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自動車時代をつくったフォードとデュラント
1908年に起きた2つの出来事――それは自動車産業史に永遠に刻まれることになる。
・ヘンリー・フォード(1863年~1947年)、〈T型フォード〉を発表。
・ウィリアム C. デュラント(1861年~1947年)、ビュイック・モーター・カンパニーを発展させてゼネラルモーターズ・コーポレーション(以下GM:当時の正式社名はゼネラルモーターズ・カンパニー)を設立。
それぞれ、一企業、一車種の誕生をはるかに超えた意義を持っている。土台となったのは異なったものの見方、異なった哲学であるが、いずれの哲学も、自動車産業の発展にこのうえなく重要な役割を果たしていくことになる。
いち早く脚光を浴びたのはヘンリー・フォードである。フォードの時代は19年にわたって続き(〈T型フォード〉は1927年まで生産された)、氏の名声を不朽のものにした。
他方、デュラントのパイオニア的な偉業は、いまだそれにふさわしい評価を得てはいない。デュラントの哲学は、〈T型フォード〉が市場を支配した時代には理論の域を出ておらず、後年、デュラント自身ではなく別の人々の手によって実現される。私もその栄を担うことになった。
ウィリアム C. デュラントとヘンリー・フォード。両氏は、比類ない慧眼によって、自動車産業の創成期にすでにその大いなる可能性を見抜いていたのである。
当時自動車といえば――とりわけ銀行家の間では――〝娯楽の道具〟と見なされていた。高価で一般の人々にとっては高嶺の花だったにもかかわらず、性能には不安が残っていた。道路もほとんど整備されていなかった。
このような状況にもかかわらず、デュラントは1908年――アメリカの自動車生産台数が全体でわずか6万5000台だった当時――、早くも年間の生産台数が100万台に達する日を夢見ていた。そしてそれがゆえに、誇大妄想ではないかと冷ややかな目を向けられた。
フォードのほうは〈T型フォード〉によって、他社に先駆けて「年間100万台」を達成しようと前進を始めていた。1914年にアメリカの自動車生産台数は50万を超えた。〈T型フォード〉単独でも、16年に50万台を突破し、20年代初頭には一時、年間で200万台を超えた。
しかし、このように自動車産業史に輝かしい一ページを記しながらも、やがてこの車種は表舞台から消えていく。特筆すべき事実であろう。
デュラントとフォードは共に、卓越したビジョン、勇気、大胆さ、イマジネーション、先見性をもって、年間の生産台数が今日(編集部注:原書の初版刊行1963年)の数日分にも満たなかった時代に、自身のすべてを賭けて自動車産業の発展に尽くした。
共に、後世に語り継がれる素晴らしい車種を生み出し、長く生き続ける偉大な組織を築いた。共に、自身のパーソナリティと天賦の資質を頼りに、いわば直感的に経営を進め、既存手法やデータに基づく形式的なマネジメントを排した。
ただし、組織構築の手法はまさに対照的だった。フォードがあらゆる意思決定を一元化しようとしたのに対して、デュラントは分権化をどこまでも追求していった。加えて両氏は、異なる製品、異なる手法を武器に市場への浸透を目指した。
フォードは①組立ラインによる生産、②最低賃金を高めに設定してなおかつ製品価格を抑える手法を考案し、業界慣行にきわめて大きな影響を及ぼした。基本に据えたのは、実用車分野に単一の車種を投入して、低価格化を図るという戦略である。
これは、当時の市場ニーズに――なかんずく農場のニーズに――応えるものだった。一方デュラントは、多彩な車種を提供したいと考えていた。この考え方は当初は漠然としていたが、やがて具体化され、業界の主流となっていった。今日の大手メーカーは例外なく複数の車種を製造・販売している。
デュラントはきわめて尊敬すべき人物であるが、欠点もまた人並みはずれて大きかった。類稀な創造性を持ちながら、経営を管理する力は皆無に等しかった。
このため、馬車、次いで自動車の生産を通して四半世紀以上にわたって栄華を誇りながら、結局は失意の底に沈むことになった。
氏がGMを設立しながらも、そこに託した夢を実現できぬまま経営の実権を奪われたことは、アメリカ産業史上の悲劇ではないだろうか。
一般には知られていないが、氏は、馬車の製造会社を一代で築き、20世紀の初頭には国内のトップメーカーにまで押し上げている。
それだけではない。1904年に倒産のふちにあったビュイック・モーター・カンパニーの経営権を掌握して、わずか4年後にはアメリカを代表する自動車メーカーへと再生させている。
この年(1908年)の生産量は〈フォード〉が6181台、〈キャデラック〉が2380台であったのに対して、〈ビュイック〉は8487台にも達している。
ゼネラルモーターズの誕生
デュラントは1908年9月16日にGMを設立し、10月1日にビュイックを、11月12日にオールズ・モーターを統合した。翌年にはオークランドとキャデラック・オートモビルをも傘下に収めている。
GMは持株会社と位置づけられ、傘下の各社は従来の組織のままで自主的な経営を進めていた。GMを中核にして、自律的な子会社が衛星のように周囲に配されていたのである。
デュラントは1908年から10年にかけて、株式交換をはじめとするさまざまな手法を通じて、合計25社をグループ企業化している。その内訳は自動車メーカー11、照明機器メーカー2、自動車部品・周辺機器メーカー12であった。
しかし自動車メーカー11社のうち、子会社から事業部へと組織形態を変えながら長く存続するのは、ビュイック、オールズ(現オールズモビル)、オークランド(現ポンティアック)、キャデラックのみである(編集部注:ただし、オールズモビルは2004年の廃止が決まっている)。残りの7社は、設計主体で自社生産はほとんど行っていないため、存在感が薄かった。
当時、企業買収に際しては株の水増しなどの操作が行われることが多く、時として目を見張るような効果をもたらした。ただし、GMの設立に当たっては、そのような〝錬金術〟の力など借りる必要はなかったはずである。GMの前身であるビュイックは以前から高業績を上げていた。
・1906年 売上高200万ドル、利益40万ドル
・1907年 売上高420万ドル、利益110万ドル(この年、アメリカ経済は危機に見舞われた)
・1908年 売上高750万ドル、利益170万ドル(共に推定)
成長率、利益率とも申し分なかったのである。
しかし、デュラントはそれに甘んじることなく、製品ラインの拡張と企業買収を通して組織力を高めたいと考えた。生産手法の面でも、時代を先取りしていたといえる。ライバル企業が他社の製造した部品をただ組み立てるのを横目に、いち早く部品の自社生産に乗り出し、徐々にそれを推進しようとしていった。
1908年にはマックスウェル・ブリスコー・モーター・カンパニーとの吸収・合併を検討している。
結果的には見送られたが、その趣意書をひもとくと、デュラントが購買、販売、さらには統合生産にどういった効果を期待していたかをうかがい知ることができる。
たとえば、次のような記述がある。「(ミシガン州フリントにあるビュイックの工場の)周囲には10ほどの独立工場があり、車体、車軸、スプリング、ホイールなどの製造、鋳造などを行っている」。一部の工場については優先取得権も得ていたという。
デュラントは、一般に考えられているようにいたずらに投機に走ったのではなく、経済の原則を深く理解していた。たしかに、経済哲学を厳密に応用したとはいえないだろう。だが、数多くの偉大な自動車メーカーが興亡を繰り広げた時代にあって、傑出した人物であったことは間違いない。
デュラントの合併戦略
GMの設立時から、デュラントは経営に3つの柱を据えていたように思われる。
第1は、多彩な車種を供給して、嗜好や収入水準の異なるさまざまな顧客層にアピールしようとの方針である。ビュイック、オールズ、オークランド、キャデラックは当初からこれに従っており、後にシボレーも同じ路線を踏襲することになる。
第2の柱は、戦略的な多角化である。自動車技術の発展に関して何通りものシナリオを描き、リスクを分散したうえで一定以上の業績を上げることを目指していた。
当時傘下にあったカーター・カーは、摩擦駆動技術を有しており、スライディング・ギア・トランスミッションに代わりつるのではないかと見られていた。
エルモア・マニュファクチャリング・カンパニー(前身は自転車メーカー)の製造する2サイクル・エンジンも、何らかの需要に応えうるだろうと期待されていた。他にも、さまざまな企業に投資が行われたが、ここでは社名を挙げるに止めておきたい。
・マルケット・モーター・カンパニー
・ユーイング・オートモビル・カンパニー
・ランドルフ・モーターカー・カンパニー
・ウェルチ・モーターカー・カンパニー
・ラピッド・モーター・ビークル・カンパニー
・リライアンス・モータートラック・カンパニー
ラピッドとリアイアンスの2社は合併のうえ「ラピッド・トラック」と命名され、GMトラック・カンパニー(1911年7月22日設立)に吸収された。
第3の柱は、ビュイックの施策に関連してすでに紹介したように、部品や付属品を含めた統合生産の推進である。デュラントはビュイック時代にすでに、数々の部品メーカーを傘下に収めている。
・ノースウェイ・モーター・マニュファクチャリング・カンパニー:乗用車やトラック用のモーター、部品の製造
・チャンピオン・イグニション・カンパニー(ミシガン州フリント、後にACスパーク・プラグ・カンパニーと改称):スパークプラグの製造
・ジャクソン・チャーチ・ウィルコックス・カンパニー:〈ビュイック〉の部品製造
・ウェストン-モット・カンパニー(ニューヨーク州ユーティカ、後にミシガン州フリントに移転):ホイールと車軸の製造
高級馬車製造のマクローリン・モーターカー・カンパニー(カナダ)もグループの一員となった。マクローリンは〈ビュイック〉用の部品を購入して、カナダで〈マクローリン・ビュイック〉ブランドの自動車を製造するようになった。
このようにして、GMグループにR. サミュエル・マクローリンの才能がもたらされ、以後、マクローリンの多大な功績によってGMはカナダ市場でも発展を遂げる。
とはいえ、デュラントは企業買収のみによってグループ企業を増やしていったのではない。チャンピオン・イグニションのように、全額出資により設立した企業もある。設立時に、アルバート・チャンピオンのノウハウを高く評価して株式の25%を譲渡したが、1929年に未亡人から買い戻し、100%子会社としている。
以上のように、デュラントは統合生産を視野に入れて、早くから中核となる部品メーカーを取り込んでいた。
その一方で、ヒーニー・ランプ・カンパニーズという企業に、ビュイックとオールズの合計よりも多額の資金を投じたこともある(総額700万ドル:大部分をGM株で支払った)が、こちらは水泡に帰している。
ヒーニーはタングステン・ランプの特許を申請しており、大きな資産価値があると考えられていたが、後にこの申請は特許局によって退けられた。
デュラントの取った戦略は、長期的な有効性はさておき、短期的には彼を苦境に陥れた。当時GMを支えていたのは、ビュイックとキャデラック――なかんずく、高品質・大量生産を実現したビュイックである。
この両社でGMの生産量のほとんどを占め、その生産台数は1910年には全米の自動車生産のおよそ20%に達していた。言い換えれば、グループの他社はほとんど存在意義を持っていなかった。
GMはやがてその負担に耐えられなくなり、財務危機に瀕してしまう。こうして1910年9月、デュラントはみずから設立したGMの経営権をわずか2年で失うことになる。
GMは投資銀行から資金援助を受けることになり、リー・ヒギンソン・アンド・カンパニー(ボストン)のジェームズ J. ストロウ、J. アンド W. セリグマン・アンド・カンパニー(ニューヨーク)のアルバート・ストラウスらを中心としたグループに議決権信託により経営権が与えられた。
資金調達のめどもついたが、総額1500万ドル相当の償還期間5年の社債を発行して、1275万ドルを手にするという厳しい条件だった。社債の購入者にはGMの普通株式という「ボーナス」が与えられ、やがて社債そのものよりもはるかに大きな価値を持つようになった。
デュラントはGMの大株主であったため、形式的にはバイス・プレジデントとして取締役会メンバーにも名前を連ねていたが、経営の実権は奪われていた。
ナッシュの登場
以後、1915年までの5年間、投資銀行が経営の舵を取ることになる。効率を追求した保守的な経営だった。採算の取れない事業は清算され、在庫その他の資産1250万ドル相当――当時としては莫大な金額である――が償却された。
1911年6月19日にはゼネラルモーターズ・エキスポート・カンパニーが設立され、輸出を担うようになった。この時期、自動車産業は目覚ましく拡大し、全体の生産量は1911年から16年にかけておよそ21万台から160万台へと飛躍的な伸びを示している。
これを牽引したのは、低価格市場をターゲットとしたフォード・モーター(以下フォード)だった。GMも1910年から15年にかけて、4万台から10万台へと生産量を増やしはしたが、フォードの勢いに押されて、市場シェアを20%から10%へと低下させている。
低価格市場には参入していなかった。そして、財務状況は好転した。効率的な経営が実現したのは、当時の社長チャールズ W. ナッシュの手腕によるところが大きい。
ここで、ナッシュがGMの経営に参画するようになったいきさつに触れておきたい。
ナッシュは、デュラントが自動車業界に進出するおよそ20年前からデュラント-ドート・キャリッジ・カンパニーに籍を置き、経営の一翼を担うようになっていた。デュラントが才気にあふれ、大胆――あるいは無謀――であったのに対して、ナッシュは堅実さを持ち味としていた。
1910年には、自動車業界での経験がほとんどないにもかかわらず、製造、管理といった分野で資質を光らせるようになっていた。私の記憶によれば、投資銀行から派遣されたジェームズ J. ストロウがナッシュにビュイックの経営を任せたのは、デュラントの意見を取り入れてのことだった。
いずれにせよ、ナッシュは1910年にビュイックの社長となり、そこでの実績を評価されて、1912年には親会社GMの社長にまで上り詰めたのである[注1]。
ビュイックが初期のGMグループで中核的な役割を果たし続けたのは、必然だったといえる。優れた経営手腕を持った人材を、キラ星のごとく揃えていたのである。
ストロウはアメリカン・ロコモーティブの取締役も兼ねていた関係から、そこで勤務していたP. クライスラーの才能に目を留め、ナッシュに推薦した。それを受けて、ナッシュは1911年にクライスラーをビュイックに迎えている――たしか現場のマネジャーとしてだったと思う。
その翌年、ナッシュはGMの社長に転出するが、クライスラーはビュイックに留まり、後年、社長兼ゼネラル・マネジャーを務めることになる。
投資銀行が実質的にGMを支配していた1910年~15年の期間に、ビュイックはキャデラックと共にGMの全利益を稼ぎ出した。
GMが信用を維持するうえでは、投資銀行の後ろ盾が欠かせなかった。5年もの社債の発行によって負の遺産は一掃していたが、依然として運転資本を調達する必要に迫られていた。このため銀行からの借り入れに頼らざるをえず、その規模は一時900万ドル前後にまで膨らんだ。
だが、1915年には高業績を謳歌するようになり、その年9月16日の取締役会では、普通株1株当たり50ドルの現金配当を支給することが決まる。設立7年目にして初の配当である。
発行済み株式数は16万5000であったから、総額で800万ドル超が株主にもたらされたことになる。1株当たりの配当額としても、ニューヨーク証券取引所始まって以来の高額であったため、株式市場はこのニュースに沸いた。
取締役会の議事録を読み返してみると、この配当はナッシュが発案してデュラントが支持したことがわかる。
だが、その陰では、議決権信託の有効期限が迫るなか、投資銀行-ナッシュ陣営とデュラントとの確執が激しさを増しつつあった。デュラントが、みずからの手に経営の実権を取り戻そうと動き始めていたのである。
デュラントの再登場
1910年に権力の座を追われた後も、デュラントは進取の精神を失っていなかった。ルイ・シボレー(1878~1941年)が取り組んでいた自動車軽量化プロジェクトを後押しし、1911年にはシボレー・モーター・カンパニー(以下シボレー)の設立に参画している。
その後4年間で、デュラントはシボレーを全米規模に拡大し、さらにはカナダにも組立工場や販売拠点を設けていった。並行して、シボレーの持株数を増やしては、それと引き換えにGM株を手に入れていった。シボレーを橋頭堡にして、GMの経営支配権を取り戻そうとしていたのである。
同じ頃、デュポン家がGMと関わりを持つようになり、やがてその社史を語るうえで決して忘れることのできない存在となる。
デュポンとGMを引き合わせるうえで中心的な役割を担ったのは、ジョン J. ラスコブという人物である。ラスコブはデュポンの財務・経理を統括するかたわら、社長ピエール S. デュポンに資産管理のアドバイスも行っていた。
後の1953年、アメリカ連邦政府がデュポンとGMの関係について「不当である」と提訴した際に、ピエール・デュポンは証人として出廷して、1914年前後にGM株を2000株ほど個人で購入したと語っている。
証言では、1915年のある日、自身が取締役を務めるチャタム・アンド・フェニックス・ナショナル・バンクの社長ルイス G. カウフマンからGMの経営状況について説明を受けたとも述べている。
カウフマンはGMの沿革を紹介した後、銀行団の議決権信託が近く効力を失う点にも触れた――1915年9月の会議で、11月の改選に向けて新しい取締役会メンバーの候補が選任されると、デュポンは、デュラントとボストンの銀行家たちの関係は良好であると聞かされ、ラスコブと共に会議への出席要請を受け入れた。デュラントに会ったのは、記憶に残っている限りこの会議が初めてだという。
会議についてデュポンが証言した内容を引用しておきたい。
カウフマン氏の言葉とは裏腹に、激しい対立が繰り広げられていました――ボストンの銀行団の代表者たちとデュラントとの間でです。次期の取締役会メンバーについても、合意は難しそうでした。
(中略)長時間にわたって激論が戦わされた後、カウフマン氏に促されて会議を中座したのですが、戻ると、こう提案されました。私が中立的な人物を3人指名して、それを基に候補者名簿を作成してはどうかと。私が3人、各陣営が7人ずつ指名するのです。
席をはずしている間、議長にも指名されていました。
このようにして取締役候補が決まり、1915年11月16日の定期株主総会を経て承認された。同日、改選後の第1回取締役会で、ピエール・デュポンがGMの会長に選任され、ナッシュはもう一期社長を務めることになった。
だが、ボストンの銀行団とデュラントの間の溝は埋まらず、デュラント側が優位との見方が大勢を占めていた。
デュラントがあくまでも経営権を求めたため、委任状の争奪戦(編集部注:株主総会における議決権代理行使委任状の獲得競争)が起きる寸前まで事態は緊迫したが、何とか収拾された。
銀行団は摩擦を避けるようになり、1916年にGMから去っていった。こうして、シボレーの支配的経営権をテコに、デュラントがGMの経営者として返り咲いたのである[注2]。
デュラント側の勝利後、ナッシュの慰留が試みられた。だが、ナッシュは1916年4月18日に社長の職を辞し、ストロウから支援を得てナッシュ・モーターズ・カンパニーを設立した。7月にはウィスコンシン州ケノーシャのトーマス B. ジェフリー・カンパニーを買い取っている。
この企業は自転車メーカーから出発して、〈ランブラー〉という自動車を製造するようになっていた。私はこの当時、ナッシュ・モーターズ・カンパニーの株式を購入した。非常に高いリターンをもたらしてくれた。
ナッシュは数年前に亡くなったが、遺産は4000万ドルないし5000万ドルに上ると報じられている。堅実路線を掲げた経営者としては、きわめて大きな額ではないだろうか。
GMでは、6月1日の取締役会でナッシュの退任が正式に承認される。その後をデュラントが引き継ぎ、再び拡大路線が追求されるようになった。
デュラントはゼネラルモーターズ・カンパニーをゼネラルモーターズ・コーポレーションへと改称し、設立地も従来のニュージャージーではなくデラウェアとした。
同時に資本金を6000万ドルから1億ドルへと増額している[注3]。さらに、ビュイック、キャデラックといった自動車製造子会社を事業部として本体に吸収し、GMを持株会社から事業会社へと衣替えさせた。この新しい組織形態は1917年に正式に発足している。
デュラントは資金援助を必要として、デュポン・グループに期待を寄せたようである。デュポン側は、いかなる姿勢を取るべきか、決断を迫られることになった。ピエール・デュポンがこう回想している。
ラスコブからは、(GMへの投資は)デュポンにとってもけっして悪くない話だとアドバイスを受けました。それというのも、デュポンは、高収益と高配当を生み出せる企業に投資をして、配当力を下支えしておく必要があったのです。軍需事業が立ち行かなくなるのは時間の問題でしたから、新しい収益源が育つまで、配当力を維持する手立てが求められていました。
……GMのほうは、すでに飛ぶ鳥を落とす勢いでした。品質と人気を兼ね備えた製品ラインを揃えていましたから。……ええ、確信がありました――配当率は高まりこそすれ、下がることはないだろうとね。だからこそラスコブがGMに惹かれ、私自身も注目するようになっていったのです。GMは、考えうる最良の投資先でした。
ピエール・デュポンは、さらに次のようなエピソードを披露している。
GM(新会社ゼネラルモーターズ・コーポレーション)と自動車産業は、いずれも市場から否定的な見方をされていました――このうえなくリスクが大きいと。
そのような状況でしたから、株価も額面とほぼ変わらない水準でした。実際にはきわめて高いリターンを得られたのですが、だれもその事実に気づいていませんでしたので、なおのこと強く関心を引かれました。……おおよそそのように考えました。
……デュポンは軍需事業に携わっていますから、資金調達には深い経験がありました。
他方、デュラント氏はGMのために資金調達力や財務マネジメント力を必要としていました。氏はそのことを自覚していましたから、デュポンからの出資をことのほか歓迎し、財務を任せようと考えたのです……。
ラスコブは、デュポンの財務委員会に提出した資料(1917年12月19日付)のなかで、GMに出資すべきだとの自説を展開している。そこからは、氏が自動車産業の可能性をいかに鋭く見抜いていたかを読み取ることができる。
自動車産業、なかんずくGMの成長ぶりには目覚ましいものがある。その事実は同社の純利益、さらにはゼネラルモーターズ-シボレー・モーター・カンパニーの来年度の予想利益――およそ3億5000万ドルから4億ドル――からも見て取ることができる。
GMは業界で独自のポジションを得ており、適切なマネジメントさえなされれば、アメリカを代表する企業に成長するだろう。そのことは、ほかならぬデュラント氏がだれよりもよく心得ているはずである。
氏はこの前途有望な事業を動かすのに理想的な組織をつくりたいと、並々ならぬ意欲を持っているようである。
また、当社とのこれまでの関係をより緊密なものにして、みずからの巨大事業のために財務・マネジメント両面で支援を得たいと考えている。
このような議論が出発点となって、デュポンに魅力的な投資機会がもたらされた。
アメリカという、当面のところ世界で最も大きな可能性を秘めた国で、最も大きな可能性を持った産業に投資する機会がもたらされたのである。
したがって、一部の取締役が当社と無関係の案件に時間や労力を費やすよりも、社としてこのチャンスをつかむほうがはるかに好ましいと考えられる。取締役には、当社の株式を付与することで利益をもたらせばよいだろう[注4]。
ラスコブは、デュポンがGMに出資するメリットを5点ほど挙げている。
①GMの共同経営権を得られる
②GMの財務を管理できる
③高い投資リターンが期待できる
④資産評価額を超える価値を持った投資である
⑤デュポンの既存事業に貢献する
⑤のメリットについては、ラスコブ自身の言葉を紹介したい。「出資すれば、GMからは〈ファブリコイド〉〈パイラリン〉といった当社製品の売上げが期待できるほか、塗料、樹脂などの事業にも利益がもたらされるに違いない。この点を見すごすことはできないだろう[注5]」
ピエール S. デュポンとジョン J. ラスコブの提案を受けて、デュポンの取締役会は1917年12月21日にGM、シボレーの普通株式に投資することを決定した。
総額2500万ドル相当の株式が公開市場と投資家から購入され、1918年初めの時点ではデュポンの普通株持分は23.8%となっていた。年末までには持ち分がさらに積み増しされ、26.4%(4200万ドル)に達した。
出資を機にデュポン社とデュラントが手を携えてGMを経営するようになった。GMの財務委員会は実質的にはデュポンが動かすようになり、ラスコブが議長に就任した。
デュポン出身以外のメンバーとしては、唯一デュラントが名前を連ねるのみだった。委員会は経理・財務全般に権限を持ったほか、役員報酬も決定するようになった。それ以外の事項はすべて経営委員会の所掌とされた。
こちらはデュラントが議長を務め、GMとデュポンとの連絡役であるJ. A. ハスケルが出席していた。ハスケルはデュラントと同じく、経営委員会と財務委員会のメンバーを兼ねた。
1919年の末には、GMの事業拡大に伴ってデュポンの出資額が4900万ドルへと増やされ、出資比率は28.7%となった。
当時、ピエール・デュポンはこう語ったとされる。「GMへの投資はこれで最後にすると、言明を受けている。これ以上投資が重ねられることはないだろう」。ところが、事態は彼の予想を裏切る方向に進むことになる。
1918年から20年にかけて、デュラントは事業の拡大にひた走る。ラスコブと財務委員会もそれを強く後押しし、事業拡大資金の調達に奔走した。
買収に次ぐ買収
1918年にGMはまず、シボレーを買収している。これによって、フォードの低価格車を追い上げる素地はできたが、いまだ品質、価格ともに水を開けられていた。シボレーの傘下にあった小規模メーカーのスクリプス-ブースも、併せてGMグループに入った。
1919年には、フィッシャー・ボディとの関係強化という重要な出来事が起きている。GMがフィッシャーに60%出資して、車体の製造を委託することになった。
さらに1920年には小規模な自動車メーカー、シェリダンを買い取り、一時、GMは7種の製品ラインを持つことになった。既存のキャデラック、ビュイック、オールズ、オークランド、シボレー、GMトラックにシェリダンが加わったのである。ただし、実質的に生産活動を行っていたのはキャデラックとビュイックのみであった。
デュラント個人の発案によって、トラクターと冷却技術に関する特命プロジェクトも始められた。デュラントは時として一人で社外に出かけ、独断で取引を決めてしまう。これが社内に気まずい空気を生むこともあったが、最終的には、直感と衝動に基づく判断が追認されるのである。
同じような経緯で、GMは1917年2月にサムソン・シーブ・グリップ・トラクター・カンパニー(カリフォルニア州ストックトン)を買収している。サムソンはトラクターの駆動装置を発明しており、これは後に――その馬力にちなんで――〈アイアン・ホース(鉄の馬)〉と呼ばれるようになった。
サムソンは後年、ジェーンズビル・マシン・カンパニー(ウィスコンシン州ジェーンズビル)、ドイルズタウン・アグリカルチュラル・カンパニー(ペンシルバニア州ドイルズタウン)と併合され、サムソン・トラクター事業部となったが、収益はひどく低迷した。
GMはまた、1918年6月にはデトロイトの小規模企業ガーディアン・フリジレーター・カンパニーを5万6366ドル50セントで買収する。
当初、買収資金はデュラントの個人名義の小切手で支払われたが、翌年5月31日にGMが肩代わりしている。この新興企業はやがてフリジデアー事業部として大きな役割を果たすことになる。
上記以外にも、1918年から20年にかけて多数の企業が傘下に収められた。
・ゼネラルモーターズ・オブ・カナダ
・ゼネラルモーターズ・アクセプタンス・コーポレーション(GMAC):GM製乗用車、トラックの購入者への融資事業
・デイトン・グループ(発明家ケッタリングとの関わりが深い)
・自動車事業部に車軸、ギア、クランクシャフトなどを納入する多数のメーカー
・部品・付属品メーカーの複合企業体であるユナイテッド・モーターズ(私が社長を務めていた)
主にデュラントのリーダーシップによって、当時のGMは巨大企業へと成長しようとしていた。だが、形式的にも実質的にもほとんど統一性が取れていなかった。そのうえ、新たに買収した会社、工場、製造設備の支出、在庫は膨大であった。リターンを上げない会社もあった。
このため、全社の規模が拡大するにつれてキャッシュフローは悪化していった。GMは危機に直面しつつあった。しかしやがて、その危機を乗り越えて今日のGMが築かれるのである。
※本連載は、再編集の上、書籍『【新訳】GMとともに』に収められています。
[著者]アルフレッド P. スローン, Jr.
[翻訳者]有賀裕子
[内容紹介]ゼネラルモーターズ(GM)を世界最大の企業に育てたアルフレッド P. スローン Jr. が、GMの発展の歴史を振り返りつつ、みずからの経営哲学を語る。ビル・ゲイツもNo.1の経営書として推奨する本書には、経営哲学、組織、制度、戦略など、マネジメントのあらゆる要素が詰まっている。
【注】
1)GMの社長として最初に大きな功績を上げたのはナッシュであるが、形式的には彼は第5代の社長である。設立者のデュラントは社長の座には就かず、バイス・プレジデントという肩書を選んだ。
初代社長となったのはジョージ E. ダニエルズという人物であるが、ダニエルズの在任期間は1908年9月22日から10月20日までと、1カ月に満たない。後を引き継いだウィリアム M. イートンは1910年11月23日まで、およそ2年間在任している。
第3代がジェームズ J. ストロウで、翌年の1月26日まで2カ月間、暫定的に社長を務めた。そして第4代のトーマス・ニールが、ナッシュが就任する1912年11月19日までの間、社長の椅子に座っていた。
2)シボレー・モータ-・カンパニーがGMの支配的持分を握っていたという事実は、1917年になってから公にされた。
GMの発行済み普通株式82万5589株(ゼネラルモーターズ・カンパニーの普通株1株をゼネラルモーターズ・コーポレーションの普通株5株と交換した後の株式数)のうち、45万株をシボレー・モーター・カンパニーが押さえていた。デュラントはこれを武器に復権を遂げることができたのである。
シボレーがGMの経営権を持つという不自然な関係は、その後も何年間か続くことになる。1918年5月にはGMがシボレーの営業資産を買い取り、自社の普通株で対価を支払った。やがてシボレーは独立法人としての歴史を閉じ、GMに吸収される(GMシボレー事業部となる)が、その際、保有するGM株を株主に分配している。
3)ゼネラルモーターズ・コーポレーションは1916年10月13日にデラウェア州の法律に基づき設立されている。ニュージャージーのゼネラルモーターズ・カンパニーは清算され、1917年8月1日付で新会社に資産を引き継いだ。この日から新会社が本格的に操業を始めた。
4)引用に当たっては、原文に可能な限り忠実であるように心がけた。このため、スペルや句点の打ち方に一部バラツキが生じている。
5)デュポンのGMへの出資は、30年以上を経た1949年に連邦政府による訴訟を引き起こすことになる。連邦政府の主な主張は、①この出資は反トラスト法に違反している、②デュポンがGMから確実な発注を得ようとしたものである、の2点に要約される。
これに対して、GMとデュポンは共に反論している。地方裁判所は数カ月間にわたって関係者に幅広く証言を求め、膨大な資料を検討した後、連邦政府の主張には根拠がないとして訴えを退けた。
上訴審で連邦最高裁判所は、「公正取引を妨げる可能性が十分に予見できた」として本件に違法性を認めた。
ただし、原審の判断のうち、以下の点は支持している。「デュポン、GM両社とも、価格、品質、サービスに十分な配慮を怠らなかった」「両社上層部の本件関係者はすべて、高潔かつ誠実にふるまい、みずからの行動が自社にとって最良の選択であること、デュポンの競合他社を含む何人の利益も損なわないことを心から信じていた」
いずれにせよ、原審は破棄、差し戻しとされた。差し戻し後、さらなる審理を経て、地方裁判所は「デュポンは数年の間にGMとの資本関係を解消しなければならない」旨の判決を下した。筆者は法律の専門家ではないが、最高裁判所による決定は机上の空論で、原審が明らかにした事実をないがしろにしているように思えてならない。
有賀裕子/訳
DHBR 2002年2月号より
(C)1963 Sloan, Alfred P., Jr.
アルフレッド P. スローン,Jr.(Alfred P. Sloan, Jr.)
ゼネラルモーターズ元会長。1875年生まれ。1920年代初期から50年代半ばまでの35年間にわたってゼネラルモーターズ(以下GM)のトップの地位にあった。20年代初めに経営危機に陥ったGMを短期間に建て直したばかりでなく、事業部制や業績評価など、彼が打ち出したマネジメントの基本原則は現代の経営にも大きな影響を与えている。彼のGMでの経営を振り返り、63年にアメリカで著したのが『GMとともに』である。同書は瞬く間にベストセラーとなり、組織研究や企業現場のマネジャーに大きなインパクトを与えた。『GMとともに』が刊行された3年後の66年に没した。