「予測」は予想でも予言でもない

 カクテル・パーティで会う人々は、いつも私に株式市場について尋ね、次に、私の予想がどれくらい当たったかを知りたがる。このようなリクエストから、私のような「未来を予測する人々(フォアキャスター)」は「予想屋」であるという、彼ら彼女らの認識が露呈する。この認識は一般的なものだが、根本的に間違っている。

 もちろん、我々のようなフォアキャスターは予想を立てたりはしない。予想が可能なのは、あらかじめ運命づけられており、いかなる行動に訴えようと、将来の結果に影響を及ぼせない世界においてのみである。しかしそのような世界は、神話や迷信のなかにしかない。

 我々が生きる世界はまったく別物である。確実なことはほとんどなく、運命づけられた出来事なども存在しない。我々が、いま何をするかによって、決定的で思いも寄らない方向へと、物事が展開することは少なくない。

 現実世界におけるフォアキャスターの役割は、神話に登場する予言者のそれとはまったく異なる。予言は未来の確実性をうんぬんするものである。かたや予測は、企業や社会、はては世界全体に向けて、今後起こりうるかもしれない変化の方向性を示すシグナルを読み取り、そこにどのようなメッセージが隠されているのかに目を向けることだ。

 このように、幻の確実性の一部を見つけることではなく、あらゆる可能性の正体をつかむことが予測の真髄である。したがって、ある予測が実際にそうなったというのも、一側面にすぎない。壊れて動かない時計でさえ、1日に2回、正しい時刻を指すものだ。

 フォアキャスターの仕事は、何をおいても不確実性をマッピングすることである。いまの振る舞いが将来に影響を及ぼす現実世界では、不確実性がチャンスとなるからだ。

 予言と異なり、予測にはしかるべき論理がなければならない。論理こそ、迷信の闇から予測をすくい上げる。フォアキャスターは、論理について具体的に表現し、これを貫かなければならない。

 一方、予測の「消費者」たちは、予測の質を評価するために、また予測が示すチャンスとリスクについて正しく説明するために、予測のプロセスと論理について十分理解しなければならない。賢い消費者は傍観者でなく、参加者であり、何より批評家である。