシー・グループは、エンジニアリング・スタッフ部門と、VPを介して連携している。事業別のポリシー・グループは、当該事業のグループ・エグゼクティブの後押しを受ける。

 これら多彩なグループのメンバーは、GMの頂点にあって多大な影響力を行使する人々である。会長とCEO(最高経営責任者)は、3つを除くすべてのグループに、社長は2つを除くすべてのグループにそれぞれ名前を連ねている。

 流通、エンジニアリング、研究、人事、広報の各ポリシー・グループには、経営委員会メンバーほかの経営陣が加わっている。すなわち、各グループのメンバーを集めると、GMの経営陣がすべて揃うことになる。

 このようにしてポリシー・グループは、スタッフとラインを結びつけ、方針案を策定し、経営判断の下地をつくるうえで大きな役割を果たしている。

 方針策定へのニーズに応じて、ポリシー・グループの活動内容も変わってくる。エンジニアリング・ポリシー・グループは、定期的にミーティングを開いて新製品プログラムを練っている[注2]。これらの活動に関して、事業部長は、ポリシー・グループと緊密に連絡を取り合う。場合によっては他の事業部長と力を合わせる。機能部門を通してその目的を果たすこともある。

 しかしすでに述べたように、事業部長はグループのメンバーではない。ポリシー・グループは方針の策定を、事業部長は実行をそれぞれ担っているからである。

 エンジニアリング・ポリシー・グループによる新モデルの開発からは、ポリシー・グループの活動ぶりが十分に伝わってくるだろう。各事業部の製品開発は、ゼネラル・マネジャーが事業部内のエンジニアリング部門と協力しながら始めることになっている。

 もちろん、セールス部門が伝える市場の状況に鑑みなければならないし、他事業部とニーズの調整を図ることも重要である。25年ないし30年ほど前には、各事業部は個々に製品開発プログラムを推進しており、足並みを揃えようとの努力はほとんど見られなかった。

 しかしその後、緊密な調整が求められるようになってきた。製品開発は一事業部では完結せず、他の多数の事業部と深く結びついているため、全社的な視点が欠かせない。新製品のアイデアが生まれてから実現するまでには、今日では通常2年ほどかかる。先進的な技術コンセプトに基づいている場合には、さらに長い期間を要するだろう。その間には無数の変更が生じる。

 したがって開発期間中は、各事業部のエンジニアリング部門、本社スタイリング部門、フィッシャー・ボディ事業部、そしておそらくアクセサリー事業部などと、絶えず密接にコミュニケーションを取らなければならない。これら部門はすべて、同一の問題に関心を払い、協働を進めているからである。

 そこで本社エンジニアリング部門が、事業部と歩調を取りながら必要な調整作業を進めていく。エンジニアリング・ポリシー・グループの使命は、このようなプロセスで何か問題が生じた場合に、それを取り上げること、いわば調整役を果たすことである。エンジニアリング・ポリシー・グループの決定は、基本的には経営委員会の承認を得られる。経営委員会のメンバーはプロセス全体に関わっているのだから。

 繰り返しになるが、大恐慌の到来によって複数の製品ラインを連携させる必要が高まり、協調型の新しいマネジメント体制が生み出された。1937年にポリシー・グループが制度として確立されたことで、『組織についての考察』(1919~20年)が描いたとおりのマネジメント体制が、ついに完成した。

 同じ1937年、私は「方針の立案と実行は分離すべきである」という長年の信念を、全社委員会の運営に、より忠実に反映させたいと考えるようになった。まずこの年の初めに、経営委員会と財務委員会に代えて、方針の策定と実行を担う委員会をそれぞれ設けるべきだと提案した。

 長い議論の後、5月にこの案が採用され、経営・財務両委員会の廃止と方針策定委員会、方針運用委員会の新設が決まった。策定委員会は、言うまでもなく取締役会メンバーのみで構成され、経営のトップ、財務のトップ、社外取締役を一堂に集めていた。方針運用委員会のほうは、もっぱら各事業部のトップによって構成されていた。

 方針策定委員会は財務委員会の役割をすべて引き継いだうえに、方針策定全般を担うこととなった。

 1937年から41年にかけてこの委員会は、数々の重要な分野で社の針路を定めた。労使関係の方向性を定め、流通面――とりわけディーラーとの関係――で多数の政策を決めた。国際情勢が不安定性を強めるなか、海外子会社の戦略についても多大な時間を割くようになっていった。

第2次世界大戦による変更

 そして第2次世界大戦の足音が近づくにつれて、方針策定委員会は原材料・部品の不足、政府への対応などに忙殺された。政府から軍用機エンジン、戦車などの製造を要請されたため、その民需への影響をも検討しなければならなかった。

 1941年12月に合衆国が第2次世界大戦に参戦すると、GMも緊急時への対応を迫られた。軍需への即応を最優先させるために、1942年1月5日に戦時緊急委員会を設置し、方針策定委員会メンバーなど6名の委員を選任した。ミーティングは原則として週に1回だったが、それ以外にも臨時に開催されることがあった。この年の4月までは、戦時緊急委員会がGMを動かしていたといってよいだろう。

 この間に限っては、方針策定、運用両委員会は、戦時緊急委員会の活動を追認するにとどまった。5月には軍需生産が軌道に乗ったことを受けて、戦時緊急委員会を廃止し、方針運用委員会(全事業部長、グループ・バイス・プレジデントで構成)を戦時運用委員会へと改めた。

 以後2、3年は戦時運用委員会がGMの舵取り役を果たした。大戦への対応が整い、生産がほぼ100%軍事関連で占められていたからである。

 打ち出される諸方針も、生産に伴う技術問題を別にすると、政府の諸機関への対応に関してだった。

 1945年に大戦が終結すると、方針策定委員会が再びその存在意義を発揮するようになり、戦後プランが練られた。平和産業への再転換と戦後処理がきわめて重要であったため、事業運営に関わるものも含めて、ほとんどすべての課題が方針策定委員会にのしかかってきた。

 このような過大負担に対処するために、全社委員会の構成や役割を問い直すことになった。

 方針の策定と実行を切り離すためには、方針は単一の組織が定めるのが本来のあり方だろう。しかし、当時の新しい状況の下では、2つの大きな障害があった。

 第1に、事業活動の量的拡大と複雑化によって、財務、実務の責任が間違いなく広く重くなっていた。第2に、経験豊富な社外取締役に、財務・経営両委員会のために十分な時間を割いてもらうのは難しかった。

 そこで1946年には方針策定委員会を解散して、経営、財務2つの委員会を復活させた。ただし名称はそれぞれ経営方針委員会、財務方針委員会とした。さらに1958年にはかつての経営委員会、財務委員会という呼称に戻すと共に、定員枠を拡大して両委員会の兼務者を増やした。

取締役会の役割

 以上、GMの方針策定形態に関して多くの紙幅を費やしてきた。以下では、企業の最高機関である取締役会の役割がどうあるべきか、私なりの信念を述べたい。

 GMの取締役会も――主に諸委員会での活動を通して――大企業一般の取締役会と同様の機能を果たしている。GMには取締役のみで構成される委員会が4つほどあり、事業のマネジメントその他に関して取締役会と同等の権限を与えられている。その4委員会とは、経営委員会、財務委員会、ボーナス・給与委員会、監査委員会である。

 このうち方針策定の中核を担う財務・経営両委員会について詳しく説明したい。

 財務委員会のメンバーはその大多数が実務からは距離を置いている。なかには、私のように以前に実務を指揮していた者、当初から取締役として経営に参画している者などが含まれる。他方、経営委員会のメンバーは全員がマネジメントに積極的に関わっている。両委員会とも方針の策定に専念し、実行面には関与しない。共に、取締役会により軌道を修正されることがある。

 財務委員会は、主としてGMの“金庫番”の役目を果たしている。定款に沿って財務方針を定め、業務を指揮する。資金の割り当てすべて、さらには新規事業への参入について可否を判断する権限を有している。経営委員会による草案を基に価格政策や価格決定方式を検討、承認するのも財務委員会の役割である。

 社内のニーズを満たすだけの資本があるかどうか、十分なROI(投資収益率)を達成しているかどうかの判断を担うほか、取締役会に配当額を提案する。

 経営委員会は事業政策を立案する。方針案がポリシー・グループによって作成されることはすでに述べた。ポリシー・グループの使命は、事業部その他の業務が円滑に進むように下地をつくることである。

 だが、実際に方針を決定するのは経営委員会の役割だ。予算要求案はこの委員会の監督下で準備され、財務委員会に提出される。ただし実効上は、財務委員会は100万ドル以下の支出については経営委員会の承認に任せている。

 GMの取締役会は月に一度の開催を原則としていたが、特別な理由によって臨時開催されることもある。取締役会は折に触れて各委員会のメンバーを選定する。上層部の人事、さらには株式配当額の決定と公表、追加株式の発行など、取締役会の議決を要する事項を取り扱う。

 加えて、私の経験からは、GMの取締役会は独特の役割を果たしている。これはきわめて重要性が高く、いわば“監査”のようなものである。通常の財務監査とは異なり、全社の活動に絶えず目を光らせるのである。GMは大規模な組織で、あらゆる分野が高い専門性を持っている。

 このため、最高レベルの判断や決定を要する技術的な事柄すべてについて、各取締役に深い知識や経験を期待することはできない。社外取締役には時間的な制約もあるだろう。課題はあまりに多種多様かつ複雑で、尽きることがない。

 それでも取締役会は、たとえ技術的な問題に直接は対処できないとしても、結果責任を負うことはできるはずであるし、またそうすべきである。GMの取締役会は、事前には事業予測によって、事後にはレポートその他のデータを検討して、さまざまな問題に対処する。そして必要があれば、適切な措置を講じるのである。

 この目的のために、取締役会は全社とその活動に関して全般的な資料やデータを受け取る。経営・財務両委員会からは月次レポートが、他の委員会からも定期レポートが提出される。

 スクリーンを用いたビジュアル・プレゼンテーションによって、財務、統計、競争の観点からすべての重要問題が検証され、短期的な予測も行われる。補足説明、産業見通しの概要説明なども行われる。

 加えて、事業サイドから各分野の概況が口頭で報告される。バイス・プレジデント、各事業の責任者などが正式のプレゼンテーションによって、定期的に担当分野の動向を説明する。取締役たちは質問を投げかけ、説明を待つ。

 この“監査”機能はGMにとって、また株主にとって何ものにも代えがたい価値を持っている。GMの取締役は、充実した情報を手にし、あらゆる変化に賢明に対処している。この点でGMは他のすべての企業に勝っているといえるだろう。


※本連載は、再編集の上、書籍『【新訳】GMとともに』に収められています。

『【新訳】GMとともに』

[著者]アルフレッド P. スローン, Jr.
[翻訳者]有賀裕子
[内容紹介]ゼネラルモーターズ(GM)を世界最大の企業に育てたアルフレッド P. スローン Jr. が、GMの発展の歴史を振り返りつつ、みずからの経営哲学を語る。ビル・ゲイツもNo.1の経営書として推奨する本書には、経営哲学、組織、制度、戦略など、マネジメントのあらゆる要素が詰まっている。

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【注】
1)「検討」とは、1921年に策定された製品ポリシーの素案作成を指している。
2)エンジニアリング・ポリシー・グループのメンバーは以下のとおりである。
・エンジニアリング担当バイス・プレジデント(VP)(グループの議長を務める)
・会長兼CEO(最高経営責任者)
・社長
・スタッフ部門のエグゼクティブ・バイス・プレジデント(EVP)
・財務担当EVP
・自動車・部品事業部担当EVP
・その他事業部のEVP
・スタイリング、流通、研究、製造担当のVP
・自動車・トラック・グループ、ボディ・組立事業部グループ、アクセサリー・グループ、デイトン、家電製品、エンジン・グループのEVPおよびVP
全15名のうち、8名が経営委員会メンバー、4名が財務委員会メンバーである(経営委員は全員が両グループ・メンバーを兼ねている)。

有賀裕子/訳
DHBR 2002年10月号より
(C)1963 Sloan, Alfred P., Jr.

 

アルフレッド P. スローン, Jr.Alfred P. Sloan, Jr.
ゼネラルモーターズ 元会長。1875年生まれ。1920年代初期から50年代半ばまでの35年間にわたってゼネラルモーターズ(以下GM)のトップの地位にあった。20年代初めに経営危機に陥ったGMを短期間に立て直したばかりでなく、事業部制や業績評価など、彼が打ち出したマネジメントの基本原則は現代の経営にも大きな影響を与えている。彼のGMでの経営を振り返り、63年にアメリカで著したのが『GMとともに』である。同書は瞬く間にベストセラーとなり、組織研究や企業現場のマネジャーに大きなインパクトを与えた。『GMとともに』が刊行された3年後の66年に没した。