GM独特の財務統制

 ゼネラルモーターズ(以下GM)は、1920年代にさまざまな分野の社内委員会を設けて、全社の足並みを揃えていった。それに伴って、財務分野でも全社的な協調が目指されるようになった。GMが大きく羽ばたくことができたのは、事業部制と製品ポリシーを構築したことに加えて、社内の総力を結集する体制を整えたことが大きいだろう。

 ウィリアム・デュラントから経営を引き継いだ後、私たちは財務コントロールの仕組みを改めなければならないと強く感じていた。しかし、あるべき姿は何か、どのように実効を上げればよいのか、答えは見えていなかった。

 GMの財務体制を築くうえで大きな役割を果たしたのは、ドナルドソン・ブラウンとその若き同僚アルバート・ブラッドレーである。ブラウンは1921年初めにデュポン社からGM入りし、ブラッドレーはそれに先立つ1919年に入社している。ブラッドレーは後にブラウンを継いで財務部門のトップとなり、さらには私の後任として会長を務めることになる。

 私自身は財務に関しては、事業部間取引や予算配分を中心にリポートを記すことはあっても、主に実務に携わってきた。財務手法を応用して事業を推進することも私の使命だった。財務は単独ではなく、事業との関わりのなかでのみ意味を持つのである。

 すでに述べてきたとおり、デュラントは財務について体系的に考えることをしなかった。体系的に事業を進めるタイプの経営者ではなかった。それでも、デュラントがトップの座にあった間にGMには近代的な財務の考え方がもたらされた。デュラントがデュポン社の人々をGM財務委員会のメンバーとして迎え、財務業務の遂行を委ねたのである。

 デュポン社は大株主としてすでにGMに取締役を派遣していたが、財務面でもこのうえなく大きな力となってくれた。GMの草創期、デュポン社から財務・会計のプロフェッショナルが多数送り込まれ、枢要なポジションを占めていた。ブラウンもその一人である。

 ブラウンも私も「事業は規律に従って子細にコントロールすべきだ」と考えていた。ブラウンがGM入りした時、私たちは互いの考え方が近いことに気づき、以後長年にわたって親しく交流を続けることになった。

財務管理面の3つの問題点

 デュポン社出身の人々は、1917年にGMの経営に参画して以来、各事業部門への予算配分にROI(投資収益率)の概念を取り入れようと努力を重ねていた。ところがジョン A. ラスコブは、通常は正しい判断をするにもかかわらず、GMの業績を評価する仕組みは用意していなかった。

 GMではこれまでに述べたとおり、拡大路線を取っていた1919年に、支出にブレーキがかからないという問題が持ち上がり、1920年に不況が訪れると、在庫のとどまるところのない増加とキャッシュフローの悪化によって経営危機が進行した。

 予算の超過、在庫の膨張、その結果としてのキャッシュフローの悪化。これら3つの危機を通して、コントロールと調整の欠如が露わになった。このような状況を克服しようとするなかから、財務面での調整とコントロールが行われるようになっていった。

 財務手法は今日ではきわめて洗練されているため、機械的な作業との印象を与えるかもしれないが、事業の現状を示すデータを集めて説明する財務モデルは、戦略的な判断を下すための重要なベースである。

 とりわけ危機に際しては、あるいは事業が拡大・縮小している時には、それが強くいえるだろう。GMは1920年に厳しい現実を突きつけられ、後の重要な時期にその教訓を生かしていったのである。

 1919年と20年には、予算のコントロールが利いていなかったため、各事業部トップの「言い値」のままに予算が認められ、社として要求額の妥当性を検証することも、総額を現実的な水準に抑えようと試みることもなかった。これに過大支出と在庫増加が重なって、事業資金が底を突き、新たな資金調達が求められるようになった。

 そこでGMは普通株式、優先株式、社債などを発行しようとしたが、さまざまな困難に直面して、期待どおりの額を調達することはできなかった。そこで1920年には、銀行各行から総額およそ8300万ドルを借り入れなければならなかった。以後1922年にかけては、特別償却、在庫調整、事業清算に伴う損失などの合計が9000万ドル――総資産の実に6分の1――に上っている。

 この危急に際して、財務コントロールを強化することは望ましいだけでなく、喫緊の課題だった。企業として存続するためには、破滅の淵から這い出して、幅広い解決策を見つけ出さなければならなかった。

コントロールの確立:予算の遵守

 1920年6月――奇しくも経済不況が本格化する直前――、予算要求ルール策定委員会(1919年設置)が経営委員会に一冊の報告書を提出している。これはジョン L. プラット、メイヤー・プレンティス、そして議長の私が共同で作成したもので、GMの予算配分を近代化させるうえで歴史的な役割を果たした。

 報告書のポイントは、各プロジェクトの妥当性をいかに判断するかという点である。私たちは4つの条件が満たされなければならないと考えた。

①利益を生み出すために必要なプロジェクトである。

②確かな技術に裏打ちされている。

③全社の利益に沿っている。

④他のプロジェクト構想と比較して十分な価値を持っている、すなわち十分なROIが期待できるだけでなく、全社の事業を支えていくうえで欠かせないプロジェクトである。

 財務面での大きな弱点を何とか克服したいとの思いから、私たちはこう報告書にしたためた。

(前略)この問題を慎重に検討すれば、必然的に次のような結論に至るだろう。すなわち、少なくとも大規模なプロジェクトに関する限り、推進母体の事業部や関連会社から独立の組織が、中立的な立場からすべてのフェーズにチェックを加える必要がある。今後、各事業が複雑に関係し合うようになれば、その必要性は増していくばかりだろう。

 こうして、各プロジェクト構想は、まず予算要求ルール策定委員会が内容を精査し、次に経営委員会と財務委員会が、戦略的な観点から検討、承認可否を決定すべきとされた。

 経営、財務両委員会による検討のあり方については、全社の方針に照らしながらプロジェクトの妥当性を検討すべきであり、その際には、十分な投資リターンが得られるかどうか、全社の発展のために必要なプロジェクトであるかどうか、といった視点が求められる、と提言している。

 報告書では、これらのことを明確にしたうえで、一定額以下の支出は事業部長の裁量に任せてよいだろうとの判断を示した。他方、高額の支出に関しては詳細な承認手順を提案した。根拠データを集めて、その正当性を検証していくのである。

 これに関連して、「財務部門と自動車事業部門のスタッフが協調することが必要ではないだろうか」と提言した。さらに、予算配分マニュアルを作成して、事業部や関連会社が、技術・採算両面でどのように支出の正当性を示せばよいか、提出すべきデータの種類を定めた。

 以上の提案は、1920年9月の経営委員会で承認され、マニュアルの作成に取りかかるようにとの指示が出された。このマニュアルは1922年4月に経営・財務両委員会の承認を得ている。GMは初めて、十分に練られた予算配分ルールを持つに至ったのだ。 マニュアルでは、経営・財務委員会の下部組織として予算配分委員会を設けることが定められていた。予算配分全般と、事業部間の調整を行うためである。

 各事業部は、予算配分委員会に月例で業務の進行状況を報告し、委員会は全社分をまとめてやはり月次で財務委員会に報告することになっていた。予算要求はすべて、全社、事業部の両方の視点から検討・分析され、その後で判断が下された。支出の内容と承認状況について適切に記録を残し、全社の予算要求に統一的な取り扱いがなされるようになった。

 こうしてようやく、正確なデータが秩序立って集められるようになったのである。それさえできれば、あとは予算を承認するかどうか判断を下すだけである。手順は時と共に変わり、予算配分委員会もかなり以前に廃止されている。しかしその精神は、今日でもGMの予算配分方法のなかに息づいているのだ。

運転資金のコントロール

 1920年、GMでは運転資金が底を突いていた。収入が途絶えていたにもかかわらず、将来に向けて多額の支出を続けていたからである。銀行からの借り入れに頼らざるを得ず、その額は10月末にはおよそ8300万ドルにまで達した。その後しばらくは、いかに支出を抑えるかが非常に大きな課題であった。

 当時、現金の管理は信じがたいほど粗雑だった。管理は事業部ごとに行われ、収入を独自の口座に入金し、支出も同じ口座から行っていた。製品を売って収入を得るのは事業部だけであるから、収入が本社の管理下に移されることはなかった。収入を得た部門から、支出の必要に直面している部門へ現金を移す仕組みは、設けられていなかったのである。

 株式配当、税金、賃料、給与などの支払い、さらには本社スタッフ部門の支出に当たっては、経理部長の要請によって各事業部から現金の拠出を受けていた。

 このプロセスはけっして円滑には機能していなかった。各事業部は高い独立性を持っていたため、資金ニーズの高まりに備えておきたい。このため、たとえ当座は余裕があったとしても、全社のために積極的に拠出しようとはしなかった。

 ビュイック事業部もこの傾向がきわめて強かった。収益が好調であったため、当然、資金が潤沢だったが、長年の経験によって、財務スタッフは現金残高の本社への報告を遅らせる術に長けていた。

 工場のセールス部門に多額の現金を蓄えるのを慣例としていたが、その額がどの程度に上るかを本社が知るのは、財務報告が提出されてからだった。つまり、現金の動きとは1~2カ月のタイムラグがあった。

 このため、本社で運転資金が必要になると、財務部長のプレンティスがビュイック事業部の現金残高がどの程度か、そのうち本社に拠出してもらえそうな額はいくらか、推計するのであった。そのうえで彼はフリントに赴き、本社とビュイック事業部との間の懸案について話し合い、その後さりげなく現金の拠出を打診するのである。

 するとビュイックの財務部門は、要望金額の大きさに驚きを露わにし、時として難色を示すこともあった。もとより、このような対立があっては資金の有効活用などできるはずがない。運転資金に余裕のある事業部とそうでない事業部とがあったのだから、なおのことである。

 1922年、私たちは以上のような悪弊を一掃しようと、全社的な資金コントロール制度を設けた。大企業がそのような仕組みを取り入れるのは、当時としては異例であった。

 100前後の銀行に「ゼネラルモーターズ・コーポレーション」名義の口座を開いて、入金はすべてそれら口座にすることに、また出金は、本社経理スタッフが一元的に管理することにした。事業部が口座への入出金に関与しない仕組みを取り入れたのである。

 この仕組みの下では、銀行間の資金移動も自動化され、スピーディに行われるようになった。財務スタッフは、銀行の規模や入出金の頻度などに応じて、口座ごとに残高の最高額、最低額を設定した。最高額を超えた場合、超過額は、連邦準備理事会からの電信によって自動的に当座口座に移動することになっていた。

 当座口座も財務スタッフが管理していた。事業部は資金が必要になると、電信で本社に送金を求める。すると、たとえ東海岸から西海岸へであっても、2~3時間で資金移動が行われた。

 事業部間で直接現金を授受することを禁じたため、資金移動の頻度は減った。事業部間取引についても規則を設け、本社財務スタッフが間に入って決済を行うこととした。現金を実際に授受するのはやめて、書類上の処理に変えた。

 この時期、販売スケジュール、給与支払い、資材購入などを考慮しながら、1カ月前の時点で日々の入出金を推定するようになった。そして、推定額と実際の残高を比較する作業を日課とした。両者の間に開きがあると、原因を探り、適切なレベルで軌道修正を行ったのである。

 新しい仕組みを取り入れたことで、信用力が高まるという副次的な効果がもたらされた。多数の銀行と良好な取引関係を続けたため、信用供与枠が拡大し、いざという時の備えとなった。加えて、預金残高を減らし、余裕資金を主に短期国債への投資に回したため、資本の利用効率を高め、収益を上げられるようになった。

 以上のような仕組みは、多くの人々の貢献によって生み出された。まずラスコブが必要性を見出し、ラスコブから草案作成依頼を受けたプレンティスが、多数のスタッフの協力を得ながら大枠の構想をまとめた。GMは今日でも、おおむね彼らが考案した手法を基に資金を管理している。

在庫のコントロール

 GMが経営危機に陥った際、最も深刻だったのが在庫の膨張である。各事業部が無軌道に資材や部品を購入したため、1920年10月にはその総額が2億900万ドルにも上り、経営、財務両委員会の設定した上限を5900万ドルも超過していた。

 これは短期間には到底使い切れない量だった。財務委員会は緊急措置として事業部に代わって自ら在庫管理に乗り出し、10月8日に在庫委員会を設置した。議長に指名されたのは、デュラントの右腕プラットであった。

 1920年の経営危機に関して、後年プラットはラスコブにこう書き送っている。

「在庫委員会は活動の第一歩として、社長名ですべてのゼネラル・マネジャーに指示を出しました。『在庫委員会が現状を確認して、各資材の仕入れ可否を判断するまでは、調達はいっさい停止するように』。ゼネラル・マネジャーのオフィスを訪れて、在庫事情を詳しく聞くことで、必要な仕事はほぼ終えることができました」

 サプライヤーとの交渉は各ゼネラル・マネジャーが進めた。交渉が不調に終わって訴訟にまで発展した事例は、私が知る限り1件、それも自動車ではなくトラクター分野だった。次いで、各事業部をコントロール下に置く仕組みが設けられた。その手順に関して、プラット自身によるメモが残されている。

「資材・部品の購入をストップした後、各ゼネラル・マネジャーから在庫委員会に月次の予算を提出してもらった。4カ月間の売上予想と、それに対応した賃金総額、仕入総額などである。委員会は予算を精査したうえで、ゼネラル・マネジャーから話を聞いた。内容について合意すると、その後1カ月間の生産活動に必要な資材・部品を事業部に引き渡した」

 こうした手順を踏むことで、膨張の一途をたどっていた在庫を抑制し、資金の流出を防いだのである。1920年9月末に2億1500万ドルという途方もない水準にあった在庫は、22年6月末には9400万ドルに減少し、回転率も年間2回から4回超へとかなり改善した。

 以上から、GMはどのような教訓を得たのだろうか。ブラッドレーの言葉を引けば、「在庫を削減するには――特に経済環境が厳しい時期には――調達を減らすしかない」ということである。言うまでもないことだとお考えだろうか。私は必ずしもそうは思っていない。私たちは、長年の経験を経て、ようやくこの教訓を実感できた。

 当時、ゼネラル・マネジャーは楽観的に構えていた。自動車販売に携わる経営者も、大多数が楽観的であった。おそらく現在でもそうではないだろうか。販売台数は常に右肩上がりで伸び続けていく、したがって資材や部品を持て余すことなどありえない、と考えてしまうのである。だが、販売予想が達成できなければ問題が持ち上がり、解決には痛みを伴うことになる。

 このため私たちは、「販売数は絶えず増加していく」との観測に疑問を投げかけることを学び、在庫、調達、発注を確実に減らさなければならない、というスタンスを取った。販売が上向いたら、その時点で調達を増やせばよいのだから。

 このような緊急対応を通して、言わば「本社が全体を管理する」という仕組みが出来上がった。しかしこれは、私たちが思い描いていたGMのあるべき姿とはかけ離れていたため、ほどなく事業部に権限を戻すことになった。

 1921年4月21日、ブラウンが財務委員会に対して、長期的な在庫コントロールのあり方を提案した。在庫状況の危機が遠のいたので、在庫コントロール権を他の権限と同じように、ゼネラル・マネジャーに戻すべきだ、という内容である。在庫委員会が在庫のコントロール権を握り続けたのでは、各事業部の権限を侵すことになり、望ましい状態ではない。

 在庫のコントロールに関して、緊急避難的な対応を改めて、大枠の方針と業務慣行を定める時が訪れていたのである。重要なのは、1920年のような事態を再び招かないようにすることだった。ブラウンはこの目的に沿って、財務部門と各事業部の新しい関係を提言した。

 資材や部品を発注するために運転資金が必要である以上、財務委員会としても各事業部にすべてを委ねるわけにはいかないが、各ケースに個別に介入するよりは、一般的なルールを示すほうが望ましいだろう。組織の原則に照らしても、やはりそれが理にかなっている。

 各事業部が財務委員会の方針ないしは適切な事業慣行に沿って効果的に在庫管理を遂行するように、CEO(最高経営責任者)、あるいは業務担当バイス・プレジデントが監督すべきである。

 本社財務部門は、絶えず在庫の動きに目を光らせていなければならない。そのうえで定期的に財務予想その他の報告書を財務委員会に提出して、委員会が十分な情報を基に全社の資金需要を把握・予測できるように支援すべきである。

 このような考え方を土台に、GMは財務コントロールの確立に向けて第一歩を踏み出すことができた。前記の提案は1921年5月に財務委員会で承認され、全社の方針となった。在庫委員会は廃止され、在庫の管理は以前のように事業部が行うことになった。

 それに伴って、各事業部は4カ月後までの事業活動を予測するようになり、その内容は同年半ば以降、業務担当バイス・プレジデントであった私のもとにも届けられるようになった。私は、その予測内容を、適正な在庫水準を決めるベースとして吟味・承認していた。資材や部品の購入を決めるのは事業部長だったが、彼らは、生産スケジュールをにらみながら必要な量に抑える義務を負っていた。

生産のコントロール

 1920年から21年にかけて、経営危機に対応するために以上紹介してきたさまざまな施策が取り入れられたが、いずれも主に資材や部品の購入、および関連支出をコントロールするのが目的で、完成車の在庫をどのようにコントロールすべきかという、より困難な課題が残されたままであった。これを解決するためには、販売に力を入れるだけでなく、生産量を調整する必要があった。

 そこで私たちは、先に触れた「4カ月予測」の対象を広げて、工場投資、運転資本、資材・部品の発注残、予想販売台数、予想生産台数、予想利益などを含めることにした。

 これらのデータは各事業部が取り揃え、毎月25日までに私のもとに届けることになっていた。カバーするのは当月から3カ月後までである。私はデータを受け取ると、財務担当バイス・プレジデントと協議のうえ、各事業部の生産スケジュールを修正あるいは承認した。

 このように、ブラウンと私は――私が社長に就任した後も含めて――何年もの間、緊密に連絡を取り合いながら業務をこなしていた。私が生産スケジュールを承認すると、事業部長たちは生産にゴーサインを出し、調達を実行に移した。

 以上のようにして、GMは初めて本格的な予測を行うようになった。1920年の危機以前は、予測と呼べるものは、財務部長が財務委員会に提出する報告書のみであった。その報告書には全社の売上げ、利益、運転資本、キャッシュフローなどを記載されており、財務プランを立てるうえでは有益だった。

 だが、各事業部による業績予想、いや、それどころか事業部別の内訳すら示していなかった。事業部長の立場からすると、自分たちのあずかり知らないところで作成された予測になど、とても責任を負うことができなかった。

 したがって、この予測は各事業部の業績を評価、コントロールするうえではまったく無益であった。加えて、財務部長による売上予測は、顧客の嗜好や行動を考慮していなかったため、正確性に乏しかった。

販売予測の重要性

 1921年にピエール S. デュポン体制に変わってからも、経営陣は生産スケジュールの基礎となるデータを十分には持っていなかった。それでも手をこまねいているわけにはいかず、事業の性質上、春の需要に応えるために在庫を積み上げていった。初夏を迎える頃には、次のモデルイヤーまでの3~4カ月について売上げを予測し、新規モデルの投入までに既存モデルをほぼ売り尽くしておく必要があった。

 この予測は、資材などの購入量を弾き出すのに用いるため、後から見直すわけにはいかなかった。具体的な予測手順は歳月と共に手直しされてきたが、エッセンスは今日まで不変である。

 カギとなるのは、言うまでもなく売上予測で、それを基に生産量が決められる。一定の時期までに必要な台数を揃えるためには、どの程度の生産体制を敷けばよいのか、資材・部品はどの程度用意しなければならないのか、といった点は機械的に弾き出すことができ、正確を期すのも難しいことではなかった。最大のポイントは、販売台数をいかに見積もるかであった。

 できる限り精度を高めたいとの考えから、予測は各事業部長に委ねられた。事業部長は顧客に近く、販売トレンドに精通しているはずだからである。

 1921年に入ると私は、事業部長に生産台数と販売台数を毎月10日、20日、末日締めで報告するように求めた。各月末にはさらに、受注残、工場の完成車在庫、ディーラー在庫の報告を受けた。それらデータは――ディーラー在庫量をおおよそ把握するためのものであるにもかかわらず――この時初めて収集されるようになり、以後数年間、生産量を決める唯一の根拠として用いられた。

甘すぎた予測

 小売台数に関しては、本社と事業部では情報力に大きな開きがあった。本社は各事業部からディーラーへの卸台数は把握していたが、消費者への売れ行きについて頻繁には確認していなかった。小売市場に密着してデータを収集していたわけではないのだ。

 私のもとには、各事業部長からディーラーの在庫台数が報告されたが、ほとんどが実際にディーラーに確認した結果ではなく、推定値にすぎなかった。このため本社は、刻々と変わる市場情勢を敏感にキャッチできず、数週間も以前の不正確なデータを基に売上予測を立てなければならなかった。タイムラグは危険を招く。事実、これが原因となって新たな危機が訪れた。

 1922年以降私は、従来の4カ月予測に加えて、年度末までに次年度の業績見通しを提出するように各事業部長に依頼するようになった。この年度予測は、言わば3種類の予測を一つにまとめたものである。すなわち、楽観的、現実的、悲観的、3つのシナリオをもとに、売上げ、利益、資金需要を予測するように求めたのである。ただし、予測は「公約」とは見なされていなかった――というよりも、あまり正確ではなかった。

 短期の見通しは比較的妥当だった。長期の見通しも1922年と23年に関しては妥当だったが、24年は見通しが甘すぎた。この年の実績は、悲観的なシナリオに基づいた予測値にすら遠く及ばなかった。

 これには理由があった。1923年は販売があまりに好調だったため、シボレー事業部を始めとする一部の事業部では生産が追いつかず、売上機会を逃していた。事業部長たちはこの教訓を基に1924年の見通しを立て、前年度の轍を踏むまいと心に誓っていたのである。

 1924年の春に向けては、速いペースでの生産が予定された。1923年の末が近づくにつれて、数名の事業部長が、翌春の需要を見据えて生産量を上積みしたいと承認を求めてきた。私は財務委員会に判断を委ね、委員会は生産量の上方修正を認めた。

 私は、販売台数が上向いていくだろうと予想しながらも、一部に勇み足があるのではないかと不安を抱き、一部の事業部長に再考を促した。しかし、答えはいずれも「計画は適正である」というものであった。

 1924年を迎えると、危険な兆候が表れ始めた。私は3月14日付の文書で、経営、財務両委員会に懸念を示した。「ディーラー、販社などを合わせた製品在庫は、かつてない高水準に達している。GMのみならず、自動車業界全体にこの傾向が見られる」

 1923年10月1日から1924年1月31日まで4カ月間の生産量は、前年同期と比べておよそ50%も多かったが、消費者への販売数は4%ダウンしていた。だが、タイムラグのせいで、私がこの事実を知ったのは1924年3月の第1週であった。

 私は事態が深刻化していることを各事業部長に告げ、〈シボレー〉と〈オークランド〉については、生産を直ちにしかも大幅に抑制するように強く指示した。事業部長たちは渋々これに応じた。

 だが、3月の末になっても、数人は依然として、売上げが予想を下回っているのはひとえに悪天候のせいだと主張していた。天候が回復すればすぐに売れ行きが回復し、元来の生産水準が適正だったことが証明される、と豪語していたのである。

 私の懸念は当面の事態よりもむしろ、7月1日までに在庫が膨張していき、手の施しようがなくなるのではないかという点に向けられていた。ブラウンから届けられるデータを見るにつけ、暗澹たる気分に陥ったが、それでも私は、事業部の判断を無視することにはためらいがあった。

 販売に責任を負っていたのは事業部である。財務部門とセールス部門の見解は、本来食い違うものかもしれない。セールス部門は何とか売上げを伸ばそうと考え、実際に意気込みどおりの実績を上げることも少なくない。私はブラウンと事業部の板ばさみになった。一つの現実に異なった解釈がされ、その間で板ばさみになるのは珍しいことではなかった。

 1924年5月、私はブラウンと共に現場を訪れ、ディーラーとの流通問題を話し合った。その出張で私は確信した。3月の生産カットは十分ではなかったのだ。7月に在庫過多に陥るのは確実な情勢だった。

 大企業のCEOが自ら在庫をチェックして、生産過剰に気づくとは、奇異なことかもしれない。しかし、自動車は小型の製品ではないから、容易に数えられる。セントルイス、カンザスシティ、そしてロサンゼルスでディーラーを訪問して、駐車スペースに収まり切らないほど在庫があることをこの目で確かめた。この時は財務部門のほうがセールス部門よりも正しく状況を見極めていた。訪れる先々で在庫があふれていた。

 本社に戻ると私は、CEO在任期間でもきわめて異例のことだが、社内に絶対服従を求めた。全事業部長に、直ちに生産を大幅にカットするように厳命したのである。減産規模は全社で月3万台に上った。こうして、数カ月後にはディーラー在庫を許容水準に戻したが、レイオフによって一部の社員には大きな経済的苦痛を与えることになった。

生産過剰から得た教訓

 6月13日に財務委員会は、過剰生産の予測・回避を怠ったことに対して、私に説明を求める決議を採択した。

 具体的な問いは、生産スケジュールはどのように決められたのか、春からディーラーの在庫が膨れ上がった責任はだれにあるのか、今回のような失策を防ぐためにどのような手段を講じればよいのか、といった内容であった。委員会からの質問事項を紹介する。

1. 生産スケジュールはどのような手順を経て作成されたのか。

2. 2月25日の段階で「月末の流通在庫はおよそ23万6000台と予想される」としていながら、4月に向けて10万1209台の生産を計画したのは、どのような根拠によるのか。

3. 各事業部はなぜ、生産のカットに後れを取ったのか。流通在庫の余剰と消費者需要を勘案すれば、より早い段階で対処が可能だったのではないか。

4. 今後、生産量を効果的にコントロールし、過剰生産を避けるために、どのような対策を取るのか。

5. 財務委員会は、月例予測が小売販売台数と事業環境全般を考慮しながら作成されているかどうかを判断しなければならない。事業環境に関する情報はどのようなかたちで財務委員会に提供する予定か。

 私は9月29日に委員会に回答を寄せ、そのなかでシボレー、オークランドなど一部事業部を批判した。他方、キャデラック事業部については、唯一、消費者への販売台数を基に生産計画を立てていると称賛した。

 他の事業部は、まちまちの方法で生産プランを立てていたが、概して、「セールス部門はディーラーに製品を卸した時点で責任を果たしたことになり、その後のことには関知しない」といった考えがなされていた。

 1924年の出来事は、生産スケジュールのコントロール手法を練るうえで大きなターニング・ポイントとなった。以下は、私が財務委員会に報告した内容である。

1. 7月1日前後までは、生産スケジュールの決定方法は統一されていなかった。背後には以下のような考え方があった。①セールス部門はディーラーに製品を卸した時点で責任を果たしたといえ、その後のことには関知しない、②ディーラーへの製品納入を――半強制的にせよ――続けている限り、業績は順調だと考えて間違いない。

2. 販売の基本動向に関しては、一度として本格的に調べたことがない。最終顧客への販売数――真の販売指標――は過去2年間、ほぼ十分に収集されてきたが、これを生産スケジュールに生かそうとの努力はなされてこなかった。

3. 7月1日、基礎データを基に科学的に生産スケジュールを立てる手順が整えられた。本社と事業部の責任分担が明確になり、本社としては建設的な分担方法であると確信している。手順を記したマニュアル(『月次予想の立て方――流通、生産、在庫管理、販売』)はすでに財務委員会に提出済みであるが、その内容を補完するために、小売販売データを基に生産条件を分析するための手法を「資料A」として添付する。

4. 生産スケジュールが十分に練られていないのは、GM一社の問題ではない。自動車業界全体の慣行なのである。このため、ディーラーは一般に膨大な流通在庫を抱えてきた。5月に行った視察の状況として、すでに報告したとおりである。

5. 慎重に考えをめぐらせたうえで、私は社を代表してコメントを発表した。その内容はディーラー、業界紙誌の編集者などの意見や論評にも示されているとおり、優れた成果を上げ、業界によき先例を生み出している。他社も今後これに倣うと予想される。

財務委員会に寄せた回答には、簡単に私見も織り込んだ。

1. 生産スケジュールを定める方法がこれまで確立していなかったことを、GM、さらには自動車業界全体が反省すべきだろう。この問題に限らず、重要な問題について必ずしも十分に方針が練られているとはいえない。しかし、自動車業界がいまだ発展途上にある点を考えれば、ある意味でやむをえないことかもしれない。

2. 今日GMは、生産スケジュールを完全にコントロールできるようになった。この点は疑いない。さらに、GMが打ち立てた方針――『ディーラーに関する方針』――および他社が設けた類似の方針は、必ずやディーラーの経営を支え、GMを中核とした自動車産業に大きく貢献するだろう。

予測方法の改善

 ここまで1924年のエピソードを振り返ってきたのは、GMが生産コントロールを確立させる契機として大きな意味を持っていたからである。このプロセスで社内では、2つの勢力が歩み寄るという重要な変化が生まれた。このような協調は、消費者向け製品を全米規模で流通させる企業すべてにとって欠かせないものだろう。

 一方の勢力はセールス・マネジャーたちで、彼らは元来熱意にあふれ、努力すれば売上げは伸びると楽観的に信じている。もう一方は予測の専門家で、さまざまな需要データを駆使して客観的に分析を行う。これら異なった2つの視点を重ね合わせようとすることで、流通在庫の適正水準が見えてくる。

 かつて、売上げの季節変動への対応について模索を続けていた時代には、セールス部門と予測部門の見解には埋めがたいほど大きな開きがあった。その背後には言うまでもなく、生産をいかにコントロールすべきかといった根本的な問題が横たわっていた。

 具体的課題は2つあった。第1に、予測精度をどう高めていくか。第2に、予測と現実のズレが明らかになった時に、いかにスピーディに軌道を修正するか。予測手法が複雑化、洗練化した今日ですら、このような課題は依然として残されているだろう。

 本社は当時すでに、データの収集・分析手法を磨き始めていたため、モデルイヤー別に業界全体、そしてGMの販売台数を予測するうえで、事業部よりも有利な立場にあった。生産量、流通在庫、財務計画などはすべて、製品ライン全体の予測に大きく依存しているため、GMでは1924年に需要予測を全社施策と位置づけた。

 まず、業界全体として次年度に各価格セグメントの製品がどの程度売れるかを予測し、次に、GMの売上げについて、各セグメントでのシェアをにらみながら、事業部長の見通しと擦り合わせていく。ベースとするのは過去3年間の売上実績と、翌年の事業環境についての予測である。

 1924年春には、各事業部の予測に一定の枠を設けようと動き始めた。私はブラウンと共に、すでに述べてきた方法に従って全社、各事業部別に下半期の売上げを予測した。

 この売上予測値は「インデックス・ボリューム」と呼ぶことにした。1年間、この値を目指して事業を推進することになるからである。インデックス・ボリュームが業務執行委員会の承認を得た後の5月12日、私は各事業部長に文書を送り、この数字をベースに下半期の事業予測を立てるように要請した。

 さて、予測をめぐる社内の対立ははたして解消されたのだろうか。1924年、前年の好景気の反動で市況が低迷すると、予測担当部門とセールス部門の関係は一触即発の状態にまで悪化した。セールス部門と各ゼネラル・マネジャーは売れ行きが拡大しているとの幻想にとらわれていた。それを許したのは、行きすぎた権限委譲であった。

 これはセールス部門に肩入れしていたからではなく、私は当時、彼らの直感に対抗するための情報を持っていなかったのである。情報は不十分で、そのうえ古かった。

 不十分というのは、不正確で漏れがあったということである。流通在庫や注文残は推定でしかなかった。この点はまだしも許容できたが、タイムラグの大きさは致命的だった。売上データは5~6週間前のものしか入手できず、直近の実績については、トレンドを重視する予測部門や、絶えず明るい見通しを抱くセールス部門の「読み」に頼らざるをえなかった。

 私は両者の間に立たされながら、議論に決着をつけるだけの材料を持ち合わせていなかった――CEOとしてははなはだ困惑する事態である。

 そこでまず、モデルイヤーを単位とした売上予測によって、各事業部の方針や活動に制約を加える必要があった。しかし、予測は市場の動きに合わせて改めるべきである。そのため上方あるいは下方に修正する手段が求められた。

 自動車ビジネスは無計画に進められるものではなく、将来見通しを尊重するべきである。その要となるのは予測と修正で、どちらも同じだけの重みを持つ。各年度が始まる数カ月前には予測を立て、それをベースとして生産その他のスケジュールと予算を組むことになる。

 モデルイヤーの開始から6カ月ないし8カ月の間は、予測値(インデックス・ボリューム)は生産量を決める指針として用いられ、しばしば修正が加えられるが、それ以後、生産スケジュールは固定される。もちろん、生産設備は事前に用意され、そのつど変更するわけにはいかないが、モデルイヤーが始まると正確な最新情報に頼りながら、軌道修正していくことが欠かせない。

 以上が、1923年から24年にかけて得た教訓である。次に、この教訓を基にどのような施策を取り入れたかを述べたい。

 1924年から翌年にかけて、ディーラーに依頼して、各事業部に10日ごとに販売データを提出してもらう仕組みを設けた。主なデータは最終顧客への販売台数、新車・中古車の流通在庫量などである。

 中古車の在庫を見落としてはならなかった。中古車在庫が積み上がっていると、新車販売が鈍るおそれがあるのだ。各事業部は、10日ごとに届くこれらデータを基に最新の市場動向を取りまとめ、本社と共に精度の高い予測を完成させて、必要があれば対策を取ることになった。

 売上予測をより確かなものにするために、小売市場に関するデータを社外機関から折り寄せる試みも始めた。1922年末以降、R.L. ポーク社から新車登録状況に関する既成のリポートを定期的に取り寄せるようになったのである。

 このようなプロセスが全体として効果を上げ、本社と事業部が明確に責任分担しながら、秩序正しく生産とスケジューリングを進めるようになった。

新しい生産計画方式

 各事業部長は、年間の生産量を見積もった後、それをいかに12カ月に割り振ればよいかという問題に直面した。季節変動に対応しながらも、できる限り生産量を平準化することが求められた。

 これはけっして容易なことではない。自動車の売上げは依然として季節による波が大きいが、1920年代初めはこの傾向が今日よりも強かった。その後、車道の整備が進み、セダンが増え、ディーラーに報奨金を出して売上低迷期に下取り価格を下げられるようにしたことで、改善してきている。

 ディーラーの利便性を考慮したり、完成車の在庫量を経済的にコントロールするといった観点からは、季節変動を織り込んで生産を調整するのが望ましかった。製品の陳腐化を避けられるうえ、メーカー、ディーラー双方が完成車の在庫コストを抑えられるからである。

 他方、生産施設や労働力を有効に活用し、社員の生活を安定させるという観点からは、毎月の生産量をできる限り一定に保つのが望ましかった。流通サイドと生産サイドの利益が相反していたため、プランニングや判断を通して何とか妥協点を見出す必要があったからだ。

 そこで、本社スタッフが事業部長を支えながら売れ行きの季節変動を予測し、事業部別の最低在庫量を決めることにした。季節変動に備えて在庫を積み増しする場合には、4カ月予想の最終時点での最大許容在庫量を定めた。加えて事業部長は、ディーラーから10日ごとに届く報告を基に、予測と実績を比べて生産と調達のスケジュールを再検討するようになった。

 これはけっして怠ってはならない。販売実績が予測を下回っていれば、生産をカットし、実績が予測を超えていれば、生産能力の許す範囲で増産に踏み切ればよかった。また毎月、最新のトレンドを反映して次の4カ月間の予測を改めた。

 このように、4カ月予測に過度に縛られることなく、小売市場のトレンドに合わせて必要な修正を施しながら生産を進めていった。最終需要に見合った生産を続けながら、事業部、ディーラーに最低限の流通在庫を常に保っておくようにした。

 以上から明らかなように、カギとなるのは予測の正確性を高めることよりも、スピーディなデータ収集と調整によって、市場トレンドの変化に後れを取らないようにすることである。

 目標に沿って情報を体系的に生かす必要があったため、本社と事業部の間に協調関係が生まれた。1924年に見られた不合理な対立は影を潜めた。支出、採用、投資などの面でも、一定の節度が守られるようになった。

 売上予測と生産スケジューリングの仕組みを整えたところ、業績が目に見えて改善し、資材・部品の在庫は極限まで抑えられた。

 1921年には資材、仕掛品、完成品などを含めた在庫回転率は年間およそ2回だったが、22年には4回となり、26年には実に7.5回に迫るまでになった。完成品を除いた在庫回転率の向上はさらに目覚ましく、25年には10.1回に達している。

 雇用の安定効果も見逃すことができない。だが、生産量をいかに平準化するかという問題は今日まで残されており、今後も完全には解消することはないだろう。それは一つには、先行きが不透明である以上、売上予測を的中させることができないからだ。

 他にも、需要の景気変動、季節変動、製品のモデルチェンジ、購買習慣の変化などが影響して、生産量の完全平準化は達成できていない。いや、それどころか、仮に100%の予測が可能になったとしても、完全な平準化は望みえないのではないだろうか。

 生産から顧客への納車までのスケジュールが短縮していることも、ディーラーの在庫回転率を高め、収益性のアップに貢献している。1925年、全米のGMディーラーについて新車の在庫回転率を調べたところ、12回と、それ以前と比べておよそ25%も向上していた。

 この年(1925年)、GMは生産コントロールの仕組みを完成させたといえる。以後はそれをベースに改善を重ねていけばよかった。

分権化と協調

 予算、運転資金、在庫、生産の各分野でコントロール手法を固めると、次により大きな課題が持ち上がった。「事業部制を貫きながら全社の足並みを揃える」という課題である。

 GMはこのパラドックスに挑み続けた。事業部制とその理念を捨てることなく、この課題を克服しなければならなかった。

 これまでに述べたとおり、事業部制は名実共に1920年代初めに誕生している。しかし、全社が一体となって財務コントロールを行えるようになって初めて、事業部制はその真価を発揮できる。

 すなわち、事業効率を把握、評価する手段さえあれば、実務の遂行は各事業部に安心して委ねることができる。その手段が財務コントロールである。

 ROIという幅広い概念を各事業部の効率を測る尺度として用いるのである。GMは主としてコスト、価格、台数、ROIに着目して財務コントロールを組み立てていた。ROIの戦略的な意味合いに触れておきたい。私は何も、ROIがビジネスのあらゆる局面で生きる「魔法の杖」であると主張しているわけではない。事業を継続するためには、時としてリターンを度外視して資金を投じなければならない。

 価格は競争によって決まるため、結果的に、期待を下回るリターン、あるいは一時的にせよマイナスのリターンを受け入れざるをえないケースも出てくるかもしれない。インフレ時には資産の評価減といった問題にも直面する。それでも私が知る限り、事業効率を判断するうえでROIほど優れた指標はない。

 GMの財務委員会がROIを重視するようになったのは1917年からだが、それ以前からデュポンをはじめ多くのアメリカ企業がこの指標を導入していた。ただし、ROIの起源については不明である。投資を行おうとする人なら、洗練された知識を持っていなくても、株式や債券を購入したり、貯蓄を行ったりする際には利益を計算するだろう。

 それと同じで、経営者やマネジャーは皆、投資からどれだけの利益が上がっているかを知りたいと考えるはずである。これは言わば「ゲームのルール」で、他にも売上利益、市場浸透率といった尺度があるが、いずれもROIに勝るものではない。

 とはいえ、重要なのはその時々の実績ではなく、長期間の平均ROIである。この考え方の下、GMはROIを単に最大化することよりもむしろ、売上げに見合った範囲でROIを最適化することを目指した。長期的な視点に立って、事業を十分に成長させながら、可能な限り高いROIを実現すべきだと考えたのである[注]

 財務指標はブラウンによってGMに紹介された。その指標は、各事業フェーズの経営効率を明らかにする役割を果たした。在庫コントロール、需要に見合った資本投資、コスト・コントロールなどに関する事実をあぶり出すのである。

 ROIのコンセプトをうまく機能させるために、各事業部長に業績全般についての報告書を提出するように求めた。本社財務部門ではそのデータを統一フォーマット(ROIリポート)にまとめ、事業部別の業績をROIの観点から評価できるようにした。事業部の業績を詳しく記したこのリポートは各事業部長にも配られた。ROIに応じて各事業部に順位をつけるのが、長年の慣行となった。

 とはいえ当初は、上記のような手法にもさまざまな限界が見られた。リポート類にしても、統一性や整合性を持たせて初めて、評価・比較の役に立つようになった。財務をコントロールするうえでは、統一性が欠かせない。統一性がなければ比較はきわめて難しい。本社、事業部双方の財務部門をテコ入れして、全社の会計基準を統一することが早急に求められていた。

 そこで1921年1月1日付で勘定項目を統一し、23年1月1日付で標準的な会計マニュアルを設けた。さらに、本社財務部と事業部財務部門の足並みを揃えるために、1921年、事業部の財務部長に二重の役割があることを再確認した。

 すなわち、1919年の「事業部の財務責任者は事業部長と本社財務部長の両方に報告義務を負う」という考え方を再確認したのである。

 会計基準が統一されたことで、各事業部の業績を把握しやすくなっただけでなく、事業部相互の比較も容易になった。さらに、これも忘れてはならない点だが、会計基準が設けられたことで、例外はあるにせよ、間接費の会計処理についてのガイドライン――生産コストの算定、業務効率の測定両方のガイドライン――が出来上がったのである。


※本連載は、再編集の上、書籍『【新訳】GMとともに』に収められています。

『【新訳】GMとともに』

[著者]アルフレッド P. スローン, Jr.
[翻訳者]有賀裕子
[内容紹介]ゼネラルモーターズ(GM)を世界最大の企業に育てたアルフレッド P. スローン Jr. が、GMの発展の歴史を振り返りつつ、みずからの経営哲学を語る。ビル・ゲイツもNo.1の経営書として推奨する本書には、経営哲学、組織、制度、戦略など、マネジメントのあらゆる要素が詰まっている。

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【注】
ブラウン自身がこう記している。
「独占的な業界、あるいは特殊な企業は、高価格を維持して、売上げが少ないながらもきわめて高い資本収益率を実現している。健全な成長を犠牲にしているのである。価格を下げれば市場が広がり、資本利益率は下がるかもしれないが、売上げ、ひいては利益を拡大できるであろう。問題は資本コスト、供給増加能力、需要の価格弾力性がどの程度かという点である」
「したがって経営の主眼はリターンを単に最大化することよりも、実現可能な生産量の下で最大のリターンを得ることに置かれるべきである。すなわち、生産量の増大に伴って追加資本が必要になるため、追加資本の調達コストをカバーできるだけの利益を0目指さなければならない。重要なのは、各事業の資本コストである」(「価格決定と財務コントロール」Managementand Administration, Feb, 1924.)。

有賀裕子/訳
DHBR 2002年8月号より
(C)1963 Sloan, Alfred P., Jr.

 

アルフレッド P. スローン, Jr.(Alfred P. Sloan, Jr.)
ゼネラルモーターズ元会長。1875年生まれ。1920年代初期から50年代半ばまでの35年間にわたってゼネラルモーターズ(以下GM)のトップの地位にあった。20年代初めに経営危機に陥ったGMを短期間に立て直したばかりでなく、事業部制や業績評価など、彼が打ち出したマネジメントの基本原則は現代の経営にも大きな影響を与えている。彼のGMでの経営を振り返り、63年にアメリカで著したのが『GMとともに』である。同書は瞬く間にベストセラーとなり、組織研究や企業現場のマネジャーに大きなインパクトを与えた。『GMとともに』が刊行された3年後の66年に没した。