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ナイキとリーボック 明暗を分けた秘策
ゴルフは、スポーツ・ビジネスのなかでも最も要求度の高い市場の一つだ。それゆえ1995年にナイキ──当時は飛ぶ鳥を落とす勢いだった──が、ゴルフ・シューズから、ウエアやボール、道具類への展開を決めた時、業界事情に暗い素人の意思決定と見なされた。
ところが4年後には、マーケティング史上、稀に見る成功と評価されるようになる。それも1年ではなく、3年連続だった。
99年の全英オープン優勝者がナイキのゴルフ・シューズを履いていた。2000年にはタイガー・ウッズが、ゴルフ・ボール随一のブランド〈タイトリスト〉からナイキのボールに切り替えた。さらに2001年、デイビッド・デュバルがナイキのゴルフ・クラブに切り替えた直後のメジャー・トーナメントで優勝した。
ナイキのゴルフ市場への参入は、まるで3回連続してホール・イン・ワンを出すようなものだった。ただし、ナイキのそれまでの10年間を注意深く観察してきた者にすれば、驚くほどのことではなかった。
ジョギングに始まり、バレーボール、テニス、バスケットボール、サッカーと、ナイキは新たなスポーツ市場に参入するたびに、一つの方程式を繰り返し用いてきた。それは、まずスポーツ・シューズで競争優位を築き、次にその分野のトップ・プレーヤーを起用してスポーツ・ウエアのブランドを立ち上げることである。
たとえば、96年にタイガー・ウッズと1億ドルの契約を交わし、ゴルフ・ウエアや付属品の分野でナイキの認知度を十二分に高めた。その分野で新しい流通チャネルを構築し、サプライヤーを囲い込む。その後、利益率がもっと高い道具類を供給する。ゴルフ・クラブであれば、アイアンから始めてドライバーにつなげていく。最後には、アメリカ市場を越えて、グローバルに展開する。
ナイキはこの方程式で、スポーツ用品業界の王者リーボックを追い抜き、ついには引き離した。87年の営業利益を比較すると、ナイキが1億6400万ドル、リーボックは3億900万ドルだった。また、ナイキの時価発行総額はリーボックの半分だった。ところが、2002年までにナイキの営業利益は11億ドルまでに拡大し、一方のリーボックは2億4700万ドルに落ち込んだのである。
両社とも同じ事業で会社を興し、製造技術もネーム・バリューもほぼ互角だった。しかし、ナイキは繰り返し使える成長の方程式を編み出し、リーボックは毎年、まったく一貫性に欠ける方法で事業を展開しては、成否まちまちに終わっている。