一方の能力構築で違いをつくるとなると、これと真逆の考え方を必要とする。前にもどこかで使った喩えでいえば、能力構築による競争優位はウサイン・ボルトのようなものだ。既定のトラックの上で、100メートルを走るという仕事は決まっている。人と違った方向に行くという選択は端からあり得ない。しかし、人がまねできないほどやたらと足が速ければ競争に勝てる、というのが能力に軸足を置いた戦略思考だ。

 自分の種目は100メートル走だと決めてかかるから、そこで少しでもタイムを縮めるための長く苦しい能力構築(練習)に取り組むことができる。さんざん100メートル走のための能力構築に明け暮れてきた人をつかまえて、「オリンピックで金メダルをずっと取りやすいから、アーチェリーにリポジショニングしませんか?」と誘っても受けつけないだろう。

 しつこいようだが、話を『プラダを着た悪魔』のアン・ハサウェイと『フラガール』の蒼井優との比較に戻すと、こういうことだ。アン・ハサウェイは最終的にリポジショニングの決断をすることで、これまでの自分(プラダを着た悪魔に使えるアシスタント)を捨てて、新しい方向(ファッションではないシリアスな方面のジャーナリスト)へと戦略転換した。映画ではここで終わっている。つまり、創造的破壊の2つのベクトルのうち、破壊に焦点を当てた話になっている。その後、彼女がそもそもの自分の意志である社会派ジャーナリストとしての能力を構築し、創造の方でもうまくいったかどうかは定かではない。

 ポジショニングという戦略思考は、破壊(リポジショニング)の後で、あたらしいポジショニングで競争に勝てるだけの能力がそもそも備わっているということを暗黙の前提としている。しかし、いつもこの前提がその通りになるとは限らない。

 意地悪な見方をすれば、アン・ハサウェイのリポジショニングの発想は、その後もこうした破壊的な路線変更を繰り返すばかりで、何もモノにならずに終わってしまうという成り行きになる可能性がある。本当に自分に向いているのは今やっていることではなくて、別の路線なのではないか……、というような「本当の自分探し」に終始する。リポジショニングを繰り返すだけで、その後の能力構築がついてこないという失敗パターンだ。

 逆に、もしアン・ハサウェイが能力構築に軸足を置いたものの考え方をする人物だったらどうだっただろうか。悪魔のような上司に仕えるのは確かにつらい。そもそも自分が夢見たジャーナリストの仕事ではないかもしれない。しかし、ここで諦めてしまっては話が終わってしまう。だから、「でもやるんだよ!」の精神で必死に上司についていく。降りかかっていく無理難題をひいひい言いながらこなしているうちに、ファッション・ジャーナリズムの世界で生きていくための能力が知らず知らずのうちに身についてくる。以前はどうにもならなかった仕事がスイスイできるようになる。

 はじめはイジメとしか思えなかった悪魔上司のシゴキにも、能力構築の観点からするとそれなりの意味があったとわかるようになる。仕事ができるようになると、ファッション雑誌の編集部の仕事に固有の醍醐味がわかってきる。「これが私の生きる道……」とばかりにますます能力構築に拍車がかかる(考えてみると、洋の東西を問わず、「職人」の世界はこうした能力構築の発想に立脚しているといえる。余計なことを考えずに、これが自分の道だと心を定めて能力構築に精進する。「石の上にも三年」だ)。

 そうこうしているうちに20年が経過。気づいてみると悪魔上司の後を次いで、自分が「プラダを着た悪魔」(そのころはもうプラダではないかもしれないが)と呼ばれる編集長になっている。新しく入ってきたアシスタントに無理難題を吹っかけながら、「ま、せいぜい今のうちに苦労することね。私も若いうちはあなたと同じようなものだったのよ。あの頃は心が定まってなかった……」と心中でかつての自分を回想して、甘酸っぱいというか、ほろ苦い気分になる、という次第だ。