GM独特の財務統制

 ゼネラルモーターズ(以下GM)は、1920年代にさまざまな分野の社内委員会を設けて、全社の足並みを揃えていった。それに伴って、財務分野でも全社的な協調が目指されるようになった。GMが大きく羽ばたくことができたのは、事業部制と製品ポリシーを構築したことに加えて、社内の総力を結集する体制を整えたことが大きいだろう。

 ウィリアム・デュラントから経営を引き継いだ後、私たちは財務コントロールの仕組みを改めなければならないと強く感じていた。しかし、あるべき姿は何か、どのように実効を上げればよいのか、答えは見えていなかった。

 GMの財務体制を築くうえで大きな役割を果たしたのは、ドナルドソン・ブラウンとその若き同僚アルバート・ブラッドレーである。ブラウンは1921年初めにデュポン社からGM入りし、ブラッドレーはそれに先立つ1919年に入社している。ブラッドレーは後にブラウンを継いで財務部門のトップとなり、さらには私の後任として会長を務めることになる。

 私自身は財務に関しては、事業部間取引や予算配分を中心にリポートを記すことはあっても、主に実務に携わってきた。財務手法を応用して事業を推進することも私の使命だった。財務は単独ではなく、事業との関わりのなかでのみ意味を持つのである。

 すでに述べてきたとおり、デュラントは財務について体系的に考えることをしなかった。体系的に事業を進めるタイプの経営者ではなかった。それでも、デュラントがトップの座にあった間にGMには近代的な財務の考え方がもたらされた。デュラントがデュポン社の人々をGM財務委員会のメンバーとして迎え、財務業務の遂行を委ねたのである。

 デュポン社は大株主としてすでにGMに取締役を派遣していたが、財務面でもこのうえなく大きな力となってくれた。GMの草創期、デュポン社から財務・会計のプロフェッショナルが多数送り込まれ、枢要なポジションを占めていた。ブラウンもその一人である。

 ブラウンも私も「事業は規律に従って子細にコントロールすべきだ」と考えていた。ブラウンがGM入りした時、私たちは互いの考え方が近いことに気づき、以後長年にわたって親しく交流を続けることになった。

財務管理面の3つの問題点

 デュポン社出身の人々は、1917年にGMの経営に参画して以来、各事業部門への予算配分にROI(投資収益率)の概念を取り入れようと努力を重ねていた。ところがジョン A. ラスコブは、通常は正しい判断をするにもかかわらず、GMの業績を評価する仕組みは用意していなかった。

 GMではこれまでに述べたとおり、拡大路線を取っていた1919年に、支出にブレーキがかからないという問題が持ち上がり、1920年に不況が訪れると、在庫のとどまるところのない増加とキャッシュフローの悪化によって経営危機が進行した。

 予算の超過、在庫の膨張、その結果としてのキャッシュフローの悪化。これら3つの危機を通して、コントロールと調整の欠如が露わになった。このような状況を克服しようとするなかから、財務面での調整とコントロールが行われるようになっていった。