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量子モデリングが意思決定を変える
戦略における「ウィキッド・プロブレム」とは、単純明快な解決策が存在しない課題を指す。従来型の問題解決手法では対処できない複雑な問題を扱う際に用いられる用語だ。
今日の戦略的課題の多くも、このウィキッド・プロブレムに当てはまる。ステークホルダー間の利害が衝突し、根本的な原因が複雑に絡み合い、介入するたびに結果が変化していく複雑な状況下においては、従来型の分析手法は通用しない。
ただし、朗報もある。そうした問題が深刻化しているタイミングで、複雑性への対応に長けた新たな概念的枠組みが登場したのだ。それが量子モデリングである。
HSBCとIBMが最近、債券取引に量子コンピュータを用いるとパフォーマンスが34%向上すると示唆する論文を発表した。この「画期的」なニュースは、人類が「新たなフロンティアの入り口に立っている」証拠だとして、世界中のメディアで大きく取り上げられた。
一方、それ以上に大きな意味を持つにもかかわらず、さほど注目されなかった事実もある。それは、量子コンピュータ(実用化までにあと数年はかかるうえに、非常に高価である可能性が高い)がなくても、量子的アプローチのメリットを享受することは可能だという点である。実際、企業が従来型のコンピュータを用いつつ、量子力学の理論と数学に基づくモデリング概念を活用するケースがすでに登場している。
量子モデリングが他と一線を画すのは、従来のモデリングでは扱いきれない規模の相互依存性に対応できる点だ。たとえば、従来型の戦略分析は回帰分析を用いて、従属変数または結果(Y)と、それらを引き起こす観測可能な独立変数(X1、X2など)の関係を見出そうとする。一般的に、これらの独立変数は互いに因果関係がなく、独立していると仮定されるが、現実世界ではそうではない場合も多い。
そこで力を発揮するのが量子モデリングである。量子モデリングはさまざまな数学的手法を用いて、結果(Y)と原因(X群)の関係を評価するだけでなく、複数の原因から成るグループ──従属変数について最も効果的に説明できる、2つまたはそれ以上のX変数の組み合わせ──も扱うことができる。つまり、量子モデリングとは、複数の原因が絡み合った状況で生じる結果について最もうまく説明できる方法を探す試みであり、その強みは、膨大な数の原因の組み合わせをモデル化できる点にある。
量子革命は、将来にわたって意思決定の形を大きく変える可能性がある。本稿では、3つの典型的なビジネス課題を例に取って、従来型のコンピュータ技術を用いつつ、量子モデリングによってウィキッドな戦略課題に対処する方法を示す。
問題1:物流を最適化する
あるグローバルな貨物・サプライチェーン企業(ここでは「Kロジスティックス」と呼ぶ)は、ウィキッドな戦略課題に直面していた。エンド・トゥ・エンドの物流にかかる総コストの観点から代替の供給ルートを検討したいと考えていたが、燃料価格の高騰、排出規制の強化、不安定な地政学的環境の影響で、総コストの予測は困難を極めていた。オペレーションズ・リサーチに基づく整数線形計画法などの古典的な計画ツールは、複雑に絡み合う変数を扱うには不十分だった。
量子モデリングがどのように役立ったか
最高技術責任者(CTO)のリアムは、総コストの問題を量子的な観点で捉え直すことにした。コストを、互いに依存する複数の変数が同時に評価された動的な結果の集まりと捉えたのである。「量子アニーリング」と呼ばれる手法を活用することで、彼は従来のオペレーションモデルが提示していた推奨ルートよりも低コストになるルートを発見した。
リアムは次のように説明している。「従来型のモデルでは、似通って見える東アジアから欧州への2つの海上輸送ルートのコストを比較していた。しかし、我々が専門特化型のソフトウェアプロバイダーと共同で開発した量子ロジック・シミュレーター(量子アニーリング)は、ルート、タイミング、燃料コスト、そしてそれらがもたらす下流への影響をすべて同時に考慮に入れて、別のルートを最適な選択として提示してくれた。このシミュレーターは量子の『重ね合わせ』の状態を模しており、そのおかげで重なり合う複数の現実を扱える」
問題2:医薬品の有効性を評価する
マルタはグローバル製薬企業(ここでは「テルラ・ファーマ」と呼ぶ)で戦略的予測部門の責任者を務めている。臨床研究開発への投資の優先順位づけに向けて、同社は臨床現場で得られたデータを分析し、吸収率の観点から医薬品の有効性を評価しようとしていたが、その過程でウィキッドな課題に直面していた。
マルタは次のように説明する。「吸収率を評価する従来のモデリング手法では、明確に定義された独立変数が前提となっていた。だが医薬品の臨床試験では、あらゆる要素が絡み合っている。吸収率は対象患者グループの影響を受けるが、その患者グループは試験の実施場所、投与量の違い、服用のタイミングといった他の変数と相互に作用している」
量子モデリングがどのように役立ったか
テルラ・ファーマは、産学連携のイノベーション・アクセラレーター・ラボと提携し、データ分析に量子モデリングを導入して、多数の変数の組み合わせを同時に評価した。マルタは次のように語っている。「従来のモデルを用いて吸収率を改善しようとすると、投与量の変更や服用時間帯の変更といった影響を数学的に一つずつ再計算する必要があった。量子的推論シミュレーターである量子ベイジアンネットワークを使うと、さまざまな条件の選択肢から生じる、相互に影響し合う何十もの要素の波及効果を評価できる。おかげで医薬品の吸収率をはるかに効果的に分析できるようになった」
彼女は次のように結論づけている。「医薬品の有効性試験に量子モデリングを採用するということは、従来型の硬直的で線形の意思決定ツリーを手放すことを意味する。量子モデリングには、曖昧さを受け入れ、緊張関係にある複数の可能な結果を同時に保持し、システム内の一部で下された意思決定が他のすべてに影響すると認識することが必要だ。これらはどれも、現代の戦略環境における『量子もつれ』の特徴だ」
問題3:リスク・モデリングを強化する
リスク・不正の検知を専門とする金融サービス企業(ここでは「ゼントリックス・キャピタル」と呼ぶ)は、ウィキッドな問題に直面していた。同社は、顧客企業における不正行為の発生件数を減らすとともに、膨大な取引が行われる環境下で新たな不正のトレンドを検知したいと考えていたが、従来の分析方法では不十分だった。
従来型のモデルでは、取引金額、口座へのアクセス頻度、アクセス場所、口座開設からの期間、顧客プロファイルといった変数は、それぞれ独立したものとして扱われていた。その結果、不正行為の影に潜む微妙で複雑な相互関係(たとえば、口座へのアクセス頻度は口座の所在地と関連している場合が多い)が見えにくくなりがちだった。
量子モデリングがどのように役立ったか
同社のチーフ・データ・サイエンティストであるグスタボが率いる幹部チームは、従来型のコンピュータ上で量子着想型シミュレーターを活用し、量子変分法を用いた特徴選択アルゴリズムを適用した。この量子的アプローチにより、取引金額、アクセス頻度、アクセス場所、口座開設からの期間、顧客プロファイルといった複数の変数の相互作用を同時に考慮できるようになった。
グスタボは次のように語っている。「我々は地元の大学と提携して、休眠口座を使った少額の国際取引が急増したケースを検証した。従来であれば取引頻度や口座の活動状況といった変数を個別に評価しただろうが、量子ロジック・モデルは、取引金額、顧客の活動状況(新しいデバイスでのログイン、最近のパスワード再設定など)、その他のネットワークレベルの異常といった複数の要素の組み合わせを、すべて同時に考慮した。どの変数が最も重要かを最初から決める必要はなかった」
量子モデリングによって得られた結果は、従来型の不正防止プロトコルでは見逃されていたであろう新たなタイプの「合成アイデンティティ不正」を検知していたという。グスタボは次のように結論づけている。「量子モデリングは変数を個別に評価するのではなく、互いに依存する複数のパターンを同時に評価するため、これまで考慮してこなかった変数の組み合わせを浮かび上がらせることが可能になった」
量子モデリングの未来に向けて
多くの経営幹部は、「量子」と聞くと、暗号技術やサイバーレジリエンス、物理学の研究室を思い浮かべ、戦略の話だとは思わない。だが、量子モデリングには量子コンピュータも博士号も研究施設も必要ない。最初に必要なのは、不確実性に対する組織としての考え方の変化である。
小さく始め、迅速に学ぶ
まず、サプライチェーンの混乱、規制関連の予測、リスク局面など、従来型の分析手法では扱いにくい複雑で影響の大きい領域を一つ選び、それをパイロット案件とする。初期段階の目的は、使用中のツールを置き換えることではなく、相互に依存する変数を一つずつ順にではなく同時に分析したら、どのような結果が出るのかを確認することだ。
HSBCが採用した量子モデリングのアプローチも、まさにこの考え方に基づいている。同社は債券取引システム全体を再構築するのではなく、変動性の高いサブモデルを一つ切り出し、それを量子着想型のシミュレーターにかけた。その結果、パフォーマンスが約30%向上したが、それはデータ量を増やしたためではなく、データポイント間の関係性を従来とは異なる形でモデリングしたおかげだ。
テルラ・ファーマは化合物の吸収率、Kロジスティックスは輸送ルート、ゼントリックスは不正検知に関して、同様のアプローチを取った。いずれのケースでも、システム内の小規模で不安定なサブセットから着手し、従来モデルでは対応し切れない複雑な相互依存関係を探っていった。
投資の前にパートナーを見つける
この分野での進展の多くは、単独での試行錯誤ではなく協業作業によって生まれている。たとえばHSBCはIBMと提携することで、巨額のインフラ投資を行うことなく、専門的な知見や量子着想型シミュレーションツールにアクセスできた。連携のおかげで、アイデアを迅速に検証し、結果から学び、有効なものだけを拡張することが可能になったのである。
ただし、パートナーの選択肢は大手テクノロジー企業だけではない。Kロジスティックスのように専門特化型の分析企業と組むこともできるし、テルラ・ファーマのように産学連携のイノベーションラボと協働する道もある。また、ゼントリックスのように、従来型のインフラ上で量子シミュレーターを検証済みの大学発スピンオフ企業と組む方法もある。
量子リテラシーを育成する
10年前のリーダーたちがデータサイエンスの学習を求められたように、将来のリーダーには量子的推論への理解、つまり、量子もつれ、確率的思考、動的最適化などの素養が必要となる。HSBCの試みは、新技術の導入自体というより、相互に結びつき、変化し続ける可能性という視点で物事を考える力を養うことで、量子リテラシーを高める点に重点が置かれていた。テルラ・ファーマとKロジスティックス、ゼントリックスも、単に成果を得るだけでなく、量子的な概念への社内の理解を深めるために自社のパイロット案件を活用した。
重要なのは、戦略担当者、データサイエンティスト、オペレーション責任者による部門横断型チームを編成し、量子モデリングが提示する多様な結果を協力して解釈することだ。量子モデリングの真の価値は、手法そのものの新しさではなく、ともに学び、従来型ツールで見落とされてきた知見を発見する点にある。
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いまの段階から量子リテラシーを身につけておけば、従来のアプローチでは解きほぐせない将来のウィキッドな課題に、より的確に対応できるようになる。次の10年をリードするのは、量子的思考をいち早く取り入れる企業だ。そうでない企業は後塵を拝することになる。
"Quantum Thinking Can Help You Solve Complex Strategy Challenges," HBR.org, November 21, 2025.






