生き残るための、したたかな作戦

 1919年、米国議会は飲料用アルコールの製造・販売・輸送を禁止する憲法修正18条を可決した。この禁酒法により米国のビール醸造業者が壊滅的打撃を受けたのは言うまでもない。1915年に操業していた1300超のビール醸造所のうち、生き残ることができたのは100カ所に満たなかった。それでも禁酒法時代を何とか生き延びたビール醸造所のうち数社は、いまもビール業界を象徴する存在として名を馳せている。アンハイザー・ブッシュ、クアーズ、ミラー、パブスト、イングリングなどだ。

 彼らがこの禁酒法時代を生き延びることができたのは、筆者が「戦略的冬眠」(strategic hibernation)と呼ぶ考え方を実践したためである。これは、世間の政治的・文化的な風潮が自社にとって逆風となっている時期に、そのミッション遂行能力を温存するため、意図的に行う一種の一時避難といえる。潮目が変わるや否や、素早く企業活動を再始動するのである。

 たとえば禁酒法時代に一部の醸造所は、第1次世界大戦後に品不足になったソフトドリンクや麦芽エキスを製造するために、ビール醸造設備を転用した。染料の製造に振り向ける醸造所さえあった。アンハイザー・ブッシュはこの間、乳児用ミルクやアイスクリームなど、非アルコール製品を何十種類も販売していた。ミラーはビール類似飲料の「Vivo」やソフトドリンク、麦芽ミルクを製造した。そして禁酒法が撤廃されると、これらの醸造所はうなりを上げてアルコール事業に舞い戻った。

 今日のビジネスリーダーたちは経済が激動する時代において、貿易や気候変動、多様性と包括性などの問題に関する政府の規制措置が次々と転換する状況で舵取りをせざるをえない。彼らにとって、過去の政策激変期を巧みに乗り越えてきた企業の動きについて詳しく知ることは、大いに参考になるのではないか。たとえば、胚性幹細胞(ES細胞)のR&Dを強く規制したジョージ W. ブッシュ時代のバイオテクノロジー企業や、1980年代に市場金利が厳しく規制され始めた時期のインドの銀行、もしくは習近平時代の中国のテクノロジー企業などだ。

 こういった難題への典型的な対処法としては、「撤退」(exit)、「発言」(voice)、「恭順」(royalty)がある[注1]。たとえばウーバーは2018年に東南アジアの数カ国で市場から「撤退」した。規制と競争条件に高い障壁があると認識し、同地域で競合していたグラブに事業を売却した。一方、テスラは「発言」する道を選んだ。消費者に直接販売するというビジネスモデルを貫くため、米国の複数の州にあるディーラー保護法に反対するロビー活動を行った。そしてアップルは「恭順」の意を示した。中国のサイバーセキュリティ法に従うため、中国のアップル利用者のiCloudデータを中国政府系のパートナー企業が管理する現地サーバーに置くことを受け入れたのだ。この3社は、複雑な政治と規制の状況に合わせるため、それぞれに異なるがいずれも定番の対処法を用いた。

 ただし、これら3つの対処法にはいずれもマイナスの側面がある。「撤退」は競争のための足場を失うことになりかねない。「発言」は対立を激化させるおそれがあり、自社が政治家や消費者の攻撃の的になるかもしれない。「恭順」は自社の倫理的行動基準に関して評判を落とす可能性がある。

 ここで「戦略的冬眠」が第4の選択肢となる。対外的には事業活動を減らしつつ、社内では自社のケイパビリティをひそかに温存しておく作戦だ。激動する不透明な時期に経営陣は本能的に事業縮小の道を選ぼうとするが、戦略的冬眠はそれとは異なる。方向転換してハードルの高い事業分野から離脱するのとも異なる。戦略的冬眠とは、柔軟性を身につけて、自社の選択肢を慎重に残しておくことである。それには、撤退せずに音量を下げるべき時がいつかを見極めなければならない。

 いまの米国のように政治色の強い事業環境で戦略的冬眠を選ぶとすれば、たとえばDEI(ダイバーシティ、エクイティ、インクルージョン)部門を企業文化や人材開発のための部門に衣替えする、気候変動に対する社内の取り組みを「レジリエンス」や「将来への備え」という名目に変えて温存するといった方策になるだろう。要するに、かろうじて続いている状態でもかまわないから、とにかく活動を止めずに残すのである。そうすれば、逆風がいつか追い風に変わった時、重要な分野に再参入するために必要となる運動エネルギーを温存しておくことができる。

 本稿では、戦略的冬眠を成功させるカギとなる3つの要素について、具体例を挙げて解説する。第1は、自社の中核となる資産を温存すること。第2は、政治的リスクの分析に経営資源を投入すること。第3は、自社が外部からどう見えるかという「外面」をしっかり管理することである。

1|会社の中核的資産を温存する

 戦略的冬眠の最初のステップは、自社の中核となる資産を維持することだ。その重要性を最もよく示す好例の一つが、2001年にブッシュ政権がES細胞への政府助成に制限をかけたケースだ。背景には、妊娠中絶をめぐる政治的駆け引きがあった。この状況への対応策として、多くのバイオテクノロジー企業は政治的論争に関わるのを避けつつ、科学的研究のケイパビリティを温存するという戦略を採った。