マーケティング改革の第1幕

 プロクター・アンド・ギャンブル(P&G)は1998年9月、当時の会長兼CEOジョン E. ペッパーの下、全社的な変革プログラム「オーガニゼーション2005」を発表した。90年代半ばより、トップ・ブランド15の半数が市場シェアを落とし、売上高成長率は目標値を下回り、アジア進出ではユニリーバやネスレなどのライバルに出遅れ、株価にも陰りが出始めていたからである。

 このオーガニゼーション2005の柱は5つあった[注1]

(1)グローバル・ビジネス・ユニット(GBU)の導入

 これまでは4つの地域別ビジネス・ユニットによってグローバル化を進めてきたが、これを7つの製品カテゴリー別ビジネス・ユニットに改編し、それぞれに利益責任を負わせる。

(2)マーケット・ディベロップメント・オーガニゼーション(MDO)の導入

 グローバル戦略の下、各ローカル市場を担当する8つの地域別組織を導入する。

(3)グローバル・ビジネス・サービス(GBS)の導入

 GBUとMDOの間接機能、すなわち人事・教育、財務、調達、ITなどを支援し、本社と各地域子会社を連携させる。

(4)職能部門の縮小と人員削減

 職能スタッフを事業部門に異動させる。また、向こう3年間のうちに1万7000人の人員削減を実施する。

(5)社内のマインドセットの改革

 シニア・マネジャーの報酬体系を業績と連動させたり、研修制度を見直したりすることで、保守的で家族主義の企業文化から、インターネット時代にふさわしい、俊敏でイノベーション志向の文化へと改革する。

 この大変革を指揮したのは、99年9月に社長兼CEOに任命されたダーク・イェーガーであった。彼は、まだまだ未知数のポテンシャルを秘めた新興諸国を中心に、P&Gは出遅れていたとはいえ、各国市場の開拓に力点を置いたこともあり、ウォールストリートの期待も高かった。

 しかし、あまりに急進的すぎたことが災いして、GBUとMDOの関係がこじれたり、同社のコア機能であるマーケティング・グループに混乱が生じたりと、本末転倒な状況を招き、1年を待たずして退任した。そして2000年6月、現会長兼CEOのアラン G. ラフリーにバトンが渡された。

 彼は、起死回生の戦略やビジョンを掲げたりはせず、イェーガー失脚の原因となったオーガニゼーション2005を引き継いだ。ただし、少々やり方を変えて──。