マネジメントという職能への無理解

 利益や生産性の向上がなぜ必要なのか、その際、いかなる役割が求められるのか──。

 このことをアメリカ国民、とりわけ労働者たちが理解し、受け入れない限り、自由企業制度は存続しえない。アメリカ企業の経営者たちも、ここ数年になってようやく気づいたようだ。

 そして、等しく大切なのは、マネジメントという職能について理解し、これを受け入れることである。しかしこれまで、この職能について、だれもさしたる関心を払うことはなかった。

 とはいえ、アメリカの労働者たちが、このマネジメントという職能を頭から拒絶しているわけではない。実際、イギリス労働党のパンフレットが謳う「上司を追い出して、賃上げを!」といったスローガンは、アメリカの労働者にはほとんど見向きもされない。

 むしろ、個々の経営者の能力や誠実さには、大きな畏敬の念が寄せられている。にもかかわらず、「経営者は何を行うのか、またなぜ行うのか」については、まったく理解されていないのである。

 アメリカ全体を見ても、産業社会にマネジメントという職能が不可欠であると確信している人がほとんどいない。このような理解の欠如は、何も市井の人々に限られたものではなく、ミドル・マネジャーや現場責任者、さらにはそれ以上の職位の人々にも同様に見受けられる。

 過去20年間、企業内部でもまた経済全体でも、経営者の責任や権限の範囲を狭めようという試み──これらはおおむね成功を収めてきた──がなされてきたが、その理由は、経営者への強い敵意というよりも、むしろこうした無理解に起因している。

 とはいえ、マネジメントという職能の正当性を擁護することは、大多数の国民の目には、少数の特権グループによる私利私欲の追求を擁護することと同じであるかのように映るのだ。

 マネジメントへの理解が広く欠如している理由は、2つ考えられる。