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倒産寸前の零細工場から
中国一のグローバル企業へ
1984年、青島電氷箱総廠はいまにも倒産しそうな町工場だった。つくっている製品は粗悪で、従業員たちに給与を支払うこともままならなかった。この工場が、海爾集団(ハイアール・グループ)の出発点である。87年に海爾集団と改称し、いまや中国企業のなかで最もグローバル化した総合家電メーカーとなった。
人々がリーダーを尊敬する理由は、企業の成長段階によって変わる。創業期にはリーダーみずからが範を垂れ、困難に立ち向かうことで、部下や従業員たちも懸命になってその後をついていく。
海爾がまだ小さかった頃、私はほとんど出張で、あわただしく各地を飛び回っていた。列車に空席がなければ、2元を支払ってキャンプで使うような小さな椅子を借りて、通路に座った。従業員たちは、そんな私の姿を心に留めていた。
事業が軌道に乗り始めると、リーダーの信念が従業員たちの心に届くようになる。90年代、海爾工業団地を建設した時のことだ。従業員たちはこのプロジェクトに対して、何か問題が起こるのを察知してか、おしなべて消極的であった。それでも私は、実現に向けてがむしゃらに働いた。私の意志の強さに共感してくれたのだろう。従業員たちは一丸となって工業団地の建設に協力してくれた。
そして現在、海爾の従業員たちが望んでいるのは、みずからの意思と判断で仕事に取り組むことであり、トップの指示に従うことではない。老子いわく「はるか昔、人々は支配者の存在に気づかなかった」。これは私の座右の銘である。つまり、優れたリーダーは、部下たちにその存在を感じさせないのだ(囲み「張瑞敏のリーダーシップ・スタイルの変遷」を参照)。
張瑞敏のリーダーシップ・スタイルの変遷
人々がリーダーを尊敬する理由は、企業の成長段階によって異なる。初期には、リーダーが模範を示すことで尊敬の念が醸成される。やがて、信念に基づくリーダーの意思決定によって、そして最終的には、従業員の能力とイニシアティブを尊重するリーダーシップ・スタイルによって、リーダーは人々の信頼を獲得する。
海爾集団における張瑞敏のリーダーシップの特徴は、初期には、従業員のモチベーション向上と規律の徹底だった。深刻な混乱に陥っていた零細企業を変革していくうえで、この2点に絞ったことに、彼のリーダーとしての非凡な才能を見て取れる。
会社が成長するにつれて、張のリーダーシップ・スタイルは、コンセンサスの構築と戦略プランニングの重視へと変化した。彼が描く海爾の将来像とは、競争優位を自律的に構築するようなマネジメント・プロセスが確立され、組織の頂点に立つリーダーの重要性が次第に低下していくことである。
現場に希望を与える
私が青島電氷箱総廠の工場長に就任した84年12月、この零細企業は存亡の危機に瀕していた。絶望的な状況であることはだれの目にも明らかで、純負債額は147万元に上っていた。
84年の1年間だけで工場長が次々交代し、私が4人目だった。前任者たちは任期途中で依願退職、あるいは解雇され、責任をまっとうできなかった。労働者は800人を超え、数カ月間も遅れていた賃金の支払いを待ち望んでいた。当然、退職率は高く、私が工場長に就任したことが発表された時も、51人の従業員が転職を願い出た。
時間の猶予はならなかった。まず私が取り組んだのは、従業員の給与問題である。就任した最初の半年間を振り返ると、その時の数々の格闘がいまも鮮やかに甦ってくる。というのも、来る日も来る日も、この問題に取り組んだからである。
巨額の負債を抱え、しかも国有企業ではない当社に、銀行は融資をためらった。ところが幸いにも、融資のチャンスが訪れた。鄧小平(トウショウヘイ)が掲げた「4つの近代化」の下、78年より中国政府は「改革開放」政策を推進してきたが、富の分配が都市部ならびに近隣地域までに拡大していた。このおかげで、これら都市近郊の事業組織から融資を取りつけることができたのである。
従業員たちは、待ちに待った給料を手にして大喜びだった。私はこの様子を見て、「この会社をもう一歩前進させたい」と考えた。
工場長に就任して初めての春節(中国の旧正月)が訪れた。私は再度資金を借り入れて、全従業員に新年のプレゼントとして重さ約2.5キロの魚を贈った。いまでは笑い話のように聞こえるかもしれないが、この作戦は大成功だった。従業員たちに「この工場は立ち直るかもしれない」という希望を与えたのである。