異色のキャリアが生み出した
ユニークな経営者人材育成論

「プロフェッショナル・マネジャー」と呼べる経営者は、いまの日本では稀有な存在だが、三枝匡は間違いなくその筆頭候補であろう。三枝のキャリアは、日本の企業社会においてはきわめて異色だ。

 まだ転職自体が珍しい1960年代末、入社2年半で三井石油化学を飛び出し、当時ほとんど知られていなかったボストンコンサルティンググループ(BCG)に日本採用社員第1号として参加する。日本とアメリカを舞台にコンサルタントとしての経験を順調に積んでいくが、三枝は、いずれ経営者になることを真剣に考えた。

 コンサルタントを続けることが、経営者への道に近づくとは限らない──20代にしてそれを見抜いた三枝はBCGの慰留を振り切って、自費でスタンフォード大学ビジネススクールに留学し、MBA取得後は実業に転じた。30代で赤字メーカー2社の再生やベンチャー・キャピタルの経営をみずから社長として経験した。不振に陥った上場企業や事業部の再生に関わる、ターンアラウンド・スペシャリスト(企業再生のプロ)を日本で最初に名乗ったのは三枝だ。

 16年間にわたるその活動の最後に手がけたのは、連結1兆円企業が10年かけても直せなかった赤字事業の再生だった。2年間で企業再生を成功させた過程は、彼の著書『V字回復の経営』に詳しい。彼の3冊の企業再生物語はいずれもベストセラーである。産業再生機構やMBOファンドのプロたちも参考書として必ず手にした本であり、経営のプロフェッショナルとしての彼の思考法や実践プロセスを詳細に知ることができる。

 その三枝が、「持たざる経営」「チーム組織」など独自の経営スタイルが話題になることの多かった中堅商社ミスミ(現ミスミグループ本社)のCEOに就任したのは2002年6月のことである。当時、ミスミの業績は優良だった。しかし、創業者の田口弘が引退を考えた時、その後継者は外部から登用せざるをえなかった。三枝は、ミスミの経営者人材の内部育成に、ほぼ白紙の状態から取り組む決意を固めたのである。

 社長就任からこの4年間に、三枝は二部上場メーカーとの経営統合、製販一体の海外展開、外部人材の積極的導入など、創業者と異なる戦略を打ち出して業績を飛躍的に伸ばした。就任時、創業40年で売上高500億円であったミスミをわずか4年で2倍の1000億円企業に押し上げた。しかし三枝は、そうした業績を叩き出すのと同じくらいの情熱を傾けて、みずからの使命と課した「経営者人材の育成」に注力してきた。

 社内ばかりではない。上場企業のトップである一方、一橋大学大学院商学研究科の客員教授として、毎年、MBAの1学期の授業を担当してきた。「文武両道」が三枝の持ち味なのである。日本で希有なプロ経営者が培ってきた人材育成コンセプトはいま、就任5年目に入ったミスミでどのような成果を生みつつあるのだろうか。

経営者人材の条件とは

編集部(色文字):日本企業はこの10年でずいぶん変わり、CEO養成講座を始めた大企業もあります。共通した悩みは経営者人材の選抜基準です。

三枝(以下略):自分の選んだ人材がそれほどの能力を持っていなかったという「人を見る目」の失敗は、人の上に立つ者すべてが経験することです。私も過去にずいぶん痛い目に遭って、それで人を見る目が肥えました。

 リーダーの素養とは、「論理性」と「熱き心」の2つに集約されると思います(図1「経営者人材が磨かれるプロセス」を参照)。論理性は戦略性、熱き心はリーダーシップとそれぞれ言い換えることができます。