「写真を撮る」という行為は経営と似ている。すなわち、知識と技術と意思が必要なのだ。知識と技術は他人から学ぶことができる。しかし、意思は自分の中にしか存在しない。

 

いいカメラがあってもいい写真が撮れない

 最近カメラを譲っていただき、写真を始めました。これまで無縁の世界を一から体験し始めたところですが、そのプロセスは発見の連続です。

 まずカメラを使うには知識が必要です。光をレンズで取り込んで、デジタルに変換する仕組みを理解しなくてはいけません。小学生の頃、光の三原色を学んだといううっすらとした記憶を引き出して、光の屈折率が異なることなど、まるで光学の勉強です。そして光を高画質のデジタル情報に置き換える過程は、まさにIT技術の集積です。カメラを使いこなすには、知識が必要です。

 知識があっても技術がないといい写真は撮れません。僕の「師匠」筋からは、「絞り」「シャッタースピード」「ピント」「フレーム」の4要素を叩き込まれました。そして、これらを最適にするには、何度も自分で試して、体感で覚えるしかありません。トライアンドエラー。仮説を立てて撮影し、その写真を見てどこがまずかったかを検証、そして設定を変えてまた撮る。この繰り返しです。状況に応じて瞬時に最適な写真を撮る技術は、この繰り返しで培われるのでしょう。

 いまはこれを実践していますが、気が付いたのは、「何を撮りたいのか」がないと技術も磨かれないという当たり前のことです。

「写真を始める」という表現も、本当は不自然で、そもそもは撮りたいもの、残したいものがあって、写真を始めるのです。カメラをもって写真を撮ろうと思うと、これまでのスマートフォンで撮るのとは格段に、「自分が何を撮りたいか」に敏感になりました。カメラの性能を試したいために写真を撮るのではなく、撮りたい瞬間や撮りたいものがあるからこそ、性能を最大限生かしたいのです。そして、この「何を撮りたいか」は学ぶものでも、教えてもらうものでもなく、自分の中にあるものであり、写真のその人らしさが出る根本的なところなのだと理解しています。

 カメラに嵌まって気が付いたのですが、この写真を撮るという行為は経営と同じではないか。経営に必要なのは、まさに知識と技術と意思です。