私は学校でもどこでも、常に依怙贔屓される子どもでした。父が45歳の時の子だったのですが、実は父は再婚だった。私はその事実を47歳になるまで知りませんでした。だからいつも、みんなと違って、父親がおじいさんのようだったというか、周りはそう思っていました。同じく、当時としては晩婚であった母は度胸があるというかなんというか……通常の教育ママのスケールを超えていました。
母親の存在感が、何しろすごかった。どうやったのかいまだにわかりませんが、小学校を丸抱えしているような感じで、校長先生はじめ先生たちはみな、私の母親の意向をうかがっているようなところがありました。クラス替えがあれば、私は常に最も力のある先生のクラスに入れられた。すぐに級長に指名される……。子どもながらに依怙贔屓されるとはどういうことかを身に染みて理解しましたよ。
一方で、母親のそういう姿を見て、人間は、インテリとか、学歴がどうかとか、外見が、生まれがどうとか、そういうことではなく存在感を示せるかどうかなんだと思いました。
――女性ながらにして豪快なまでの存在感ですね。
存在感が大事であることを、幼い私に教えてくれたもう1人の人物がいます。
その人は、広島のボスと呼ばれていた人で、私の実家のすぐ近くに住んでいました。市議会議員を務めた後、商工会議所の専務理事になった父は、よくその人の家に行っていたのですが、私はいつもお供でついていきました。いまどきあまり見ない、それはそれは、立派な西洋館でしたよ。
――広島のボス、とはずいぶん怖い響きですね。
広島のボスといっても、5歳くらいだった私には、やさしい、いい爺さんでした。よく散歩に連れて行ってくれて、町の本屋に寄っては、『冒険ダン吉』や『のらくろ』なんかを買ってくれた。2人で近所をふらりと散歩して、その屋敷に帰ってくる。
すると、いつも誰かしら客人が、爺さんを待っているんです。広島の有力企業の社長が入れ替わり立ち代わり、その爺さんを訪ねてきていました。爺さんの姿が見えると、もう畳に頭をすりつけるようにしてお辞儀して迎えるんです。社長だろうが、みな叱り飛ばされていました。何しろ怖かった。
そんな一部始終を遠くから見ていて、子ども心に、なんてすごい人なんだと思いましたよ。
だいぶ後になって、あの人は一体何だったのかを当時の人にいろいろ聞いてみましたが、すごい人だったということ以外、誰もよく知らない。救世軍の中尉さんだったと聞いたことがあります。そういえば、いつも詰襟を着ていました。なぜ、救世軍の中尉さんが広島のボスになったのか……。まったく不可解です。
戦後すぐの広島には、そういう風な人がたくさんいたんです。インテリだとか、学歴だとか、家柄だとか、そういうものを超えた、威風堂々たる存在感を備えた人がいて、私はそういう人こそがすごいんだという世界で育ったのです。
――とろんとした目をして幸せそうな表情を浮かべ、トレンディなレストランで談笑する建築デザイナーたちの世界とは、確かに大きく違う世界ですね。
なぜ、あれほどの違和感があったのか。いまだにうまく説明できません。その後、建築家仲間からは「君は建築の才能ないから早く見切りをつけてよかったね」とよく言われました。彼らの目から見るとそうだったのでしょう。才能がないから辞められたのでしょうし、それでよかったのかもしれません。そうでないと、スローン・スクールに行き、1975年にマッキンゼーに入るということにはならなかったでしょうから。
経営コンサルタントなどという職業が、日本ではまだ市民権を得ていない時代です。私の妻は、人から夫の職業を聞かれるたびに、言いにくそうに「ケ、ケ、ケ、ケイエイ、コ、コ、コンサルタントです」とどもって答えていたと言っていました。でも、偶然とはいえ、幸いにも、マッキンゼーのような組織は、私にはとても合っていたのだと思います。