価値を生み出す現場と、価値を受け取られる現場は違う
企業で会社員として働いていると、自分の給料が何の対価として支払われているのかが分かりにくくなります。本来は、生み出した価値として受け取っていると頭では分かっていても、実際は価値を生み出す瞬間を実感できることがあまりありません。
営業職の人なら、受注が決まった瞬間に、価値を生み出した実感はもてるでしょう。販売の仕事も同様に、「これをください」と言ってもらった時など、仕事をした感が生まれます。顧客と前面に向き合う仕事は、企業という組織では少なく、企画や開発、スタッフ系の仕事をしている方は、この「仕事をした感」が持ちにくいのではないでしょうか。
雑誌を編集するという僕の仕事も、実は仕事をした実感が得られにくいのです。今月号がよく売れたと言っても、売れたのは登場してくださった著者のお陰でもあるし、雑誌づくりは印刷やデザイン、ライターなど外部の力に依存している部分が大きく、また営業の努力や取次会社や書店の協力があって、初めて売れるものです。
仮に雑誌づくりは「編集」の力が大きいと言っても、「売れた」という販売データは数字に過ぎず、ネットで話題になっていても「実感」が持ちにくいのが現実です。さらに言えば、売れても売れなくても、毎号出来上がった号を見て「仕事をした感」はあります。もっと言えば、売れない号でも、自分でいい内容だと思えると(自己満足以外の何物でもないですが)、仕事をした充実感は得られます。逆にいえばこれも仕事をしている「実感」に自信をもてなくさせます。
同じような想いを抱く職業は他にもあるような気がします。たとえば教育に携わる人は、自分の仕事の成果をいつ感じることができるのでしょうか。小学生の先生は、中学校に送り出すことで一定の達成感を得られると思いますが、教育の本当の効果は、10年たっても測定しにくいものです。
価値の創出と、価値の受益が時間的にも物理的にも離れてしまうと、「仕事で価値を出す」という実感が得られにくいのではないでしょうか。
これが、仕事の対価についての妥当性にも実感がもてなくなる理由にもなっています。自分の給料が自分が生み出した価値に相応しいかと問われると、まったく信憑性はありません。会社での給料の多くは、年齢や職歴、そして役職などで「相対的に」決まります。仮に「絶対的な」評価としていまの2倍もらっていいはずだと言われても「そうか」と思えないし、いまの半分の給料が妥当だと言われれば「そんなもんかな」とも思えてしまうほど、対価との関連も、とてもあやふやな感覚です。
日常生活に潜む、仕事をしているやっかいな充実感
仕事をしている実感に関して、日常的なやっかいな問題もあります。
それは、夜中まで仕事をしたり、出張したり、あるいはイベントをやり終えたりすると、不思議と「仕事した感」があることです。これらは一つの仕事として見ると決して、価値を生み出しているかどうか関係ありません。夜中まで仕事をするのは、効率が悪いか、ミスをしてやり直しなのか、ある種のトラブルがあった「不測の事態」であり、効率的に仕事を進んでいる状況ではありません。
出張も移動に多くの時間を取られ、実質的な仕事時間はわずか。僕らのような取材の場合、1時間お話しを聞くために一日がかりということも珍しくありません。その日だけ見ると、実に効率の悪い一日ですが、なぜだか出張から戻ると一仕事終えた感があります。
イベントなどはそれが販促目的で、それ自体は利益を生まないものであっても、準備からやることは多く、緊張感をもった本番が終わると、妙な達成感があります。この手の「仕事をした感」は、実際の仕事の効果や効率とは無関係なのが、とても厄介です。
この実感の得られなさを克服するのは、想像力しかありません。物理的にも時間的にも価値を提供する場面が離れていても、その現場を想像する。企画書一枚書く仕事でも、それが誰にどのような価値を生み出すことにつながっているかを想像する。地道な作業の繰り返しも10年後の見知らぬ人が喜んでくれる姿を想像する。このような想像力によって、仕事をしている実感を得やすくなるばかりでなく、一つひとつの仕事の質が上がるでしょう。そして、組織内でこの想像力の連鎖ができあがると、事業の生み出す価値は必ず高まります。
なかにはどう想像力を働かせても、誰にどんな価値を生み出しているかが見えにくい仕事があります。こういう仕事は極力省力化、あるいはやめるべきでしょう。仕事の価値への想像力は、無駄な仕事を見つける手段にもなるのです。(編集長・岩佐文夫)