情報過多の時代、注意の貧困が起きている

 日々の仕事が「IT漬け」になっている今日、この当たり前のトレードオフを軽視したところから多くの問題が生じているというのが僕の見解です。たとえば、インターネットがなかったころの雑誌『週刊ダイヤモンド』の1ページ・1文字に読者が払っていた注意は、現在の『ダイヤモンド・オンライン』の1ページ・1文字に読者に払っている注意と比較して、圧倒的に濃厚なものだったはずです。さらにずっと昔、書籍しかなかった時代には、雑誌に対する何十倍もの注意が書籍に向けられていたことでしょう。人々は今よりも深く考えながら、対話するように情報と接していたのではないでしょうか。

 ようするに、洪水のような情報量の増大が果てしなく起きているということは、注意の貧困もまた果てしなく広がっているということです。今後もその傾向が続くことはまず間違いありません。そこに注意がなければ、たくさんの情報に触れてもほとんど意味はありません。注意のフィルターを通してみることで、はじめてその情報は自分の血となり、肉となります。貧困になる注意をいかに復興させるかが重要な論点として浮かび上がってきます。

 そもそも私たちが情報をインプットする目的は大きく分けて二つあります。一つはインプットそれ自体のため。もう一つはアウトプットを生むため。前者を「趣味」、後者を「仕事」といってもよいでしょう。趣味と仕事の違いは明確です。趣味は自分のためにやること、仕事は人のためにやること。どちらのためのインプットなのかで、情報の意味はまるで違ってきます。

 僕は音楽が好きで、音楽を聴いたりそれに合わせて踊るだけでなく、ときには自分のバンドでライブもやります。僕の音楽の楽しみ方は垂直統合モデルをとっておりまして、自分のスキな音楽を聴き、それを演奏し、録音し、またそれを自分で聞いて踊るというサイクルが延々とループするというもの。ただし、これはまったくの趣味です。人の役に立っていません。ライブをやってもこっちが勝手に気持ちよくなっているだけで、オーディエンスは(仕方なしに)つきあいで恵比寿のLIVE GATE(僕のバンドBluegodsが演奏しているライブハウス)にお越しくださっているという成り行きです。