新しい変化

 変貌を続けた自動車市場も、1929年にはほぼ一定の姿に落ち着いた。現代の経済史上でもきわめて重要なこの年、ヘンリー・フォードは依然として旧来の考え方に固執していた。新車〈A型フォード〉からもそれが見て取れた。

 そこへクライスラーが彗星のように現れて、底知れぬエネルギー、そしてゼネラルモーターズ(以下GM)に似た製品ポリシーでフォードに対抗したのである。

 1929年、アメリカ製の乗用車・トラック販売台数は合計500万台。そのうち実に200万台近くをフォードが占めていたが、これは偶然にすぎなかった。長期的なトレンドではなく、打ち上げ花火のようなものだった。

 GMは、もはや1920年のような“寄り合い所帯”ではなく、求心力のある効果的な組織へと生まれ変わっていた。「分権制を取りながら全体の調整を図っていく」というマネジメント哲学は、適切に機能していた。

 財務コントロールも定着して、絶えずクリエイティブな手法が生み出されていた。製品ラインは、多様性を重んじたウィリアム・デュラントの思想を受け継ぎながら、1921年の製品プランにほぼ沿って価格帯別に棲み分けていた。

 さらに付言しておくべきは、GM車の輸出台数は過去最高に達していたが、その一方で海外生産にも着手し、1925年にイギリス、29年にはドイツにそれぞれ現地工場を開設した点である。これらすべてが当時の経済トレンドを反映していた。

 そして言うまでもなく、GMも経済トレンドのいくつかには影響を及ぼしていたはずである。GMの発展は、自動車業界にとどまらずアメリカのさまざまな大企業に影響を及ぼした。他社はGMの手法を研究し、採用した。とりわけ事業部制と財務コントロールを大いに模倣した。

 私は歴史家ではないので、当時の一般的な出来事ではなく、GMの発展を中心に引き続き述べていきたい。

 1930年代初めの大恐慌期、売上げは減少したが、GMのあり方は変わらなかった。ただ一つの例外は、売上げが減少したため、全社の結束を強める必要性が高まったことである。どれほど困難な変化にもスピーディに対応し、高いコスト効率を実現しなければならなかった。

 このような必要性から、GMは再び組織構造を改め、それによって今日まで続く組織の土台をつくり終えた。実のところ、1929年10月に株価が暴落する以前から、将来に備えて改革に着手していたのだが、その時点では明確な見通しを持っていたわけではなかった。

 改革の一つとして、〈シボレー〉が華々しい成功を収めていたため、私はそのマネジメント手法の利点を全社で共有したいと考え、シボレー事業部の面々を戦略ポストに抜擢した。

 1929年5月9日にリチャード H. グラントとO. E. ハントを本社バイス・プレジデント(VP)に据え、おのおのセールスとエンジニアリングを任せることにした。

 併せてデルコ‐レミーのC. E. ウィルソンをやはりVPに登用して、製造を委ねた。その数年後には、ウィリアム S. ニュードセン(シボレー事業部ゼネラル・マネジャー)をエグゼクティブ・バイス・プレジデント(EVP)に任命して、乗用車、トラック、ボディの製造オペレーションを統括してもらうことにした。いわばこの時期、経営陣の世代交代が進み、全社に新風を吹き込んだのである。

 ただし、財務部門とチャールズ F. ケッタリング率いる研究部門を除けば、本社スタッフ組織はさほど充実しておらず、全社委員会と連携しながら業務を進めていた。