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変化は機会を意味する
1920年代半ば、ゼネラルモーターズ(以下GM)は企業力を増進させていた。しかし、経営危機を脱し、事業部制を構築したことを除いては、いまだ目に見える成果は生んでいなかった。市場戦略を固め、財務コントロールを強め、機能間の壁を超えて総力を結集できる体制も整えたが、1924年末の段階では、業績を大きく伸ばすまでには至っていなかった。
たしかに、1921年の不況が去った後、とりわけ23年には売上げが劇的に拡大したが、これはGMの経営力よりも、景気全般の回復と自動車需要の増大によるところが大きい。社内ではさまざまな経営改善を進めていたが、市場では足踏みを続けていた。しかし、飛躍への機は熟していた。
GMにとって幸運だったのは、1920年代初め、さらには24年から26年にかけて、自動車市場が大きく変貌したことだ(これは、1908年の〈T型フォード〉誕生と並び、きわめてマグニチュードの大きな出来事である)。
「幸運」と記したのは、王者フォード・モーター(以下フォード)に挑む立場にあったGMにとって、変化は追い風だったからである。GMは失うものを持たず、変化は紛れもないチャンスだった。社内は、そのチャンスを最大限に生かそうと勇み立っていた。すでに述べてきたように、そのための地ならしもできていた。
だがこの時点では、GM流の事業手法が自動車業界全体に広まるとも、業界の発展を促すとも予想していなかった。ここでは説明を進めやすいように、自動車産業の歴史を3期に分けておきたい。
・第1期(1907年以前):自動車価格が高く、富裕層のみを対象としていた時代。
・第2期(1908年から1920年代前半まで):マスマーケットが開拓された時代。フォードが「価格を低く設定して自動車を輸送手段として普及させる」というコンセプトでこのトレンドを主導した。
・第3期(1920年代中盤以降):モデルの改良が重ねられ、バラエティが増えた時代。
GMの方針は、第3期のトレンドに合っていた。
上記いずれの時代にも、アメリカ経済は長期にわたって拡大しているが、成長の速度も、国民への富の分配状況も、それぞれ異なっている。初期にごく一握りの富裕層が、高価でしかも――今日から見れば――信頼性の乏しい自動車を購入したからこそ、自動車産業は成り立つことができた。
やがて、数百ドルの自動車を購入する人々が増え、〈T型フォード〉のような廉価な車種が生み出された(〈T型フォード〉は市場が長く待ち焦がれていた製品だったといえるかもしれない)。1920年代に入ると、自動車産業が牽引役となって経済がさらに拡大した。こうして数多くの複雑な要因が生まれ、市場は再び大きく変貌することになった。自動車産業は大きな転換期を迎えようとしていた。
では、新しい要因とは何か。おそらく4つにまとめられるだろう。①割賦販売、②中古車の下取り、③クローズド・ボディの登場、④年次のモデルチェンジ(自動車を取り巻く環境まで考えに入れるなら、「道路の整備」という項目も加えたい)。
これらはいずれも、今日では業界に深く根を下ろしており、自動車市場と不可分の関係にある。1920年代前半までは、自動車の買い手は初回購入者がほとんどだった。支払方法は現金あるいは個別仕様のローン。製品はロードスターもしくはツーリング・カーで、モデルチェンジは稀にしか行われなかった。
このような状況は何年も続いていたが、ひとたび流れが変わると、ごく短期間にすべてが激変した。個々の要因は異なった時期に生まれ、異なったスピードで変化していったが、それらが相まってやがて大きなうねりとなっていった。
割賦販売の開始
自動車販売に割賦制度が取り入れられたのは、第1次世界大戦(1914~18年)の少し前である。割賦販売というある種のローン制度が普及したことで、自動車のように値の張る製品でも、多くの人々が簡単に購入する道が開けた。
制度の普及状況については、統計データがきわめて不十分だが、間違いなくいえることは、1915年にはごく珍しかったにも関わらず、10年後の1925年には新車のおよそ65%が割賦で販売されるようになっていたということである。
所得が右肩上がりで伸び、その傾向が続くだろうとの見通しが一般的だったため、消費者は当然、より高品質の製品を求めるようになった。私たちは、割賦販売の普及によってこのトレンドに拍車がかかると予想した。
下取り制度は、顧客がマイカーを売って新車購入の頭金に充てようとしたことに始まり、次第に定着していった。これはディーラー制度のみならず、製造をはじめとする自動車生産全般に革命的な変化を引き起こした。それというのもカーオーナーの大多数が、耐用年数の残った状態で新車への買い換えを考えるようになったからである。
下取り制度の普及に関しても、1925年以前の統計は皆無に等しいが、第1次大戦以後、飛躍的に広まったと考えてよいだろう。理由は明快で、それ以前は自動車自体がほとんど普及していなかったのである。1920年代の初めまでは、自動車の買い手はほとんどが初回購入者で占められていた。アメリカの乗用車普及台数は、1919年から29年にかけて年々急増していった(図「アメリカの乗用車普及台数と生産台数」を参照)。
この生産ペースなら、パイの拡大と買い換え需要の両方に十分に応えられた。中古市場に出された車は一般に、2、3人の持ち主を経てからスクラップ化されていたため、中古車の下取り件数は増え続けていたと考えられる。
クローズド・ボディは、第1次世界大戦以前はきわめて稀で、注文生産の対象だったが、1919年から29年にかけてその全体に占める比率は増え続けた。
モデルチェンジについては、詳しくは後述する。ただし、1920年代初めまではモデルチェンジを頻繁に行うという発想は一般的ではなかった、フォードなどはむしろそれと相反する考え方の下、同一モデルを長年売り続けていた。
〈シボレー〉の地盤拡大を目指す
GMの経営陣は、ウィリアム・デュラント退陣後の1921年にはすでに、これら4つの変化に気づき始めていた。
割賦販売への対応としては、1919年にGMAC(GMアクセプタンス・コーポレーション)を設立している。クローズド・ボディ製造の先駆けであるフィッシャー・ボディにも出資していた。GMは中価格以上のセグメントを主な市場としていた関係上、中古車の下取り要望にも応えていた。車種の改良にも毎年努めていた。
それでも、今日から振り返ってみれば、4つの変化――なかんずくそれらの相互作用――が市場全体に大きく広がりつつあるとは意識していなかった。私たちにとってこれらの動きは、市場データを通して浮かび上がってくる不確実性、馴染みの薄い新しい現象にすぎなかった。しかし、1921年の製品ポリシーを支える考え方は、市場のトレンドに合っており、その親和性は強まっていくばかりであった。
1921年にこの製品ポリシー――あるいはプラン、戦略など、どのように呼んでもよいのだが――を打ち立てたからこそ、20年代にGMは単に幸運を追いかけるのではなく、変化の激しい市場に自信を持って挑むことができた。
製品ポリシーの核心にあったのは、中価格車と低価格車(フォード)の間に〈シボレー〉を位置づけ、ニッチを拡大していくといった戦略的発想である。当初はこの一点のみが実質的な意味を持っており、自動車市場全体に関する戦略構想は漠然としていた。
とはいえ、ポリシーの実行は一時足踏みを余儀なくされた。銅冷式エンジンの開発に邁進した時期、GMはエンジニアリング分野の夢を追い求め、ビジネスの基本をないがしろにしてしまったのだ。
私たちを目覚めさせてくれたのは、「年間販売総数400万台時代」の到来である。1923年のことだった。この年、〈シボレー〉はおよそ45万台を売り上げている。GMはバラ色の未来を描いたが、翌24年の景気後退によってそれは無残に打ち砕かれた。
そこで私たちは再び目を覚ました。1921年に立てた製品ポリシーを真に意義あるものにするためには、製品そのものを変えなければならなかったのである。
ある事実が私たちの心に特に重くのしかかってきた。1924年、業界全体の販売減が12%であったのに対して、GMはマイナス28%を記録したのである。市場全体の対前年度マイナスは43万9000台。この実に半数近くにGMが「貢献」していた。
フォードが市場シェアを50%から55%に伸ばす一方、GMは20%から17%へと低下させた。〈ビュイック〉と〈キャデラック〉の販売も減少したが(不況時に値の張る車種が売れなくなるのは予想されたことである)、大打撃を受けたのは〈シボレー〉で、減少幅は37%にも及んだ。しかも、〈シボレー〉とほぼ同じ価格帯の〈フォード〉は4%しか減っていない。
もちろん、原因は1924年のさまざまな出来事やマネジメント上の失策だけではなく、それ以前からの出来事に不況が追い撃ちをかけた結果だった。自動車産業に特有の事情として、設計から生産までには長い期間がかかるという点が挙げられる。ある年の施策は――少なくとも部分的には――2、3年も前の意思決定を踏まえたものなのである。
したがって、1924年に〈シボレー〉の販売が低迷したのも、それまでの3年間に製品開発が滞った結果だろう。とりわけリアエンド(後部)のデザインは評判が芳しくなかった。
欠点をあげつらっても役には立たないが、悔やまれることに、本来私たちは製品をどこまでも改良していくはずであった。アクセサリーも豊富に用意して、輸送手段として充実させていくはずであった。〈シボレー〉に至っては、やや高めの価格設定と大きな魅力によって、〈T型フォード〉から顧客を奪えるはずだった……。
1921年の製品ポリシーと24年に市場に出回っていた〈シボレー〉――この両者の間には、埋めがたいほど大きなギャップがあった。だが、ポリシーは断固として変えなかった。販売不調の原因は十分に理解していたつもりである。
1923年夏に銅冷式エンジンのプロジェクトが中止になるや、O. E. ハント率いる〈シボレー〉のエンジニア陣は、既存車種のモデルチェンジに全力を傾けるようになった。
その成果は1925年モデルイヤーに〈K型シボレー〉として結実する。〈K型シボレー〉はそれまでにない特徴に満ちていた。ロングボディ、ゆとりのレッグルーム、アールデコ調の内装、クラクション、高性能のクラッチ。クローズド・カーには一枚仕立てのフロントガラスと自動ワイパーが、コーチとセダンにはルームライトがつき、不評だったリアエンドも大幅に改良されていた。
「革命的」と評するには程遠いかもしれないが、既存モデルと比べると長足の進歩で、それまでイメージでしかなかったものが初めて現実となった。〈K型シボレー〉は好景気の波に乗り、1925年には〈シボレー〉ブランドを失地回復へと導いた。その年の工場出荷台数は48万1000台。対前年度比64%増で、ピークだった23年をも6%ほど上回った。
フォードの販売台数は、乗用車、トラック合計でおよそ200万台とほぼ横ばいだったが、市場全体が24年から25年にかけて目覚ましく拡大したため、シェアは54%から45%へと下がっている。ヘンリー・フォードが気づいていたかどうかは別として、フォードにとって危険な兆候が見え始めていた。
もっとも、低価格車市場では依然として70%近いシェアを持ち、価格290ドル(スターターと取り外し可能なホイールリムを除いた価格)のツーリング・カーは不動の地位を築いているように見受けられた。〈シボレー〉のツーリング・カーは、アクセサリーや機能が多かったため単純に比較はできないが、510ドルだった。
〈フォード〉のセダンはスターター、取り外し可能ホイールリムを加えて660ドル、〈K型シボレー〉は825ドルであった。ただし、ディーラーの値引き幅は〈シボレー〉のほうが大きかったため、実勢ベースでは価格差はもう少し小さかったはずである。
フォードにいかに追いつくか
当時シボレー事業部は、フォード車よりも優れた価格性能比を実現して、高い評判を築くことを目指していた。事実、アクセサリーなどの条件を揃えたうえで比べれば、〈フォード〉と〈シボレー〉の価格差はそれほど大きくなかった。
品質に関しても、「価格差を上回る品質差を実現しています」と買い手に訴えていた。そのうえで、たゆまぬ改良を続けていくことを誓った。フォード車に関しては、飛躍的な改良はありえないだろうとにらんだ。GMはプランを実行に移し、おおよそ計画どおりに進めていった。
〈K型シボレー〉は市場から強く支持されたが、価格差も手伝って、〈T型フォード〉から多数の顧客を奪うには至らなかった。それでも私たちは、やがては大きな市場支配力を手にして〈T型フォード〉の水準にまで価格を下げようと考えながら、前進を続けた。
1921年の製品ポリシーにあるように、GMは全車種について、「価格とデザインの魅力で、上下のセグメントから買い手を引き寄せる」ことを狙っていた。〈シボレー〉はより低価格の〈フォード〉に対抗する車種だった。同じように、上のセグメントから〈シボレー〉に脅威が及ぶことも考えられた。1924年に私たちは、この点を強く意識しながら〈K型〉の市場投入準備を進めた。
その年、GMの価格リストを見ると、いまだ1921年の製品ポリシーを十分に実践できずにいることを痛感させられた。売れ筋は依然としてツーリング・カーでその価格は以下のとおりであった。
・キャデラック――2985ドル
・ビュイック6――1295ドル
・ビュイック4――965ドル
・オークランド――945ドル
・オールズ――――750ドル
・シボレー――――510ドル
高価格帯の〈キャデラック〉と〈ビュイック6〉、低価格帯の〈オールズ〉と〈シボレー〉の間にはそれぞれ、大きな価格差があった。対策として私は、キャデラック事業部に「2000ドル前後のファミリー・カーを投入してはどうか」と提案した。
ここから生まれたのが〈ラ・サール〉で、1927年に発売され一世を風靡した。
だが、価格戦略から見て何より危険だったのは、〈オールズ〉と〈シボレー〉の間にあるギャップだった。両者の中間に新車種を投入すれば、大きな売上げにつながるように思われた。GMが〈シボレー〉を武器にフォードを追い詰めようとしていたのと同じように、〈シボレー〉が他社から追い詰められる危険があった。
新車の構想
そこで、需要に応えるためにも、また他社の機先を制するためにも、この隙間市場を埋めておかなければならなかった。このような考えからGMは、その社史を通してもきわめて重要な判断を下すことになった。6気筒エンジンを搭載した新車種を、〈シボレー〉よりやや上の価格帯に投入することにしたのである。
エンジニアリングの観点から私たちは、いずれ6気筒、8気筒が主流になるだろうと考えた。同時に、戦略の観点からは、規模の経済も求められた。新車種は一部顧客層をめぐって〈シボレー〉と競合することは避けられないため、十分な規模の経済を得られなければ、〈シボレー〉と「共倒れ」になりかねない。私たちは、新車種に部分的に〈シボレー〉の設計を生かし、それによってコストを下げることにした。
このアイデアについては、私が社長に就任してまもなく、ハント、ヘンリー・クレーン(社外の技術顧問)と話し合った。すでにその時、ボディと車台を銅冷式、水冷式両方に対応させるという経験を通して、貴重な教訓を得ていた。次世代のエンジンがいずれに落ち着くか不明確だった時期のことである。
6気筒車を開発するに当たっては、〈シボレー〉のボディと車台を転用したいと考えた。6気筒は4気筒よりも高い走行性を実現できなくてはならない。そのためには、ホイールベースを長くし、エンジンの排気量と馬力を高める必要があった。車両重量も増すはずだった。長く深いフレーム、重い前方車軸、クレーンが提案したショートストロークのL型6気筒エンジンなど、新しい要素も加えることになった。
設計は本社のエンジニアリング委員会の手で進められていたが、私はこの新車種を商用化するに当たってどの事業部の管轄とすべきか迷っていた。
そんな折、オークランド事業部のゼネラル・マネジャー、ジョージ H. ハナムから「開発以降を当事業部で引き受けたい」との申し出があり、私は1924年11月12日付で回答を記している。そこには〈シボレー〉との協調開発、さらには競合対応についての私の考え方が示されている。
10月11日付でデトロイトのオフィスに書面をいただいていましたが、ご存じのように〈ポンティアック〉と新車種の関係について考えが定まっていなかったため、返事が遅れました。しかし、いただいた書面はこの間、何度もじっくりと目を通し、最良の選択にたどり着こうとしてきました。
私の心のなかでは以前からはっきりしている点があります。くだんの新車種には市場があるが、GMが手をこまねいていれば早晩、他社に占領されてしまうということです。GMが市場を完全に押さえられるのであれば、私もさほど気を揉まないでしょうが、幸か不幸かそうではないため、他社の動きに注意を払わなければなりません。
議論のプロセスで難しい問題が持ち上がってきました。〈シボレー〉をベースにするとの構想がゆらぎ始めているのです。議論のつど、さまざまなアイデアが飛び交い、皆の意見を取り入れていたら〈オールズ〉や〈オークランド〉、いえむしろ、〈ビュイック〉や〈キャデラック〉とほとんど変わらない車種になってしまうでしょう。
つまり、〈シボレー〉の車台に6気筒エンジンを搭載するという基本路線を守らない限り、成功はおぼつかないのです。この点はご理解いただけるでしょう。
そこで私は、このプロジェクトをスムーズに進めるためには、シボレー事業部に開発を委ねるべきだとの結論に達しました。そうすれば、〈シボレー〉の資産をできる限り生かそうとの力が働くでしょう。他の方法を取れば、エンジニアのごく自然で望ましい性質として、自分の意志とアイデアを仕事に反映させようとするに違いありません。
それに反した選択をすることは、自動車全般の発展にとってはマイナスかもしれませんが、このプロジェクトに関してはプラスであるはずです。新しい車種は〈シボレー〉をベースにして、その部品、製造工場、組立工場などを生かして世に出すのです。量産体制に入ってからでないと無理かもしれませんが、この方針が変わることはありません。
以上のような考えから、私は諮問委員会のウィリアム・ニュードセン氏とも相談したうえで、すべてをエンジニアリングのプロであるハント氏に委ねることにしました。ハントにはこれまでの経緯を踏まえたうえで、慎重に現状を見極め、前向きにプロジェクトを進めることを期待しています。
シボレー事業部は、独自にエンジンの開発を進めていますから、両プロジェクトを歩調を合わせながら進められるでしょう(以下省略)。
〈ポンティアック〉の開発
これを記した日、私は経営委員会に同じ件で報告書を提出している。『〈ポンティアック〉の現状』というタイトルで、ここにも私の考え方が明らかになっている。以下そのなかから、意思決定の詰めに関わるコスト、競争、調整、社内の役割分担などを論じた部分を引用したい。
財務責任者のドナルドソン・ブラウンが部下に指示してコストを算出してくれた。議論の余地が残されているとはいえ、大筋では妥当だろう。新しい車種を仮に700ドル前後として、間接費を他のコストと同じ基準で配賦すると、十分な利益を見込むことができる。申し分のないリターンが得られるのである。
ここで参考にしたのは〈オールズ〉エンジンのデータだが、高コストであるため、実際には別のエンジンを使うことになるだろう。コスト、株主へのリターン、どちらに着目しても、このプロジェクトはきわめて有望である。何としても前に進めなければならない。
加えて、未確認ながら、競合他社に同じような動きがあるようだ。新車種が〈オールズ〉〈シボレー〉と“共食い”をするおそれがあるとはいえ、他社に市場を奪われるよりは自ら攻勢に出るべきだろう。GM車同士の競合、他社との競合とも、いずれは現実のものとなりそうである。
この構想は1年前から検討してきたが、率直なところ、これまでほとんど進展を見せていない。このテーマを議論の俎上に載せるたびに、経営委員会の面々は実現性に首を傾げるようである。
だが、私自身は確信するに至った――このプロジェクトは、既存組織から独立したエンジニアリング部門、あるいは“生みの親”であるオークランド事業部に委ねたのでは、けっして成功させることはできない。
成果を上げる唯一の道は、シボレー事業部に任せることである。そうすれば、車台の共有化も無理なく行えるだろう。エンジニアたちの自然な性向――自分の意志やアイデアを仕事に反映させようとする性質――に影響されてプロジェクトが本来の方向から逸れるようなことはないだろう。言い換えれば、適切な方向にプロジェクトが進むのである。
この報告書の大きな意義は、2車種の協調開発をいかに進めていくかを論じている点である。それというのも、〈ポンティアック〉はいち早く製造の規格化に取り組んでいたのである。規格化は大量生産の基本には違いないが、当時の「大量生産」は、〈T型フォード〉に代表されるように、あくまでも単一の製品を前提としていた。
ところが〈ポンティアック〉は、複数の車種で規格化を進め、この分野での先駆けとなった。これはフォードと対極にある発想である。GMはすべてについてフォードと逆の発想をした。
GMは5つの価格セグメントにそれぞれ車種を投入し、車種によっては複数のモデルに分けていたため、〈ポンティアック〉が切り開いた規格化路線は、全製品ラインに大きな影響を及ぼした。
仮に低価格車のスケール・メリット(規模の利益)を高価格車にまで及ぼすことができれば、全製品が大量生産の恩恵に浴すことになる。この考え方によって1921年の製品ポリシーは厚みを増し、程度の差はあるにせよ、やがてすべての製品に取り入れられることになる。
問題の〈ポンティアック〉はシボレー事業部で組み立てとロードテストが行われ、その後“古巣”のオークランド事業部の全面的な責任の下、〈オークランド〉の姉妹車として開発の最終フェーズ、生産、セールスなどが進められた。1926年モデルイヤーに照準が合わされていた。
このプロジェクトと時を同じくして――しかしほとんど無関係に――新しい動きが生まれ、〈ポンティアック〉、〈シボレー〉、〈T型フォード〉の先行きを大きく揺るがすことになる。
1921年、ハドソン・モーター・カンパニーのロイ・チャピンが、〈エセックス〉のコーチ・モデルを、従来のツーリング・モデルより300ドル高い1495ドルで市場に投入したのだ。これは業界の通例と比べると小さい価格差であった。
1923年には〈エセックス〉4気筒コーチは1145ドルに値下げされ、翌24年には後継車種の6気筒が975ドル――ツーリング・モデルよりも125ドル高い価格――で投入された。
さらにその年の夏、値上げによってコーチ・モデルが1000ドル、ツーリング・モデルが900ドルとされた。ところが25年の初めになると、コーチが895ドル――ツーリングより5ドル低い価格――となった。
自動車業界始まって以来の大胆な試みによって、〈エセックス〉コーチは大人気を博した。このことから、クローズド・カーが大量生産によって価格を下げていけば、いずれ低価格車市場でも優勢になるだろうと思われた。
これはいずれにしても時代の趨勢となったのだろう。だが〈エセックス〉の動きに刺激されて、GMはクローズド・ボディの開発と、新型〈ポンティアック〉の市場投入準備にますます熱心に取り組むようになった。
もっとも、クローズド・ボディへの移行はすでに進んでいた。1924年9月18日には経営委員会で、「クローズド・カーの人気が急激に高まっているようである。オープン・カーの開発・生産には慎重のうえにも慎重を期さなければならない」との注意喚起が行われている。
10月にはクローズド・カーの生産を、(それまでおよそ1年間の実績である)全体の40%から、11月以降は75%へとアップさせることが決まった。さらに1年後の1925年末には、その比率はほぼ80%に達している。
私の記憶にある限り、〈ポンティアック〉は〈エセックス〉から直接の影響を受けて開発されたわけではないが、〈エセックス〉と競合することは確実であった。〈ポンティアック〉は、クローズド・ボディ――クーペとコーチ――のみを開発することになった。
1925年9月30日の経営委員会で私は、自信を持ってこう宣言した。
「12月に〈ポンティアック〉を発売できる運びとなった。〈シボレー〉の部品を生かして、6気筒車としては可能な限り価格を抑えた。GMの粋を集めた新型車が登場するのである」
10月21日にはやはり経営委員会の場で、市場での競争が激しくなっていることを訴え、その全般的な状況を説明した。議事録から一部を抜粋しておきたい。
「〈シボレー〉に対して、やや上の価格帯から〈エセックス〉が、低価格帯からは〈T型フォード〉が猛烈な攻勢をかけている(フォードは価格低下よりも、品質向上を重視した戦略に転換したようである)」
〈ポンティアック〉はスケジュールどおり、1926年モデルイヤーに市場に投入された。コーチ・タイプの価格は825ドル。〈シボレー〉コーチ・タイプの645ドルと〈オールズ〉コーチ・タイプ950ドルのほぼ中間である。これで、〈シボレー〉と〈オールズ〉の価格ギャップが埋められた。
このようにして、GM各車種が価格面で適切に棲み分けるようになった。高価格セグメントには〈キャデラック〉(最高価格車)、〈ビュイック〉。価格ピラミッドの底辺は〈シボレー〉の定位置となった。
オークランド事業部は、やがて〈オークランド〉の製造を中止、〈ポンティアック〉のみに絞り、ブラントに合わせて事業部名も改めた。〈ポンティアック〉は当初のコスト構造を保ちながら、独自性を強めていった。
そして、〈ビュイック〉と〈ポンティアック〉の間に〈オールズ〉があった。全車種を価格の高い順に並べると〈キャデラック〉、〈ビュイック〉、〈オールズ〉、〈ポンティアック〉、〈シボレー〉となる。そう、今日とほとんど変わらない製品ラインが築かれたのである。
1920年代の車種すべてについて、その発展を詳しく説明するのは控えたい。〈オールズ〉と〈オークランド〉は存在感が薄かった。〈ビュイック〉は全般的には売れ行きが好調だったが、その時々で波があった。〈キャデラック〉も高価格セグメントにリーダーとして君臨していたが、1925年の初め以降一時、その地位を他に明け渡した。
これらの車種に関しては興味深い事実が少なくないが、ここではむしろ、当時最も大きなインパクトを持った変化について述べたい。規模の大きな低価格市場――GMがフォードに戦いを挑んだ市場――での変化である。
このセグメントでの競争のゆくえは、クローズド・カーによって決定づけられた。私はそう考えている。クローズド・カーの登場は、自動車が十分な信頼性を得て以降、最大の進歩といえるだろう。
クローズド・ボディの登場によって、自動車は年間を通して快適に乗れるようになり、用途が広がった。価格はオープン・ボディより高く、1925年式〈K型シボレー〉について見ると、コーチ、セダンはロードスターに比べてそれぞれ40%、57%ほど割高だった。
〈エセックス〉は量産型クローズド・カーの先駆けでありながら、オープン・カーとさほど変わらない価格水準だった。快挙には違いないが、けっして安価ではなかった。〈シボレー〉を圧迫してはいたが、低価格車ではなかった。
〈シボレー〉のほうは、1925年の段階で――〈T型フォード〉より依然として高めだったとはいえ――低価格のクローズド・カーとしてのポジションを確立していた。
クローズド・ボディの普及は目覚ましく、業界全体で1924年に43%、26年に72%、27年に85%を占めるようになった。〈シボレー〉について見ても、40%、73%、82%となっている。大きな変化だった。
クローズド・ボディが普及を始めると、フォードは低価格市場での覇権を脅かされた。フォードが社運を賭けた〈T型フォード〉は、オープン・ボディを前提とした設計思想に貫かれており、車台が軽いため、クローズド・タイプの重たいボディを支えられなかった。こうして2年足らずの間に、すでに時代に合わなくなっていた〈T型フォード〉は技術面での競争力を失っていった。
このような状況にもかかわらず、フォードは〈T型〉のクローズド・ボディを売ろうとした。1924年には、〈T型〉販売総数の36%がクローズド・タイプで占められていた。続く3年間、市場全体のトレンドとは裏腹に、その比率は伸び悩み、26年が51.6%、27年が58%にとどまった。同じ期間に〈シボレー〉は、クローズド・ボディの比率を82%にまで上げている。
〈シボレー〉はコストが低く、価格を抑えられたため、1925年から27年にかけて、狙いどおり〈T型フォード〉への対抗力を強めていった。〈シボレー〉2ドア・コーチが735ドル、695ドル、645ドル、595ドルと値を下げていったのに対して、〈T型フォード・テューダー〉は1925年580ドル、26年6月565ドル、27年495ドルと推移している。
このようにして、21年の製品ポリを武器にGMは〈T型フォード〉を追い詰めていったのだが、その過程では大きな驚きに遭遇した。王者フォードが変化に対応できなかったのである。なぜか。私にもその答えはわからない。センチメンタルな言い伝えによれば、フォードは自動車を安価な普及型の輸送手段にしたとされている。
だが現実のフォード車は、必要最低限の輸送手段としてさえも、十分な価格性能比を維持できなくなっていた。
1925年から26年にかけて、〈シボレー〉が〈フォード〉を猛追していたことは疑いない。25年には両ブランドの工場出荷台数はそれぞれ48万1000台、200万台であった。26年には69万2000台、155万台とその差が縮まっている。
規模を強みとしてきたフォードが、その力を急速に失い、売上げ、利益を何とか死守しなければならない状況に陥っていた。〈T型フォード〉はエンジニアリングと市場の変化についていけなかった。
そのようななか、フォードは衝撃的な行動、見方によっては自殺行為にも等しい行動を取った。1927年5月に、かのリバールージュ工場の操業を停止し、設備更改のためにほぼ1年にわたって閉鎖を続けたのである。
低価格市場は〈シボレー〉の独壇場となり、やがてクライスラーの〈プリマス〉を迎えることになる。フォードは1929年、30年、35年と販売台数トップの座を奪回するが、GMの前に概して劣勢に立たされていた。
かつて天才的なひらめきを随所に見せたヘンリー・フォードだが、市場が180度変貌したことをついに理解しなかったようである。ヘンリー・フォードが知り尽くした市場、氏に不朽の名声をもたらした市場は、もはや過去へと消え去っていた。
より快適な車への需要
ここでしばし、1923年――自動車の市場規模が初めて400万台に到達した年――に話を戻したい。この年から29年まで、若干の変動はあったが、新車の販売台数はほぼ同じ水準で推移している。
他方、普及台数のほうは伸び続けている。中古車を含めた自動車市場全体は拡大していたが、新車市場の伸びは止まり、メーカーとしては、買い換え需要に応えながら、初回購入者を開拓していかなければならなかった。
基本的な輸送手段の需要は、新車よりはるかに安価な中古車が満たしていた。新車はそのような需要に応える必要がなくなっていたが、ヘンリー・フォードはその事実を見落としていた。この一点だけからも、1923年以降、フォードのアメリカ市場についての認識が現実とずれていたように思う。
23年以降、ヨーロッパとは異なって、アメリカの自動車市場では、「人や物をただ運べればそれでよい」といった需要は、主に中古車が満たすようになっていったのである。
顧客が1台目を売った代金を頭金に充てて、2台目を購入しようとする場合、求めているのは付加価値の高い自動車である。中所得者層は、下取りや割賦販売といった制度に助けられて、需要を形成していたが、望んでいたのは単なる輸送手段ではなく、パワー、先進性、快適性、利便性、デザイン性などを備えた車であった。
このようなアメリカ人のライフスタイルを理解し適応したメーカーが、繁栄を手にすることになる。
以上のように、割賦販売、中古車の下取り、クローズド・ボディ、年次モデルチェンジという4つのファクターが1920年代に生まれ、互いに作用し合って、市場を変貌させていった。このうち、これまで詳しく説明してこなかったファクターがある。モデルチェンジである。
新しい販売政策の必要性
当時、いずれのメーカーも「年ごとにモデルチェンジを行う」とは宣言していなかった。しかし、より優れた車種を提供していくために、当然なすべきことであった。これに伴って、洗練された販売手法も求められるようになった。
1925年7月29日のセールス委員会で、私は次のような方針を打ち上げた。
GMは大メーカーとなり、「適正な価格で高品質の製品を提供していく」との目標を掲げてきた。他社は別の方針を取っているところもあるようだが、社内ではこの方針が正しいということで認識が一致しているはずだ。ただし、このような道を歩もうとすると、品質向上にコストをかけながら、利益を確保しなければならないため、セールス部門の負担が増すことになる。
セールス部門の名誉のために述べれば、これまで一部の車種によってGM車の評判を引き下げられていた。だが、新製造年度からはそのようなことはなくなる。
すべての車種を、胸を張ってお客様にお勧めできるはずだ。だれ一人として異を唱える者はいないはずである――新しい製品ラインアップは、100%の信頼性を持っている。価格も競争力があり、同時にコストにも見合っている。
価格を低減できたのは、一つにはコストを抑えられたことによる。特に、フィッシャー・ボディがクローズド・ボディを増産して、そのコストを下げたことが大きい。品質を保ちながら設計を変更したことも、低コスト化に貢献している。ただし、忘れてはならない点がある。利益も減少しているのである。
少し説明したい。過去6カ月間と同じ台数を、新しい価格・コストで販売したとすると、利益はおよそ25%もダウンする計算になる。
現状を見る限り、販売台数はさほど上向いていない。上半期の高業績は、利益幅の大きさに支えられている。本年度の小売販売台数は、これまでのところ昨年度とほぼ同じ水準にある。
従来も価格は――基本的には――妥当な水準だったが、8月1日以降の価格ラインアップによって、他社よりも有利に競争を展開できることは間違いないだろう。むしろ、新しい価格は、販売台数が増えることを前提に成り立っている。
そして、台数を売るためには、セールス部門に大きな役割を果たしてもらわなければならない。新しいラインアップを価格、品質の両面から眺めてみれば、疑いようがないだろう。販売を伸ばせるかどうかはひとえにセールス努力にかかっている。まさにセールス部門の力にかかっているのだ。
続いて私は、「フットワークの悪い大企業病にかかってはいけない」と檄を飛ばし、結びに自動車産業が新しい時代を迎えたことを一同に告げた。
マーケティングに関しては、多くの面でより大胆に、よりアグレッシブに動くべきではないだろうか。私はかねてから感じていた。GM全社として、セールス努力が足りないのではないかと。もとより、自動車業界全体が、主に技術畑の人材によって築き上げられてきたのは事実である。だが、いまこそ、営業・セールスの重要性に目覚めるべきだろう。
その後、「GMは動きが鈍い」というのが私の杞憂だったことがはっきりした。アメリカン・フットボールの監督が、最強チームの力を見くびっていたようなものである。
「高品質車を適正な価格で提供する」とのスローガンは、より優れた車種を提供していくという基本方針を表したもので、1921年の製品ポリシーにも通じている。
これに沿って、事業部ごとに強力なディーラー組織を設けることも求められていた。熱意のあるディーラーを戦略的に育成して、新車・中古車の販売を通して健全な利益を上げてもらうことが欠かせなかった。詳しくは後の章に譲りたい。
以上のように、すべては関連し合っている。方針を決めてから歩を進めたところ、目の前の霧が晴れ、すべてがうまくいくようになった。製品については、たゆまぬ改善を続けていくという方針を基にスタートした。
1925年に〈K型シボレー〉を改良したのは、すでに述べたとおりである。同じ年、〈シボレー〉向けに6気筒エンジンの開発にも着手している。1926年にはキャデラック事業部が業界に先駆けて、スタイリングを独立の機能として重視するようになった。
1927年から28年にかけては、〈シボレー〉のスタイリングを改めた。28年、〈シボレー〉に四輪ブレーキを取り入れると共に、エンジンの6気筒化に備えてホイールベースを4ほど長くした。ところが、新型エンジンの導入は1929年にずれ込み、フォーインチドが先に4気筒〈A型〉を世に出した。
1925年7月29日のセールス委員会に話を戻すと、この席上、年次モデルチェンジを議論の俎上に載せはしたが、正式な取り組みとするのは極力避けるようにしていた。この時の議事録は『年式モデルチェンジと継続的な製品改善』というタイトルで残されている。
実際には、GMは1923年以降毎年モデルチェンジを重ねていった。しかし議事録を見る限り、25年当時は今日とは違って、年次モデルチェンジを正式な方針として掲げていたわけではない。いつの時期から既定路線になったのかは定かではない。徐々に方針としてかたちづくられていったのだろう。年ごとに改良を行い、モデルチェンジの必要性を認識するようになった結果、必然的に定期化というかたちに落ち着いたのだろう。
おそらく30年代のことだと考えられる。それと並行して「年次モデルチェンジ」が意識されるようになった。当時ヘンリー・フォードはすでに老境にさしかかっており、この新しいコンセプトには関心を示さなかったようだ。1928年発売の〈A型フォード〉は、当時としては小型で洗練された車種だったが、ここにも「モデルチェンジをしない実用車」というコンセプトが示されていた。
フォードが新モデルの不足によって工場を閉鎖していた間、私は心のなかでこう考えていた。フォード、GMの方針はいずれも将来にわたって生き続けるだろう。フォードは、従来の考え方に沿いながらも、最新トレンドに合った車種を生み出していくだろう――。
1927年当時私は、フォード流の発想が淘汰されるとは思ってもみなかった。「どこまでも製品改良を重ねていく」というGMのポリシーによって、〈シボレー〉は販売を伸ばしていたが、〈シボレー〉の勢いにも増してGMの企業力が高まっているとは、考えていなかったのである。
※本連載は、再編集の上、書籍『【新訳】GMとともに』に収められています。
[著者]アルフレッド P. スローン, Jr.
[翻訳者]有賀裕子
[内容紹介]ゼネラルモーターズ(GM)を世界最大の企業に育てたアルフレッド P. スローン Jr. が、GMの発展の歴史を振り返りつつ、みずからの経営哲学を語る。ビル・ゲイツもNo.1の経営書として推奨する本書には、経営哲学、組織、制度、戦略など、マネジメントのあらゆる要素が詰まっている。
有賀裕子/訳
DHBR 2002年9月号より
(C)1963 Sloan, Alfred P., Jr.
アルフレッド P. スローン, Jr.(Alfred P. Sloan, Jr.)
ゼネラルモーターズ元会長。1875年生まれ。1920年代初期から50年代半ばまでの35年間にわたってゼネラルモーターズ(以下GM)のトップの地位にあった。20年代初めに経営危機に陥ったGMを短期間に立て直したばかりでなく、事業部制や業績評価など、彼が打ち出したマネジメントの基本原則は現代の経営にも大きな影響を与えている。彼のGMでの経営を振り返り、63年にアメリカで著したのが『GMとともに』である。同書は瞬く間にベストセラーとなり、組織研究や企業現場のマネジャーに大きなインパクトを与えた。『GMとともに』が刊行された3年後の66年に没した。