本来、思考の糧を得るための読書が、思考停止のツールになっていないか。読むことで満足していると、そこから学んだ知識が必要な時に、使える知識になっていないこともある。
好きな著者の本を
鵜のみにしてしまう怖さ
私は、ここ数年尊敬している人の新刊を読むのに、非常に慎重になるようになりました。すぐにでも読みたい気持ちは当然あるので葛藤しながら、いつ読もうかといったんは保留しておく。読むと必ず気づきが多く得られるのです。ですが、その前に、そのテーマについて自分でじっくりと考えてからその本に対峙したい。著者と勝負するというほど大げさではなくても、「自分だったこう考える」という部分を突きつめてから読みたいと思うのです。
それは、本に書かれていたことが全面的に賛同するであろう内容の場合、自分であまり考えないで、そのまま受け入れてしまうことが怖い、もったいないと思うからです。
つまりただ単に著者の考えを「知りたい」のではなく、自分のなかで「考えたい」からだと思います。
読書は思考のためのインプットとして、パワフルなツールであることに疑いはありませんが、読み過ぎる怖さも感じます。書籍にはファクトと同時に、それらを著者が整理した解釈が書かれています。そこから我々は新しいファクトを知ると同時に、著者の解釈を知らず知らずのうちに、自ら解釈したことであるかのように吸収する。これは良し悪し両面があるでしょう。多様な他者の解釈を取り入れることができるメリットは計り知れません。しかし、情報として他人の解釈を「知る」ことで、自分で解釈したことと錯覚してしまう。そのような解釈は、いざそれが必要な場面で、腹落ちしていないことに気づき、知識として使えないのです。
読書は人の知識から学ぶことです。一方で、自分で学ぶ行為は経験でしかありません。業務で同じミスを繰り返す部下に対し、その業務の責任者に任命したら、見事にミスをしなくなった。これは一つのファクトに過ぎませんが、自らこれを経験することで、人はリーダーにとっての「任せる」力の重要性を学ぶ。つまり、新しい解釈を得るのです。
経験知、実践知という言葉がありますが、あたかも文書化され明文化された形式知との対比でとらえがちです。しかし、知識を得る手段の最上位に「経験」はあるはずで、読書はその安価な代替策ではないか、と最近思います。