新しい挑戦の時期

 1923年秋、自動車販売が初めて年間400万台を超える見通しとなり、GMの社内も期待で沸き返っていた。銅冷式モデルの開発をめぐって社内には不協和音が響いていたが、それを解消しようとの強い意欲もみなぎっていた。

 銅冷式モデルの開発はGMに深い教訓を残した。需要の力強さも、社内の空気を引き締める働きをした。自動車ブームの波に乗るために、社内の足並みを揃え、総力を結集すべき時が訪れていた。

 大きな課題は、各種のマネジメント機能をいかに連携させるかであった。すでに『組織についての考察』(1919~20年)によって、組織の原則は定まっていた。そこで、本社、研究部門、事業部といった異質な組織間の調整を図る仕事に、本腰を入れなければならなかった。

 各事業部は高い自立性を持ち、エンジニアリング、生産、セールスなどの機能を通して利益を生み出そうとしていた。本社の機能スタッフは、事業部横断的な業務をこなしていた。

 たとえば、本社エンジニアリング部門は、各事業部のエンジニアリング活動と直接・間接に関わりながら業務を進めていた。さらに、スタッフとラインは絶えず手を携えていなければならない。銅冷式プロジェクトの苦い経験からも、この点を私たちは痛感していた。スタッフとラインの呼吸が合わなくなると、事業が麻痺してしまうのである。

 権限の委譲と全社の調整をいかに両立させていくか。この大きな課題は経営の上層部で生まれ、社長である私に負わされた。私は、ピエール S. デュポン社長の下ですでに多数の施策を導入していたが、それらをさらに推し進めることにした。

 1921年末には社内の状況をメモにまとめ、経営トップの役割と分権化の関係にも触れている。書き出しの部分に、考え方の骨子が示されている。

 各事業部には大きな権限を与えるのが望ましい。この考え方を基本に据えて数年が過ぎたが、現在でも事業部制への信仰は揺らいでいない。人材の力を十分に引き出して、目の前の大きな課題に対処していくためには、事業部制こそがただ一つの方法だろう。しかし、事業部制を導入しただけですべてが解決するわけではない。この点をかつてないほど痛感している。

 1921年に私は、経営危機はいずれ解消するとの見方を持ちながらも、最高決定機関である経営委員会が最も大きな課題を抱えていると考えていた。その課題とは、①いかに経営方針を定めるか、②事業部の意向をどのように反映させていくか、③社長により大きな権限を認めるべきではないか、の3点であった。私の考えは以下の一文に表れている。

a.経営委員会は社内の各組織から提起される諸問題について、適切な判断と慎重な実行を心がけるべきだろう。現在の集団によるマネジメントは改めなければいけない。

 詳しく説明する必要はないと思われるが、一点のみ記しておきたい。私は、直接の交流を持たない人々からしばしば、「委員会での決定を重んじる」と評されている。

 おそらくそのとおりだろうが、集団で経営の舵取りができるとは断じて考えていない。意思決定は複数でできるが、マネジメントを遂行するのはあくまでも個人である。だが、当時の経営委員会は――とりわけ銅冷式プロジェクトに関しては――4人のメンバー全員で各事業部をマネジメントしようとしていた。

 次のbは、経営委員会メンバーに自動車業界での経験が不足している点を指摘したいのではなく、経営委員会と事業部のパイプを太くする必要があることを訴えている。