新しい挑戦の時期

 1923年秋、自動車販売が初めて年間400万台を超える見通しとなり、GMの社内も期待で沸き返っていた。銅冷式モデルの開発をめぐって社内には不協和音が響いていたが、それを解消しようとの強い意欲もみなぎっていた。

 銅冷式モデルの開発はGMに深い教訓を残した。需要の力強さも、社内の空気を引き締める働きをした。自動車ブームの波に乗るために、社内の足並みを揃え、総力を結集すべき時が訪れていた。

 大きな課題は、各種のマネジメント機能をいかに連携させるかであった。すでに『組織についての考察』(1919~20年)によって、組織の原則は定まっていた。そこで、本社、研究部門、事業部といった異質な組織間の調整を図る仕事に、本腰を入れなければならなかった。

 各事業部は高い自立性を持ち、エンジニアリング、生産、セールスなどの機能を通して利益を生み出そうとしていた。本社の機能スタッフは、事業部横断的な業務をこなしていた。

 たとえば、本社エンジニアリング部門は、各事業部のエンジニアリング活動と直接・間接に関わりながら業務を進めていた。さらに、スタッフとラインは絶えず手を携えていなければならない。銅冷式プロジェクトの苦い経験からも、この点を私たちは痛感していた。スタッフとラインの呼吸が合わなくなると、事業が麻痺してしまうのである。

 権限の委譲と全社の調整をいかに両立させていくか。この大きな課題は経営の上層部で生まれ、社長である私に負わされた。私は、ピエール S. デュポン社長の下ですでに多数の施策を導入していたが、それらをさらに推し進めることにした。

 1921年末には社内の状況をメモにまとめ、経営トップの役割と分権化の関係にも触れている。書き出しの部分に、考え方の骨子が示されている。

 各事業部には大きな権限を与えるのが望ましい。この考え方を基本に据えて数年が過ぎたが、現在でも事業部制への信仰は揺らいでいない。人材の力を十分に引き出して、目の前の大きな課題に対処していくためには、事業部制こそがただ一つの方法だろう。しかし、事業部制を導入しただけですべてが解決するわけではない。この点をかつてないほど痛感している。

 1921年に私は、経営危機はいずれ解消するとの見方を持ちながらも、最高決定機関である経営委員会が最も大きな課題を抱えていると考えていた。その課題とは、①いかに経営方針を定めるか、②事業部の意向をどのように反映させていくか、③社長により大きな権限を認めるべきではないか、の3点であった。私の考えは以下の一文に表れている。

a.経営委員会は社内の各組織から提起される諸問題について、適切な判断と慎重な実行を心がけるべきだろう。現在の集団によるマネジメントは改めなければいけない。

 詳しく説明する必要はないと思われるが、一点のみ記しておきたい。私は、直接の交流を持たない人々からしばしば、「委員会での決定を重んじる」と評されている。

 おそらくそのとおりだろうが、集団で経営の舵取りができるとは断じて考えていない。意思決定は複数でできるが、マネジメントを遂行するのはあくまでも個人である。だが、当時の経営委員会は――とりわけ銅冷式プロジェクトに関しては――4人のメンバー全員で各事業部をマネジメントしようとしていた。

 次のbは、経営委員会メンバーに自動車業界での経験が不足している点を指摘したいのではなく、経営委員会と事業部のパイプを太くする必要があることを訴えている。

b.経営委員会には実務サイドの意見が十分に反映されていない。この問題はメンバーを増やすことで克服できる。(チャールズ S.)モット、(R. サミュエル)マクローリン、(ハリー)バセットに新たに加わってもらってはどうだろう。委員会の開催頻度は2週間に一度、あるいは月に一度で十分だと思われる。

経営を行うのは個人である

 続いて私は、社長の権限を強めるべきだと主張した。「マネジメントは集団ではなく個人で行うものである」と表明した後であるから、意外ではないだろう。私にはバイス・プレジデント時代から事業全般の責任が負わされており、権限関係が混乱していた。そこでこう記した。

c.経営を預かる者には、それがだれであろうと、危急の場合に備えて大きな権限が与えられなければならない。理想的なのは、社長が全権を握ることだろう。それが現実的でないならば、だれか別の人物が代わって権限を掌握し、適切な組織をつくったうえで、各事業部、経営委員会と力を合わせながら経営を率いていくべきである。

 さらにメモでは、意思決定とマネジメントの相違について、例を挙げてこう解説している。製品価格の大枠は、経営委員会が決定すべきである。価格帯別に製品をセグメント化した以上、〈キャデラック〉を〈シボレー〉と同じ価格帯で売り出すようなことがあってはいけない。

 では、車種別の特徴や価格については、経営委員会はどこまで踏み込むべきだろうか。

 製品の仕様は各事業部が慎重に検討しているはずである。原則として経営委員会は、各車種の仕様や特徴について意見を差し挟むべきではない。例外があるとすれば、新しい市場に参入する場合、あるいは既存の好調車種のポジションが危ういといった重要な局面のみだろう。

 経営委員会は、経営方針に沿いながら、また、品質全般を良好に保つことを念頭に置きながら、課題に対処すべきである。それによって、事業部同士が過度に干渉し合う事態を避け、各セグメントにバランスよく車種を投入しなければならない。経営委員会は、慎重に方針を立てて各事業部に伝え、どのレベルの品質が求められているか、十分に理解を得る必要がある。

 各事業部は、大胆なモデルチェンジを行う際には経営委員会の了承を求めなければならない。機能面については、経営委員会が介入すべきではなく、経験・知識の豊かな人材あるいは組織に判断を委ねるのが望ましい。

 概して経営委員会は、方針を立て、それを明確にすることを通して、経営の道筋をつけていくべきである。

 これらの意見提起に関して、デュポンがどういった見解を示したかは、思い出すことができない。しかし、実行を後押ししてくれたのだから、賛成していたに違いない。

 1922年にはデュポンの肝いりで、業界経験の豊富な2氏、チャールズ S. モットとフレッド J. フィッシャーを経営委員会のメンバーに迎えることができた。1924年、私が経営委員会の議長を務めていた際にもデュポンは、ハリー・バセット、ドナルドソン・ブラウン、ジョン L. プラット、チャールズ T. フィッシャー、ローレンス P. フィッシャーを加えることを支持してくれた。

 こうして経営委員会は10名体制となった。その構成は自動車事業の専門家7名、財務のプロ2名、そしてデュポンである。経営委員会は、実務経験の面で事業部に匹敵する陣容を整え、以後、それが慣行となった。以後、ようやく方針策定に専念し、マネジメントを社長に一任するようになった。

調達委員会の設置

 スタッフ、ライン、経営陣の関係も整理しなければならなかった。そこで次に、組織全体をいかに整えていったかを述べたい。早い段階で調達、広告を一元的に行う体制を築いたため、それが効果的に組織づくりを進める地ならしとなった。

 1922年には、私自身の発案で調達委員会を設置している。調達委員会についてはポイントを2点指摘しておきたい。

 第1はそれ自体にどのような存在意義があったかということ、第2は組織間の協調について、図らずも貴重な教訓を与えてくれたことである。とりわけ後者が大きな重みを持っている。

 調達活動を一元的に進めようというのは、GM独自の発想ではなかった。当時これは、経済上の理由から重要な戦略と見なされていた。私も、状況によってはそれが有効だと考えていた。

 ハイアット時代にフォード・モーターに部品を納入していた経験から、規模の重要性は実感していたが、一つの組織が各事業部の調達を一手に引き受けるのは、想像とは違って容易ではなかった。

 1922年時点では、GMはジレンマを抱えていた。大量購入のメリットを引き出すために、タイヤ、鋼鉄、事務用文具、布地、バッテリー、建設用ブロック、アセチレン、研磨材などを一元的に購入しながらも、各事業部に大きな裁量を残していたのである。調達の一元化にどのようなメリットがあるか、当時の考えをメモに残してある。

①年間500万~1000万ドルのコストを削減できる。

②在庫量の調整、とりわけ削減が進めやすくなる。

③不測の事態が生じた場合には、事業部間で資材を融通できる。

④仕入値の変動をうまく生かすことができる。

 一括購入特有の難しさについても言及している。GM製品はすべて高度な技術に裏打ちされており、各製品を長年扱う間に、担当者にはさまざまな気質や発想が浸透している。

 言い換えれば、製品の技術的特性とマネジャーの発想の両面に、各事業部のカラーが染みついており、それを尊重する必要があったのである。ただし、私が調達の一元化を唱え始めた頃は、事業部による発想の違いはさほど顕著ではなかった。

 事業部サイドはただ、自分たちには長年の経験があること、要求条件が多岐にわたること、事業部の責任があいまいになって製品開発に影響が出るおそれがあることなどを挙げて反論したのみである。

 このような反論への対処として私は、各事業部の代表者を主要メンバーとして調達委員会を設けることを提案した。事業部も賛成してくれた。なぜなら各事業部にも、委員会が事業部の意見を反映させながら調達の方針や手順の策定、仕様の決定、契約案の作成を進めること、その決定が効力を持つことなどがわかったからである。

 こうして、委員会で全社と各事業部の利害を調整できるようになった。本社購買部門のスタッフは委員会の決定に沿って業務を遂行するのみで、事業部に指示を出すことはなかった。

 すなわち、判断を下すのは調達委員会、それを実行に移すのは本社購買部門、という役割分担が出来上がったのである。調達委員会はおよそ10年にわたって活動を続け、さまざまな成果を残したが、限界も少なくなかった。

 第1に、事業部単独でも資材や部品を大量に購入していたため、通常は最大限の値引率が適用された。

 第2に、調達活動全体を円滑に管理するのは、容易なことではなかった。全事業部一括で資材を購入する場合、選定から漏れたサプライヤーが事業部に直接アプローチして、低い価格を提示することがあり、混乱や不満の原因となった。

 第3に、部品や資材の種類が多く、共通点は乏しかった。ほとんどが、特定の技術コンセプトに沿った特別仕様の製品だったのである。

 したがって、調達委員会が目覚ましい成果を上げたと胸を張ることはできないが、部品や資材の標準化を強く推し進める契機にはなった。部品・資材を標準化し、生産を標準化する――このうえなく重要なことである。調達委員会の功績で最も際立つのは、部品・資材の標準化を成し遂げたことである。その効果は永続するだろう。

 加えて、調達委員会での経験を通して、私たちは全社の活動をいかに調整すればよいかを学ぶことができた。ライン(事業部)、スタッフ(本社購買部門)、経営陣(調達委員会のトップである私)が実際に歩調を合わせる努力をしたのである。2年後、私はこれらの活動を振り返っている。

 調達委員会の活動は優れた手本を示している。各組織が力を合わせれば、おのおのの利益と株主の利益を同時に生み出すことができる。あらゆる点から見て、このように調整を図るほうが、中央から指示を出すよりもはるかに望ましい。

広告委員会の設置

 調達に次いで、広告の分野でも全社の力を結集することにした。1922年に消費者調査を実施したところ、ウォール街などの金融街を除くと、GMはほとんど知られていないことがわかった。そこで、広告・宣伝を行う必要性を感じたのである。

 バートン・ダースティン・アンド・オズボーン(現BBDO)から企画を提出してもらい、財務委員会、経営陣の了承を得たが、事業部に関わる事項であるため、各事業部やデトロイトの上層部にも意見を求めた。

 皆が価値を認めてくれたので、キャンペーンを執り行うことにして、企画者のブルース・バートンに全面的に実施を任せた。

 社内では、事業部長や本社スタッフをメンバーとする広告委員会を発足させ、バートンを助けながら他の広告活動とうまく連携することを目指した。私は、「特定の事業部に関わる広告を打つ際には、その事業部の了承を得ること」というルールを定めた。これも、組織間の連携の強化に役立った。

技術委員会の設置

 だが、やはり最大の教訓は銅冷式エンジンの開発を通してもたらされた。このプロジェクトをめぐっては、研究部門と事業部のエンジニア同士の確執をはじめとして、さまざまな確執が生まれ、打開の道を探ることが求められていた。新世代車の開発に邁進する人々と、自動車生産を任務とするグループの間に亀裂が生じ、それを修復しなければならなかった。

 何より、両陣営に同じテーブルに着いてもらい、和やかな雰囲気のなかで意見を交わし、見解の違いを埋めなければならなかった。私には、そのようなミーティングは、経営トップの同席の下で行われるのが望ましいと思われた。将来へ向けて最終的な意思決定を下すのはトップなのだから。

 当時の模様を記憶だけに頼って記したのでは、あたかも筋道立って物事が運んだような印象を与えてしまうだろう。そこで、やや長いが資料を引用したい。これは、1923年9月に私自身が記して経営陣の多くに示し、了承を得たもので、当時の状況をよく示している。

 経営陣に示した資料から

 長い間温めてきた考えを述べたい。自動車関連の事業部を中心に、さまざまな現業部門がエンジニアリング分野で足並みを揃えられるように、仕組みを設けるべきではないだろうか。適切なプランを立てて、全関係者の支持を得られれば、GM全社に大きなメリットが生まれるのではないだろうか。

 この種の試みは、すでに調達分野で始められ、目覚ましい成果を上げている。継続していけば、利益向上につながるばかりか、多様なメリットをもたらすに違いない。広告委員会も多大な貢献をしている。

 先日もミーティングの後、デュポン氏から、仮に広告そのもの価値がさほど大きくないとしても、社内が活性化し、多彩な組織の代表者が手を取り合うため、さまざまなメリットがある、コストに見合った十分な価値がある、との意見をもらっている。この点では異を唱える者はいないだろう。

 同じ原則は当然エンジニアリングにも適用できるはずではないだろうか。ぜひ真剣に検討すべきだろう。大きな成果を生むことは間違いない。

 そこで、技術委員会の設置を提案したい。当初は権限と機能を広めに定めて、活動が軌道に乗ったら、状況に応じて調整していけばよい。

 活動を開始するためには、一般的な原則を定めなければならないが、それに先立って明確にしておくべき点、皆に理解してもらわなければならない点がある。技術委員会の役割は、個別事業部のエンジニアリング活動を取り上げて論じることでは断じてない。

 当社の組織原則――事業部制――には心から賛同してもらっていると思うが、この原則では、事業部の活動はそれぞれのゼネラル・マネジャーが完全に掌握し、本社には大枠のみを報告すればよいことになっている。このきわめて健全な組織原則をわずかといえども曲げる意思はない。

 その一方で、私は以前から懸念を抱いている。GMには事業部制と併せて、全社の力を結集してより大きな株主価値を生み出す仕組みが必要ではないだろうか。これは当社にとって最大級の課題である。各事業部と全社の活動をうまくバランスさせることは可能であるし、何としても実現していかなくてはならない。

 最良の方法は、同じ機能を持った組織の代表者が集まって、話し合いによって協調への道を開くことだろう。彼らには十分な権限を与えて、課題に対処できるようにすべきである。

 もとより、権限が建設的に用いられることが前提である。適切なプランさえ立てれば、事業部と本社がうまくバランスを取り合って、協調を通して大きなメリットを生み出していけるだろう。そのうえ、いかなる組織の独立性も損なわずに済む。

 以上の考え方が正しいとの前提に立って、技術委員会の果たすべき役割を明確にしたい。これは、機能のいかんを問わず、社内外のあらゆる委員会に当てはまるはずである。

①すべての事業部の利益につながる問題、全社のエンジニアリング方針を決定づける問題を扱う。

②特許委員会を吸収し、その役割を引き継ぐ。

③個別事業部に閉じた問題は取り上げず、従来どおり各ゼネラル・マネジャーに任せる。

 特許部門の役割は他のスタッフ部門とは大きく異なり、ある意味で事業部制の例外といえる。特許に関わる事項はすべて特許担当ディレクターの所掌として一元的に遂行される。

特許部門については特筆すべき点がある。特許関連の業務はすべて特許担当ディレクターの下に一元化されていたため、位置づけが特殊で、事業部制の例外だったのである。

 しかし、特許手続きを進めるうえでは、特許・新案委員会を設けて、場合に応じて特許担当ディレクターと協力・分担する必要も生じてくる。特許・新案委員会のメンバーは、当然、技術委員会と大幅に重なることから、組織簡素化のためにも両者を統合するのが望ましい。

 デイトンのGMリサーチ・コーポレーション(以下GMリサーチ)についても、役割を再検討しなければならない。GMはこれまでのところ、この組織を十分に生かしていない。適切なマネジメントがなされていれば、このようなことにはならなかっただろう。

 原因は数多いが、何より、マネジメント方針の欠如、ないしは互助精神の欠如が挙げられる。事業部とGMリサーチ、さらには事業部同士が歩調を合わせることが望まれる。デイトンで進めている研究・エンジニアリング活動は、事業部が受け入れ、商用化しない限り、生きることがない。

 この点については、全員の賛成を得られるだろう。GMリサーチの活動を深く知ろうとしてこそ、初めてGM全社のエンジニアリング力を高められるに違いない。

 私の考えでは、技術委員会は独立性を保つべきである。またその役割は、秘書役を通して全メンバーに有益なプログラムを設けることに止まらない。望ましい内容と範囲が定まれば調査・研究を実施し、そのためにGMリサーチ、事業部、その他、成果を生むのにふさわしい施設を利用すればよい。

 プロジェクトの実施に関しては、委員会メンバー、GMリサーチ、あるいは社員が、秘書役に相談のうえで、委員会の場に提案することができる。

 1924年1月1日以降、コストはすべて予算制度の下で管理されるため、技術委員会の運営経費も予算のなかから拠出することになる。

 このような考え方を業務執行委員会の席上で説明したところ、関係事業部のゼネラル・マネジャー、グループ・バイス・プレジデント全員の賛成を得られた。前向きな取り組みであるから、全社のサポートを得られるだろうと。そこで、以下の点を提案したい。出発点としてはこの2点で十分だと考えられる。

①各事業部とエンジニアリング関連部門、さらにはGMリサーチとの間で協力関係を築く必要がある。そのために委員会を設置して、「技術委員会」と命名する。

②技術委員会は原則として、各事業部のチーフ・エンジニアその他をメンバーとする(以下略)。 

技術委員会の役割

 このようにして技術委員会が設けられ、エンジニアリングに関する最高機関となった。技術委員会では、銅冷式エンジンをめぐって対立関係にあった両当事者が同席することになった。O. E. ハントに代表される事業部のチーフ・エンジニアと、チャールズ・ケッタリングを中心とする本社エンジニア、そして本社経営陣が顔を揃えたのである。私も議長として出席した。

 設置提案にも記したとおり、技術委員会は高い独立性を持ったスタッフ組織で、秘書役がついて予算も割り当てられていた。第1回のミーティングは1923年9月14日に開かれている。私は出席者たちに囲まれながら、安堵感に包まれていた。

 研究部門を取り仕切るケッタリング、〈シボレー〉の生産・エンジニアリングを統括するハント、私のエンジニアリング顧問を務めていたヘンリー・クレーン。彼らがそれまでの確執を乗り越えて、穏やかな雰囲気の下でテーブルを囲み、将来を見据えて自動車開発について語り合う機会が生まれたのである。

 技術委員会が発足したことで、社内でエンジニアの地位が高まり、彼らが開発・生産環境や人材を手に入れやすくなった。また、委員会の活動を通して、一定の全社方針に沿って車種を投入することが、将来の繁栄にとって重要だという考えが深く浸透した。実に目覚ましい効果である。

 社内では市場にアピールする製品を生み出すこと、改良していくことに関心が集まり、フットワークも軽くなった。事業部のエンジニアたちは、新しいアイデア、進歩的なアイデアを自由に交換し、積極的に経験を共有するようになった。情報の移転と共有化が進んだのである。

 技術委員会には数多くの具体的な課題が与えられた。当初は特許も扱っていたが、ほどなくニューデバイス特別委員会に引き継ぎ、より重要な任務として、ミシガン州ミルフォードに新設されたプルービング・グラウンド(実験施設)の「取締役会」の役目を果たすようになった。

 テスト工程が製品の将来を決めるうえで大きな意味を持つようになっていた。プルービング・グラウンドは、当時一般的だった路上テストに代わって、管理環境下でテストを行うための施設であった。技術委員会は、プルービング・グラウンドが標準的なテスト手順と測定装置を開発できるように取り計らい、各事業部および他社の車種を客観的な立場から比較するための組織として育てていった。

 ここではエンジン・テストは行わなかったが、技術委員会はその指針を作成して、各事業部が統一的な方法でエンジンをテストできるようにした。

 技術委員会は柔軟性を持ち味としていた。研究に重点を置き、その活動は「セミナー」として知られるようになっていった。ミーティングの冒頭で、具体的なエンジニアリング課題や機器について資料を読み、それを主なテーマに議論をするのであった。

 時には、議論の結果、新しい機器や手法の導入を決めたり、エンジニアリングの手法や手順を推薦したりすることもあった。とはいえ通常は、メンバーの一人が他の出席者に情報を提供するのみである。各メンバーは、自動車エンジニアリングの最新情報や課題を幅広く吸収すると共に、他部門の動向に接して事業部に戻るのであった。

 委員会は報告書やリポートを読み、議論を交わすことによって、ブレーキ、燃費、減摩など、当面のエンジニアリング課題を研究した。

 四輪駆動エンジンとバルーンタイヤが開発されると、ステアリング・メカニズムの変更を検討し(このためにタイヤ会社と共に小委員会を設けた)、ガソリンの凝固によってエンジン内部がさびついたり、ガソリンかすが生じたりする問題についても対処法を探った(これはクランクケースを換気することでようやく解決した)。

 1924年から翌年にかけては、ディーラーやセールス部門に働きかけ、最新のエンジニアリング手法を顧客に紹介すれば、販売面のメリットにつながると納得を得た。私からの要請で、多彩な車種や年式を客観的に評価する基準も設けた。私はさらに1924年に、各車種の大枠仕様を定めるように要請した。車種ごとに差別化を図り、コストと価格のバランスを保つことが目的だった。

技術委員会の活動

 長期的な調査・研究は、技術委員会が発足してからの数年間、ケッタリングのチームがほぼ一手に引き受け、報告書を作成していた。

 扱ったテーマは、シリンダー壁の温度調節、シリンダーヘッド、スリーブバルブ・エンジン、吸気マニホールド、テトラエチル鉛、トランスミッションなど、燃料と冶金関連が中心である。この2つの分野は以後、自動車の性能アップに大きく寄与することになる。

 委員会は1924年9月17日、トランスミッションをテーマに取り上げた。この時の議論は委員会の活動状況をよく示しているので、議事録を基にその模様を紹介したい。

 始めにケッタリングが、さまざまなタイプのトランスミッションを比較しながら、メリットとデメリットを説明した。引き続き委員会はエンジニアリングの観点から、慣性式トランスミッションの実用性を長時間にわたって議論した。

 ハントは「市場の観点から」意見を述べた。交通量が増えていることから、「高性能のアクセルとブレーキ」の必要性が大きくなっているという。しばらくやり取りがあった後、私はこう述べてひとまず話し合いを収めた。

「委員会の意見をまとめておきたい。第1に、当社としては最高水準のトランスミッションを開発すべきである。これは研究部門に深く関わる問題だが、慣性式トランスミッションが最も有望そうである[注]。研究部門の扱うべきテーマであるから、ケッタリングに慣性式の開発に向けて尽力してもらってはどうだろう。……第2に、当面はクラッチ、トランスミッションともに慣性と摩擦を最小限に抑えなければならない。これについては、各事業部の努力に任せたい」

 このようにしてGMは、研究部門(GMリサーチ)と事業部の役割を分けた。ただし、事業部はその後も引き続いて長期的なプロジェクトを担い、シボレー事業部は低価格の6気筒車を開発していた。この年の夏、私はカナダのオシャワで技術委員会に参加し、その模様をケッタリングに書き送っている。おおよその様子がおわかりいただけると思う。

 素晴らしい会議でした。実りある話し合いが行われただけでなく、参加者が週末もオシャワ周辺に留まり、釣りやゴルフに興じたため、そのような触れ合いを通して皆の考えが一つになり、絆が深まったのです。嬉しい限りです。

 壮大な構想を推し進めていることを考え合わせると、エンジニアリング畑の人々がぴたりと呼吸を合わせていることには、感激せずにいられません。焦ってはいけないが、現在のやり方を続けていけば、いずれ大きな成果が上がることは間違いないでしょう。軍隊のように融通の利かないやり方では、けっしてうまくいかないはずです。

全社セールス委員会の設置

 事業部横断的な委員会の活動はまず調達、広告分野で試行された後、技術委員会の設置によって本格化した。これは、GMが全社の力を結集する最初の取り組みであった。以後、ほとんどの機能分野に全社委員会を設けることになる。

 技術委員会の次に設けたのは、セールス分野の委員会である。セールス分野は立ち遅れが目立っていた。というのも1920年代半ばまで、自動車市場はきわめて小さかったのである。

 私は全社セールス委員会を設け、乗用車、トラック関連各事業部のセールス・マネジャー、本社セールス・スタッフ、経営陣をメンバーに据えた。私自身も議長として加わり、1924年3月6日に第1回のミーティングを招集した。以下、冒頭で私が発言した内容である。

 全社セールス委員会での発言

 各事業部に大きな権限を委ねるのは、当社の揺るぎない方針である。しかし、全社、株主、各事業部の利益につながるプランや方針を打ち立てるためには、折に触れて組織間の意思疎通を図るのが望ましい。

 全社の協調を幅広く進めていく必要性は、ますます大きくなっている。なぜなら、近い将来、競合他社の統合が進む可能性が高いのだ。ご承知のように、自動車業界は再編に向かっている。利幅の縮小がこのトレンドに拍車をかけるだろう。競争の激化によって、遠からず市場での勢力地図が大きく塗り替えられるに違いない。

 改めて述べるまでもなく、GMは価格帯別に車種を投入する方針を大胆に推し進めてきた。これは当社ならではの強みである。設計と生産の面でも、事業部長とエンジニアの呼吸が合ってきている。実に素晴らしいことである。

 セールス分野でも、同じように全社の力を結集すれば、大きな成果が得られるに違いない。GMの全役員、全社員が、今後のボトルネックはセールスにあることを認識すべきである。どの業界でも、いずれはセールスがカギを握るようになる。自動車業界もそのような時期を迎えようとしている――いや、すでに迎えているかもしれない。

 当委員会では、全社的なセールス上の問題をすべて取り上げることとしたい。主体となるのはここにいる皆さん一人ひとりである。セールスに関して、幅広い議論や意見の調整が必要だと考えたなら、遠慮せずに発言してほしい。方針や活動内容が決まれば、本社としても支援を惜しまない。

 議論のテーマは、全事業部に関わるものに限定すべきだろう。皆多忙を極めていることでもある。些細な問題は脇において、本質的なテーマのみを扱っていきたい。的を射た議論をビジネスライクに進めるよう、全力を尽くしたい。

 ただし、時間をかけて資料を用意するような必要はいっさいない。もちろん、ぜひ提出したい資料があれば別だが。秘書役はセールス部門のディレクター、B. G. コーザーに任せたい。必要があれば、コーザーの部下にも委員会関係の仕事をしてもらう。

 今後の具体的テーマなどは定めていない。緊急の案件があれば、まず皆さんが気づくだろうから、議題は参加者の意思に委ねたい。主催者サイドからも時折提案を出すかもしれないが、受け入れるか否かはそれぞれの判断に任せる(以下略)。

 後に、生産、セールス上の課題をこなしていくうえで財務コントロールの視点が求められるようになり、全社セールス委員会の議長を私からブラウンに引き継いだ。セールス分野の全社調整は、財務部門の協力を仰ぎながら進めることになった。

 1924年末、プラットが事業部横断的な委員会の意義や効果について調査を行っている。その結果、各組織のベクトルを合わせるためには、これが最良の方法だろうと全体の意見が一致した。

 こうして全社委員会が定着し、工場長や動力・メインテナンスのスタッフを対象とした委員会も設けられた。経営上層部でも緊密な協力体制が敷かれたが、全社委員会とはやや手法が異なっていた。

 すでに述べたように、ウィリアム・デュラント時代の経営委員会は、事業部長がそれぞれの利益のために意見を戦わせる場であった。デュラントの退陣と共に、経営委員会メンバーを暫定的にデュポン、私以下4名に絞り、他は諮問委員会に移ってもらった。

 その後、経営危機の克服が図られていた間、諮問委員会は実質的には活動を休止していた。私が社長となって経営委員会のメンバーを増員した後は、事業部長を1、2名ほど呼ぶこともあった。状況によっては、大規模事業部の意見を聞いたほうがよいと判断したこともある。しかし、あくまでも例外だった。

 私の考えでは、全社レベルの委員会は個別事業部の利害を離れて方針を決めるべきだ。すなわち、ゼネラル・マネジャー以上のメンバーのみで構成すべきなのである。

業務執行委員会の復活

 この信念に沿って私は、休眠状態にあった業務執行委員会をテコ入れし、主要事業部のゼネラル・マネジャーと経営委員をメンバーに据えた。業務執行委員会の場で、両者がコミュニケーションを取れるようにしたのである。

 業務執行委員会は意思決定機関ではなかったが、方針について意見を交わしたり、新しい方針の必要性について話し合ったりする懇談会となった。全社の詳しい業績データを基に議論することもあった。「フォーラム」という名称からは形ばかりの会合が想像されるかもしれないが、業務執行委員会は実質的な意義を持っていた。

 大規模な企業には、社内の意識統一を図る場がなくてはならない。こう説明すれば十分だろうか――方針策定者が揃った場で事業部長の提案が了承されれば、実務上、その方針が受け入れられたのと同じである。

 以上のように、1925年の時点でGMは、さまざまな全社委員会を設けて調達、エンジニアリング、セールスなどの機能を調整していた。その体制は以後何年にもわたって維持された。経営委員会は、社内の全組織と連携を図りながら方針を策定していた。事業を取り仕切り、取締役会に責任を負っていたが――というよりも取締役会の直轄機関として機能していたが――、予算枠の拡大は財務委員会に要請していた。

 経営委員会は、事業の遂行に関しては圧倒的な権限を持っていた。社長兼CEO(最高経営責任者)が議長を務め、方針を実行するうえでのあらゆる権限を行使した。このマネジメント体制がその後、数々の進歩を経ながら、今日までGMを支えてきた。


※本連載は、再編集の上、書籍『【新訳】GMとともに』に収められています。

『【新訳】GMとともに』

[著者]アルフレッド P. スローン, Jr.
[翻訳者]有賀裕子
[内容紹介]ゼネラルモーターズ(GM)を世界最大の企業に育てたアルフレッド P. スローン Jr. が、GMの発展の歴史を振り返りつつ、みずからの経営哲学を語る。ビル・ゲイツもNo.1の経営書として推奨する本書には、経営哲学、組織、制度、戦略など、マネジメントのあらゆる要素が詰まっている。

<お買い求めはこちらから>
[Amazon][紀伊国屋書店][楽天]

【注】
慣性式トランスミッションは、技術的には大きな可能性を秘めているように思われた。しかし実際には変速がスムーズに行えず、耐久性も十分ではなかったため、生産には至らなかった。

有賀裕子/訳
DHBR 2002年7月号より
(C)1963 Sloan, Alfred P., Jr.

 

アルフレッド P. スローン, Jr.(Alfred P. Sloan, Jr.)
ゼネラルモーターズ 元会長。1875年生まれ。1920年代初期から50年代半ばまでの35年間にわたってゼネラルモーターズ(GM)のトップの地位にあった。20年代初めに経営危機に陥ったGMを短期間に立て直したばかりでなく、事業部制や業績評価など、彼が打ち出したマネジメントの基本原則は現代の経営にも大きな影響を与えている。彼のGMでの経営を振り返り、63年にアメリカで著したのが『GMとともに』である。同書は瞬く間にベストセラーとなり、組織研究や企業現場のマネジャーに大きなインパクトを与えた。『GMとともに』が刊行された3年後の66年に没した。