グリーンピースとシェルの戦い

 1995年4月29日。それはロイヤル・ダッチ・シェルにとって厄日となった。その朝、環境保護団体グリーンピースの活動家グループが、北海にある廃棄予定の原油貯蔵基地、ブレント・スパーを占拠したのである。シェルのイギリス本社(シェルUK)では、同スパーをそのまま海中に投棄する予定になっていた。

 グリーンピースの占拠グループには、ヨーロッパ各国のマスコミ関係者も同行しており、一部始終を存分に取材し、これを報道した。グリーンピースは、シェルが予定している海中投棄を阻止すると声明し、貯蔵タンク内に残る低レベル放射性物質が環境を汚染すると主張した。

 グリーンピースの行動は絶妙のタイミングだった。1月後には、EU各国の環境大臣が集まって、北海の環境汚染問題を討議することになっていたからである。

 シェルはあわてて裁判所に駆け込み、グリーンピースを不法侵入のかどで訴えた。グリーンピースの活動家グループは、マスメディアのスポットライトを浴びながら、海上の貯蔵基地から強制退去させられた。さらに数週間後、シェルはまたテレビ・カメラの回る前で、スパーを再占拠しようとするグリーンピースのボートを高圧放水で吹き飛ばした。

 一般市民に与える印象を想像すると悪夢のような出来事だったが、事態は悪化の一途をたどる一方だった。シェルの海中投棄計画と、シェルへの抗議の声がヨーロッパ中に広がった。ドイツでは、ガソリン・スタンドで同社製品の不買運動が起こり、火炎瓶を投げ込まれるスタンドまであった。

 シェルはマスコミの標的となり、行政からも非難され、やむなく全面退却に至った。6月20日、ついに同スパーの廃棄計画を断念すると発表したのである。

 グリーンピースの抗議行動に対して、シェル側の対応には統一性というものがなく、常に後手後手に回っており、結局何ら成果を上げられずに終わってしまった。予測と計画性が欠けていたからである。シェルにとって、スパーの占拠は明らかに不測の事態であった。しかし、果たしてこれを予見することは不可能だったのだろうか。

 実は、このような事態の発生を予測するための情報は、すべてシェルの手の内にあったのである。同社のセキュリティ担当者たちは、環境保護団体がスパーの投棄を妨害する可能性を想定していた。また、シェルの海中投棄計画が発表された時、他の石油会社も世論の反発を気にして、反対の立場を表明していた。

 さらに、グリーンピースは、これまでにも環境に悪影響を及ぼすような建造物を占拠することがあった。ブレント・スパーは、見るからに狙われそうな場所である。重量1万4500トン、世界最大級の海上建造物であり、しかも毒性残留物の残る大型タンクとなると北海でも数少ないものだった。