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往復書簡
「コトラーの反論」
親愛なるスティーブンへ
ノースウェスタン大学 ケロッグ・スクール S. C. ジョンソン・アンド・サン 名誉教授
フィリップ・コトラー
HBR2001年10月号に掲載されたあなたの論文"Torment Your Customers (They'll Love It)"(邦訳46ページ~)はおもしろく、また素晴らしいものでした。今日のマーケティングの大きな弱点、すなわち「創造性の欠如」について的確に指摘されています。事実、大きなあくびを誘うような商品や広告があふれていますから。
しかし、責められるべきはマーケティング理論ではなく、現場のマーケターなのです。競合他社を模倣するという安全策を選択したほうが楽だ、と考えてしまう人があまりに多い。
理論には、創造性を阻害する要素は一つもありません。マーケティングの真骨頂とは「差別化」です。営業スタッフたちの昔ながらの公式であるAIDA──「注意」(attention)、「興味」(interest)、「欲望」(desire)、「行動」(action)──は差別化を求め、ひいては『ブレア・ウィッチ・プロジェクト』(1999年のアメリカ映画)や〈ビーニー・ベイビーズ〉(ぬいぐるみ)、あるいは『ハリー・ポッター』シリーズ、クライスラーの〈PTクルーザー〉(アールデコ調の乗用車)などにつながっていくのです。
現代マーケティング論では、そのターゲットを顧客に絞るがゆえ、傑出した付加価値を特定し、創造し、提供することを求めます。しかし、何に価値があるのかは、顧客によって大きく異なります。
あなたの唱えるTEASE(からかうという意もある)戦略──「トリックスター性」(tricksterism:日常性の破壊)、「娯楽性」(entertainment)、「強化」(amplification)、「神秘性」(secrecy)、「限定性」(exclusivity)──を楽しむ顧客も多いかもしれません。
一方、関心を示さない、あるいは気を悪くする顧客もいるのではないでしょうか。あなたのアプローチは、マーケティングの基本コンセプトである「セグメンテーション」(十人十色)が欠落しています。
あなたは、次のような限界についてはどう考えますか。
・マーケターがあなたの提言を真剣に受け止めれば、トリックスター的なキャンペーンが山ほど登場し、ティーザー広告は新鮮さを失うことになります。マーケティングへの冷笑をますます増幅させ、企業によっては評判を落としてしまうでしょう。
・あなたの戦術は、顧客と長期的にリレーションシップを築きたいと考えている企業から見れば、戦略の名に値しません。それでも長期的なリレーションシップを求めるならば、追い打ちのティーザー広告や「イジメ」を考案していかなければならないでしょう。顧客をリピーターにするために、P. T. バーナム(フェイクを見世物としたアメリカの興行師)のような悪ふざけが通用するものでしょうか。
・こうした戦術をB2B(企業間)取引に用いてはなりません。賭け金が大きすぎます。顧客も娯楽を提供されるのは楽しいでしょうが、「操られる」のはあまり快く思わないものです。
あなたは、私や私の同僚たちを、マーケティングを「まじめくさった分野」にしてしまったと非難しています。ですが、我々の目的は、放っておけば浅薄な余興でしかなかったものに、科学とシステムを導入することです。
市場調査、セグメンテーション、ターゲティング、ポジショニング、そして「4つのP」──これらはけっして創造性を排除するものではありません。ハーレーダビッドソン、チャールズ・シュワブ、リッツ・カールトンの成功が、健全なマーケティング理論に立脚しているのは言うまでもありません。
あなたはそのような発想に、我々があまりにも多くのものを顧客に提供しすぎだと非難します。しかし実際は、顧客は物足りなく思っているのです。顧客の圧倒的多数は、リアルな配慮、リアルな対話、そして自分が支払う金額に見合ったリアルな価値を求めているのであり、「ガマの油」の類など、さほど求めてはいないのです。
「ブラウンの反論」
フィル、「あの曲をお願い[注2]」
ウルスター大学 P. T. バーナム 不名誉教授
スティーブン・ブラウン
世界中のあらゆる刊行物、あらゆる論文のなかから、あなたは私のものに目をつけてくれたわけですね。これは美しい友情の始まりなのかもしれませんが、まず、ご自分のパラダイムを、その出発点からチェックする必要があるのではないかと思います。
まず、現場のマーケターがマーケティング論を実践していないと非難するのを止める必要があるでしょう。何事につけても練習の段階はあり、あなたの顧客中心主義のマーケティング・コンセプトにも利点はあります。しかし、その旬はすでに過ぎ去りました。APIC(分析・計画・実践・管理)パラダイムは出国ビザを与えられてしまった。もう搭乗も完了しました。あなたが一斉検挙した「ありふれた容疑者たち」──AIDA、差別化、セグメンテーション、ターゲティング、ポジショニングなど──を集めたところで何の価値もないのです。
では、「4つのP」はどうでしょう。たしかに「4つのP」には、マーケティング論と同様、それなりの役割があります。ただし、かつて一般的であった概念はその老化の兆しが強まる一方です。
さらに悪いことに、そのような概念には「マーケティング・サイエンス」「ソーシャル・マーケティング」「因果(cause-related)マーケティング」等々、キレイ事のもったいぶった名称が与えられ、我々はその名声と虚構をすっかり信じてしまった。マーケターたちがいくら顧客に永遠の愛を誓おうとも、今日の消費者(たとえばノー・ロゴ主義者)がマーケティングを忌み嫌うのも無理からぬことでしょう。
思うに、いまや原点に立ち戻る時期なのです。ルーツを回顧し、シンプルな質問をしてみましょう。「そもそも、マーケティングとは何なのか」と。
もちろん、マーケティングとは何らかのモノを売るための活動です。それ以上でもそれ以下でもありません。では、モノを売るにはどうすればよいか。消費者を追いかけるか、消費者に追いかけさせるかのどちらかです。
APICパラダイムは、事実上、消費者のすべての欲求を満たし、その生活をできる限り容易にしてやることで「消費者を追いかける」ことを提唱しています。私はむしろ、消費者が我々を追いかけるよう促すべきだと考えています。消費者が割れたガラスの上を這ってでも我々が提供するモッツァレラ・チーズを貪り食うほど、非常に魅力的で興味深く好ましい、マーケティング上のネズミ捕りを仕掛けるべきだと私は思います。
顧客を焦らし、からかい、苦しめることは、最終的には魅力を競い合うレースを引き起こします。ちょうど顧客中心主義が、CRMやパーミッション・マーケティングといった身の毛のよだつようなガングリオン(神経節、いわゆる「ピーピング・トム・ザらス」:ピーピング・トムとトイザらスを掛けた造語)を生み出したように。
たしかに、他のセグメントに比べてティーザー広告に反応しやすいセグメントもあるでしょう。しかし、私が主張しているマーケティング手法はセグメンテーションなど不要、「来たい人はだれでもおいで」なのです。これによって、人々がマーケティングに対して抱く冷笑感は高まるかもしれません。「消費者冷笑指数」は95%から98%へと、危険ゾーンに突入しかねません。
幸いにして、我々の手もとには、APICというデフィブリレイター(deflatorとbrilliantをかけた、魅力を減じさせるものという意味に近い造語)が控えています。ティーザー・マーケティングに向き不向きはあり、それは顧客中心主義も同じなのです。そして私は、B2B取引であろうと、あなたがお考えになるよりも、この「苦しめる」マーケティングによく反応するのではないかと考えています。
話は尽きませんが、大事な点は、顧客中心主義というパラダイムとは別の選択肢が存在するということです。それは、コトラー流のマーケティング・パラダイムを放棄することを意味します。
市場主導(market-driven)から市場誘導(market-driving)への移行をテーマにした論文が証明しているように、あなた自身も最近では、そのパラダイムを放棄しているのです。忘れないように書いておきますが、以前は「市場誘導」は販売志向と呼ばれていました。
いやはや、何よりも皮肉なのは、私が主張しているアプローチは、マーケティングの大家であるあなたがかつて提案したものなのです。
30年前のHBR誌に、おもしろく素晴らしい論文が掲載されました。その共著者はフィリップ・コトラー。そう、あなたです。"Demarketing, Yes, Demarketing[注3]"と題するこの論文は、私が今回の論文で支持したこと──入手しにくくする、満足を先送りするなど──をすべて提唱していました。
そう、ほとんどのレトロ・マーケターが賛成してくれるでしょうが、最も優れているのは、いつも昔ながらのアイデアなのです。
ではフィル、「君の瞳に乾杯」[注4]。
【注】
2)「あの曲をお願い」(Play It Again)は、映画『カサブランカ』での名台詞。
3)この論考はHBR, Nov.-Dec., 1971.に掲載。DHBRは1976年に創刊されたため未訳。次号にて緊急翻訳。
4)「君の瞳に乾杯」(Here's looking at you)も、映画『カサブランカ』での名台詞。
沢崎冬日/訳
(HBR 2002年2月号より、DHBR 2001年7月号より)
Letters to the Editor
(C)2002 Harvard Business School Publishing Corporation.
顧客第一主義に支配されたマーケティングは退屈だ
どうか誤解しないでいただきたい。私は何も顧客を悪く思っているわけではない。私の親友の何人かは顧客である。顧客とは、だいたいにおいてありがたい存在だ。ただし、我々より風下にいてくれれば、の話である。
私にとって問題なのは「顧客第一主義」というコンセプトである。いやはや、この言葉を書くだけでゾッとする。今日の企業では、神から与えられた真理のごとく、だれもが次のように信じている。
「企業は、たった一つの目的、すなわち顧客に媚びを売るために地上に誕生したのだ」と。
マーケターは寸暇を惜しんで買い手のニーズを追跡するのに骨を折り、彼らを満足させるような製品を細心の注意を払って製造し、売り込む。
企業の各機能をチャールズ・ディケンズ(イギリスのビクトリア朝時代の作家)の小説の登場人物に例えれば、マーケティングはさしずめユーライア・ヒープ(偽善的な悪人の代表的人物)だろう。やけに気取り屋で、至るところで顔を出してくる、我慢ならない人物だ。
あんまりな話である。実際には、顧客は自分が何を望んでいるのか、自覚していない。これまでもわかっていなかったばかりか、これから先もずっとそうだろう。
あの哀れな連中ときたら、自分が何を望んでいるのか自分自身もわかっていないことにすら気づいていないのだ。フォーカス・グループで否定された無数の製品、たとえば、クライスラー製のミニバンやソニーの〈ウォークマン〉などが成功しているのを見れば一目瞭然だ。