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『会社という概念』への反論
アルフレッド P. スローンの『GMとともに』は、スローンが1966年に90歳で亡くなる2年前、すなわち64年に発売されるやいなや、瞬く間にベストセラーとなった。現在でもこの本が愛読書という経営者や経営学者は少なくない。
私は25年間にわたって友人やクライアント、そして学生たちに同書を推薦してきたが、目を通したすべての者が、非常に魅力的で楽しい書物だと感じたようだ。
もしスローン自身がまだ生きていたとしたら、そのような反応に当惑することだろう。22年間にわたるスローンとのつきあい――それは43年に始まり、彼が亡くなる数カ月前まで続いた――のなかで、彼が唯一本気で怒ったのは、私が『ニューヨーク・タイムズ』の書評欄で、同書を楽しい書物だと誉めたことに対してだった。
その書評において私は、確信犯的に読者を誤解させようとした(これはスローンにも指摘された)。『GMとともに』は、けっして読者を「楽しませる」ことを目的とした本ではない。プロフェッショナル・マネジャー(プロの経営者)という職業を確立すること、そしてプロフェッショナル・マネジャーがリーダーとして、また意思決定者として果たすべき役割を説明することを目的とするものだった。
スローンが『GMとともに』を書いた主な理由は、彼自身が有害だと考える書物、すなわち46年に発刊されたGMに関する私の著書『会社という概念』(後に『企業とは何か』に改題)反論すること、少なくともそれに対抗することにあった。
『会社という概念』は、マネジメントを一つの学問分野として研究した最初の書物である。
また、一つの大企業の持つ構造的原則(constitutional principles)やその枠組み、基本的関係、その戦略とポリシーについて、企業の内側から研究した最初の書物でもあった。
同書は、GMの要請とGM経営陣による全面的な協力を受け、43年から45年にかけて行われた研究の成果をまとめたものであった。
ところが、『会社という概念』が発表されるとGMの経営陣はその内容にひどく腹を立てたようで、長年にわたり社内ではこの本の名を出すのはタブーとなったほどだった。実質的にGM内部では「禁書」との扱いを受けたというわけである。
というのも、『会社という概念』において、私はいくつかのGMのポリシー――たとえば、労働と雇用の関係、本部スタッフの利用法と役割、ディーラーとの関係など――を検証し、それが時代遅れになっているのではないか、と論じたからである。そうした態度がGM経営陣にとっては一種の裏切りにも見えたようで、彼らが私を完全に許すことはついになかった。
しかし、スローンの態度だけはフェアなものだった。『会社という概念』についての話し合いを行うための会合で、彼の同僚たちが私を吊るし上げたとき、スローンは迷うことなく次のように私を弁護してくれたのだ。
「君たちの言うことには全面的に同感だ。たしかにドラッカー氏は完全に間違っている。だが、ドラッカー氏にしてみれば、我々が彼を招聘したときに自らが行うと宣言したことをそのまま行っただけのことでもある。たとえ間違った考えであろうと、だれもが自分の考えを述べる権利を持っている。それはドラッカー氏も同じだ」
その会合こそが、私とアルフレッド・スローンとの個人的なつきあいの始まりともなった。『会社という概念』の執筆の準備をしている間にもスローンとはたびたび会っていたが、多くの場合、それは大きな会合やGMのオフィスでのことだった。だが、その後の20年間は、年に一度か二度のペースでニューヨークにある彼の住まいに呼ばれ、二人きりでランチを取ることが続いた。
そのような折りには彼が進めている慈善事業のプラン、特にスローン・ケッタリング癌研究所やMITのスローン・スクール・オブ・マネジメントのことも話したりしたが、特によく話したのは、彼が長い期間をかけて書き続けていた『GMとともに』の話だった。
彼はそれについて私の意見を求め、熱心に話を聞いてくれた。ただし、私のアドバイスが採用されることは一度もなかったが。
スローンが築いたマネジメントの基本原則
『会社という概念』がマネジメントを一つの学問分野として確立するものになるだろうことを最初に――私自身よりも早くから――認めたのはスローンだったし、実際に彼が考えたとおりになった。だが、その内容はスローンの目からすれば間違っていた。
スローンは、大企業におけるシステマチックな組織のあり方やプランニングと戦略、業績評価、分権化の原則を自分自身が最初に考え出したことに誇りを持っていたし、またそうしてしかるべき人物であった。簡単にいえば、マネジメントという分野の基本的原則は、スローンが考え出したのだ。
少し脱線するが、実際、マネジメントという分野の設計士兼建築家としてスローンの行った仕事こそが、戦後のアメリカ経済を飛躍させた主たる要因だったともいえるだろう。
彼の存在があったからこそ、アメリカ産業はまったく何の準備もない状態、深く混乱した不況の底から、短期間のうちに新たな発展に向けて立ち直り、記録的な生産を上げることに全力を集中できたのである。
さらに彼の示した考えこそは、戦後40年間におけるアメリカの経済的リーダーシップの礎となるものであり、日本もまたそこから学び取ることにより経済大国として浮上したともいえるだろう。
しかし、スローン自身にとっては、マネジメントのルールなど第2、第3のことでしかなかった。彼にとってはプロフェッショナル・マネジャーという考え方のほうがはるかに重要だったのである。
プラトンやアリストテレスの昔から現在にいたるまで、ガバナンスに関しては目的は同じであるものの、方法が異なる2つのアプローチが存在する。
一つは憲法論者的なアプローチ、すなわち、政府や組織は明確な構造にその基礎を置くべきであり、特に秩序だった継続性と圧政に対する保護措置を備えなければならない、というものだ。
もう一つは、政治思想史のなかで「王子の教育」と呼ばれてきたもの、すなわち、本当に重要なのは君主の性格とモラルに関する原則だとする考え方だ。
この2つは共に必要なものであり、我々はそれを古くから認識してきた。実際、私自身も両方のカテゴリーに属する著書を書いている[注]。
この2つの流れについては、驚くほどの読書家だったスローンもよく知っていた。彼はGMの経営組織や経営コンセプトを開発するため、いや、GM全体を発展させるために繰り返しアメリカ合衆国憲法を読み、それを参考にしたと、一度ならず語っていた。
しかし、彼にとって最も大切なのは君主、すなわち実務家として、リーダーとして、模範として、プロフェッショナル・マネジャーが果たすべき役割であった。
スローンは『会社という概念』が重要な内容を有していることを即座に理解した。だからこそスローンが『会社という概念』を有害だと考えたのだ。この本は企業経営者と学者の両方を誤解へと導き迷わせるかもしれない、と彼は私に語った。
いまふうの表現をするなら、スローンは「リーダーシップよりもマネジメントを上位に置いている」と私のことを非難したのだ。その有害な影響を中和することこそが自分が果たすべき義務だ、とスローンは感じていた。
スローンはもともと、自分が67歳になる43年にはGMを去るつもりだった。それまで彼は約35年間にわたり、GMを動かしてきたのだ(最初の10年はCOO〈最高執行責任者〉として、次の23年はCEO〈最高経営責任者〉として)。
引退のための準備として、スローンは30年代後半には簡単な自伝のようなものを書き始めていた。出版するためではなく、仲間たちへのお別れの言葉の代わりにするためである。
しかしアメリカが第2次世界大戦に参戦した結果、彼がGMのトップ経営陣として育ててきた者たちの4分の3が戦争に動員されてしまった。
彼らが再びGMに復帰できるようになる時には、年齢的にGMを任せるにはすでに遅すぎることになるだろうと思われた。
そこでスローンは、仕方なく、戦争が終わるまで、そしてその後の引き継ぎが終わるまでの期間をGMに留まり続けることを決心した。そうすれば、その間に、自分や仲間たちの仕事を引き継ぐ、より若い者たちを育てることもできるからだ。
その後にスローンがプロフェッショナル・マネジャーのあり方を確立するための本を書こうと思った時の土台となったのは、10年も前に異なる目的で書かれた自伝的ないくつかのノートだったのだ。
こうして出来上がった『GMとともに』は素晴らしい書物だった。表面上は自伝としての体裁を取っているため、そのように読むこともできる。しかし、実際にはむしろ「ケーススタディ」の集積に近いものであった。
その目的は訓話じみたところにあるにもかかわらず、『GMとともに』は一人の人物についての生き生きとした、楽しくかつ面白い書物に仕上がっていたのだ。
だが、その主人公は現実のアルフレッド P. スローンではなかった。それはプロフェッショナル・マネジャーの模範であり、モデルとしてイメージされた、アルフレッド P. スローンだったのだ。
スローンは人々を尊重し続けた
『GMとともに』に登場するスローンに対してはしばしば「非人間的」「冷たい」という批判の声が聞かれる。しかし、それは実際にはスローンが自分自身をそのように描いてみせたということなのである。彼は、経営者は職場に友人を持つべきでない、と強く信じていた。
この点について、彼は私に対し、次のように指摘した。
アメリカで最も有能な大統領だったエイブラハム・リンカーンやフランクリン・ルーズベルトは、自分の仕事仲間のなかに友人をつくらなかったという事実。そして、仕事仲間に友人をつくった大統領たち――グラント、トルーマン(スローンは彼を高く評価していた)、アイゼンハワー(アイゼンハワーはあまり信頼していなかった)――はみな友人たちに裏切られたという事実である。
「友人関係は簡単にひいきに結びつく」、スローンはこう主張した。「けれどもCEOは公平でなければならず、判断は実績にのみ基づいて行われなければならない」
だが、実際には、晩年に難聴にかかって孤独な生活に陥るまでは、スローンは常に多くの友人を有する人物だった。そのすべてが、「仕事とは無関係」だったわけでもない。長年にわたってスローンの一番の親友だったのは、ウォルター P. クライスラーだった。クライスラーは、スローンにより独立するよう説得されるまではGMの〈ビュイック〉部門の責任者だった。
結局、クライスラーは独立して自分の名前を冠した自動車を製造する企業を興したが、彼がそれを決心したのは、20年代半ばにフォードが衰退したためにチャンスが生まれたことをスローンが指摘したからである。
さらにスローンが、下り坂を転げ落ちるフォードに代わる新たなライバルの存在をGMは自動車業界に必要としている、と考えていたからである。クライスラーはその後も、40年に65歳で亡くなるまでスローンの親友であり続けた。
スローンは人間的な暖かさに満ち、時間とお金の両方において信じられないほど物惜しみしない人物だった。
私はGMを研究している間、さまざまな人々からスローンがどれだけ社員を助けているかを聞かされた。たとえば彼が直接面識もない工場マネジャーの火傷した子供に最高の治療を受けさせるため、クリスマス休暇をすべて病院探しに当てた話などである。
私は常々GMの人々に「本当に困った時にはだれのところへ相談に行くか」と尋ねるようにしていたが、ほとんどの者は即座に「もちろん、スローンだ」と答えるのだった。
スローンは、単にポリシーと戦略だけを通じてGMを築き上げたわけではない。それと同じくらいに彼の人格に対する人々の称賛と信頼が、GMという組織が成長するための基礎となった。
20年代においては(いくつかの場合はその後も)、〈シボレー〉や〈ビュイック〉、〈キャデラック〉といったGMの大事業部門を運営していたのは、それぞれの車種を製造する会社を立ち上げ、大企業にまで育てた後にそれをGMに売却した者たちだった。そして、これらの有力な指導者はみなスローンよりも年上ではるかに資産を持っていたのである。
というのも、スローンがGMの経営陣に参加するきっかけとなったのは、彼が16年に自らの部品事業をGMに売却したことであったが、その事業はそれらと比べ非常に小さなものでしかなかったからだ。
それらの部門責任者たちは、同時にGMの有力な株主でもあり、彼らは自らの部門の自主性にこだわり、本部からのいかなる「干渉」をも敵視していた。しかし、そうした者たちも数年のうちにはスローンの大ファンになり、彼のチームの忠実なメンバーとして働くようになったのだ。
スローンは、愚直といっていいほどまでに「人間を大事にする」人物だった。『GMとともに』が実質的に完成したのは54年のことだったが、実際に発表されたのはその10年後のことだった。同書に登場するGMの関係者が生きているうちは発表しないと、スローンが決めていたからである。
「経営者は部下を人前で批判しないものだし、この本のなかで私が書いていることのなかには批判と受け取れるものもあるからだ」とスローンはその理由を語った。
しかし、すでにスローンは80歳を超し、体も弱くなり始めていたし、スローンが同書に取り上げた存命するGM関係者のなかには彼よりも、15歳は若い者たちもいた。
そこで出版社のスローン担当編集者はこのように訴えた。
「ミスター・スローン、あなたは自分の原稿が発表されるまで自分が生きていない可能性に賭けているようなものですよ」
さらにその編集者は、同書に登場するGM関係者のもとを訪ね、彼らも一人残らず自分が批判されているとは感じないという感触を得て、スローンに出版することを勧めた。それでも、スローンは自分の考えを変えようとはしなかった。
「もし私が十分に長生きできなかったとしたら、遺作として発表しなければならないというだけのことだ。出版スケジュールよりも、人間をまず第一に優先すべきだ」
結局、スローンはだれよりも長生きし、同書に登場する人物の最後の一人が亡くなった日、彼は出版にゴーサインを出した。たしかにスローンは、何よりもスキンシップを重視するような人間ではなかったが、常に人々のことを気にかけ、人々を重視し、そして人々を尊重し続けたといえる。
しかし『GMとともに』には、そのようなスローンの性格は著されていない。というのも、スローンは、「プロフェッショナル・マネジャーたる者は、事実の力に基づいて経営を行うべきで、性格の力で経営を行うべきではない」と信じていたからである。
私はかつて、スローンがGMのマネジャーたちにこう言ったのを聞いたことがある。
「患者にどんなに親切に接することができたとしても、それは正しい診断には及ばないものだ」
プロフェッショナル・マネジャーに関する記述だけに集中した
スローンは『GMとともに』を書く際、個人的な関心が混入しないよう厳格に己を律した。彼は政治にも深く関わっており――たいていは敗者の側を応援していた――36年にはランドンの(アルフレッド・ランドン。36年の大統領選に共和党候補として出馬するが、ルーズベルトに敗れた)、48年にはデューイ(トーマス・デューイ。48年の大統領選に共和党候補として出馬するが、トルーマンに敗れた)の側で大統領選挙の選挙活動を行った。
またスローンは、フランクリン・ルーズベルトとの間に12年間にわたる愛憎関係を持ち続けた。ルーズベルトの能力については評価しながらも、人間としてはルーズベルトを嫌い、ニューディールにも反対した。
「(大統領選でルーズベルトに敗れた)アル・スミスのほうが人間的に素晴らしい人物だが、大統領としてはルーズベルトのほうが優れている」。スローンは一度だけそう語り、私をひどく驚かせた。
けれども、『GMとともに』のなかにルーズベルトの名が登場するのは1カ所だけである。
37年にGMで座り込みストライキを行った組合への支持をミシガン州知事だったフランク・マーフィにやめさせることを政府筋の人間が拒否した、というエピソードのなかで出てくるだけだ。ニューディールに関しては、一言も触れられていない。
「それらは私自身やGMにとっては非常に重要な出来事だが、歴史的事件であり、プロフェッショナル・マネジャーには何の関係もない」。私がニューディールもワシントンも出てこない30年代の歴史など、ハムレット自身が出てこない『ハムレット』のようなものだと文句をつけたとき、スローンはそう説明した。
同様に『GMとともに』には、スローンが多くの時間と献身を注ぎ込んだ2つのテーマ、すなわち自動車の安全性の問題とゼネラルモーターズ・インスティチュート(現在のGMIテック)についての言及もない。
スローン自身が自分の「唯一の子供」という18歳年下の異母兄弟レイモンドに関しては、ほんの少し触れているところもある(彼はまだ50歳代のうちに亡くなり、スローンはその死を「私の人生における最大の個人的な悲劇だった」と語っている)。
しかし、その分野のパイオニアだったレイモンドを通じて、彼が病院経営に深い関心を持ち、スローン・ケッタリング癌研究所を創設するために努力したことや、そこにおける癌研究の企画と指揮を行ったことについてはまったく触れられていない。
「それは個人的な趣味のようなものだ。それは私の妻がアンティークの収集をしている、あるいはわが社のCFO(最高財務責任者)が派手なネクタイをしていることと同様に、プロフェッショナル・マネジャーについての私の本には関係がない」
この『GMとともに』という書物に関してより重要な点は、そこに描かれているのが人間スローンではなく、理想的メンター(指導者)としてのスローン像であるということ以上に、多くの読者にはスローン自身の伝えようとしていた教訓が明確に伝わらない、という点である。
それでもこの本が最良の経営書であることは間違いないし、また、スローンの提案するすべての内容が読者にとって賛成できるものであるかどうかは、この本の価値とは関係ない。
自伝であるがゆえの弱点
しかし、これだけ多くの人々に読まれ、人気を博しているのにもかかわらず、『GMとともに』が経営実務に与えた影響は驚くほど限られたものでしかない。
なぜこの本が、スローン自身が意図したような「行動のためのガイド」として読まれなかったか。その主たる原因は、『GMとともに』が彼の自伝というスタイルを取っているからだといえるだろう。
スローンが『GMとともに』のプランを最初に話してくれた時には、私もそれに夢中になった。経営者という職業と、プロフェッショナル・マネジャーについての書物というアイデアは、非常に素晴らしいもののように思われたのだ。いや、いまでも素晴らしいアイデアだと思う。
だが、それを自伝の形式で書くという点は私には問題に思われた。それでは焦点がボケてしまうのではないか。それよりもむしろ、そのテーマを正面から取り上げ、GMでの経験はそのケーススタディとしてのみ使うほうがよいのではないか、と。
だがスローンは、自分にはその能力がないと言う。私はこう反論した。
「けれども、ミスター・スローン、では、なぜその本のタイトルを『ザ・プロフェッショナル・マネジャー』として、それに『GMとともに過ごした40年間』といったような副題をつけるようにしないのか」
だが、スローンは、そのようなタイトルはあまりにも気取りすぎていると思っていた。そこで私はこのように提案した。
「では、少なくともそれぞれの章の末尾に教訓を指摘する短いセクションを設けるというのはどうか」
すると、スローンはいかめしい顔でこう言った。
「ミスター・ドラッカー、私はばかな人間に読ませるためにその本を書くのではない。私が読者として考えているのは、経験を積んだ経営者たちだ。したがって、明白なことをわざわざ指摘する必要はない」
しかし、明白なことこそきっちりと指摘される必要がある。編集に携わる者ならすぐに学ぶことだ。そうでなければ、それらは見過ごされてしまうことになるだろう。
『GMとともに』からの教訓
『GMとともに』が伝える教訓は、どういうものか。少なくとも私はスローンの意図をどのように読み取ったか。それを簡単にまとめておく。
第1の点は、経営は一つの専門的職業(プロフェッション)であり、経営者はプロフェッショナルである(プロフェッショナルでなければならない)ということだ。
これは90年代においては単なる常識を述べているだけのように思われるだろうが、30年前にはけっして明確なことではなかった。また、率直に言えば、現在でも多くの経営者はそう口では言うものの、実行できている者は多くない。
たとえば医師や弁護士など、その他のプロフェッショナルの場合と同じように、経営者も会社という「クライアント」を持つということだ。
経営者は、自らの利益よりもクライアントの利益を優先させなければならない。それは「プロフェッショナル」の特徴ともいうべきクライアントへの義務である。
「プロフェッショナル」は、だれかの意見や自分の好みに基づいて決定を行ってはならない。プロフェッショナルとは事実に基づいて決定を下すものである。
これはまた(私自身も含めて)、多くの人間が長すぎると感じる章がなぜ有意義であるかについての理由にもなると思う。すなわち、チャールズ F. ケッタリングの銅冷式エンジンについてを取り扱う章である。
スローンはケッタリングを高く評価しており、彼を20世紀における傑出した発明家と見なしていたが、それほど偉大な人物(スローン自身もその章でそう繰り返し述べている)にしても、自らの好みやひいきにこだわって事実に反する決定を行ったときには失敗することになった。
プロフェッショナル・マネジャーの仕事は、人々を愛することでもなければ、人々を変革することでもない。
それは人々の強みを仕事に活かすようにすることだ。そして、人々やその仕事の進め方を評価する際には、その実績だけが問題になる。いや、実績こそがプロフェッショナル・マネジャーが関心を向けることを許される、唯一のものなのである。
かつて、GMの最も利益率の高い部門である〈シボレー〉と〈キャデラック〉についての研究を行っていたときに、ある二人の人物について、「これほど正反対の人間は見たことがない」とスローンに話したことがある。
するとスローンはこう言った。「それは大きな間違いだ。二人は非常によく似ている。共に大きな実績を上げている者たちだ」
だが、実績を単なる「結果」とのみ考えてはならない。それはまた先例を定めるものでもある。
これに関しては誠実さも必要とされる。単に2つの境界――すなわち事業実績と先例かつ指導者的役割を果たすものとしての実績――を定めただけでは、それにより生じる結果に、大きな誤差、そして大きな相違が生じることは避けられない。
意見の相違や衝突は不可欠であり、また実際、望ましいものということもできるだろう。意見の相違や衝突がなければ、相互の理解は生まれない。そして理解がなければ、そこに生まれてくるのは間違った決定だろう。
『GMとともに』における最も魅力的な章は、彼が最初に意見の相違を引き起こし、それから異なる見解を一つの理解にまとめ上げ、そして最後にはそれをコンセンサスとコミットメントへと変えていったエピソードであろう。
リーダーシップは、「カリスマ性」でもなければ「PR」でも「ショーマンシップ」でもない。それは実績であり、一貫した行動であり、信頼性なのである。
最後の、そして最も重要な教えは、プロフェッショナル・マネジャーは「人々に仕える者」だということである。地位はプロフェッショナル・マネジャーに特権を与えるものでもなければ、権力を与えるものでもない。それは責任を課すものなのだ。
もちろん、スローンの掲げたルールに対して反論することも可能だ。実際、スローン自身は読者と議論することを望んでいた。彼自身、私が疑問を提出した時に「そうでなければ、彼らはここに書かれている内容を真剣に受け止めない」と語っていた。
それこそがアルフレッド・スローンが『GMとともに』を書いた理由であり、またこの本が必読の書であるべき理由である。
[著者]アルフレッド P. スローン, Jr.
[翻訳者]有賀裕子
[内容紹介]ゼネラルモーターズ(GM)を世界最大の企業に育てたアルフレッド P. スローン Jr. が、GMの発展の歴史を振り返りつつ、みずからの経営哲学を語る。ビル・ゲイツもNo.1の経営書として推奨する本書には、経営哲学、組織、制度、戦略など、マネジメントのあらゆる要素が詰まっている。
【注】
1954年の『現代の経営』は主に憲法論者的内容を持つものであるし、66年、スローンが亡くなった数カ月後に発表された『経営者の条件』は「王子の教育」の伝統に属するものである。
編集部/訳
DHBR 2002年1月号より
(C)1990 Drucker, Peter F.
ピーター F. ドラッカー(Peter F. Drucker)
クレアモント大学院大学教授。1909年ウィーン生まれ。50年にニューヨーク大学教授に就任。71年より現職。54年『現代の経営』、69年『断絶の時代』、89年『新しい現実』、92年『ポスト資本主義社会』等、現代社会の変貌をいち早く指摘してきたドラッカーの著作は、世界中でベストセラーとなり、日本の読者にも広く支持されてきた。なお、Harvard Business Reviewに掲載された論文をまとめて収録した『P.F.ドラッカー経営論集』も刊行されている(本はすべてダイヤモンド社刊)。