常識を覆すデジタルアートを次々と発表し、驚きを与え続けるウルトラテクノロジスト集団のチームラボ。その集団を率いるのが、代表の猪子寿之氏だ。新作を発表した「KENPOKU ART 2016 茨城県北芸術祭」では、どんな世界観を実現したかったのか。猪子氏が作品づくりに込める哲学を聞いた。(写真/鈴木愛子)

境界を曖昧にする体験は
自然で、気持ちがいい

猪子寿之(いのこ・としゆき)
チームラボ 代表
1977年生まれ。2001年、東京大学計数工学科卒業時にチームラボ設立。チームラボは、さまざまな分野のスペシャリストから構成されているウルトラテクノロジスト集団。アート、サイエンス、テクノロジー、クリエイティビティの境界を越えて、集団的創造をコンセプトに活動している。
http://www.team-lab.net/jp/

編集部(以下色文字):猪子さんは常々、アートで「美の基準」を変えたいというお話をされています。その点を詳しくお聞かせいただいたうえで、今回の美術展ではそれをいかに実現するのでしょうか。

猪子寿之(以下略):そこにはいろいろな視点があるけど、一つは境界を曖昧にするということかな。意識的でも無意識でも、人はすべてのものに境界が存在すると考えています。大きな話では「国境は必要だ」と思っているし、身近な話では、たとえば僕といま目の前に置かれているコーヒーカップにも境界がある。なぜなら、あると思っているから。僕とカップの境界が曖昧なわけがないよね。

 なぜそうなのかを考えると、それは現実世界が物質でできているからであり、物質の存在が境界という概念を生みやすいからじゃないかな。もともと人間の考えや愛というものは、それが言語化されずに脳の中にある状態では、その境界がもっと曖昧かもしれないでしょ。あるアイデアやコンセプトが脳の中にあるとき、それはたしかに独立している。でも、その境界は曖昧な状態だとも思うんだ。なぜなら、それは他の考えの影響も刻々と受けているはずだからです。つまり人間の脳にとっては、それぞれ独立していながらも境界が曖昧なものが複数存在する状態のほうが、自然なのかもしれないよね。

 そうではあるんだけど、現実世界には境界が存在する。当たり前だけど、たとえばゴッホの『星降る夜』と『ひまわり』という作品は独立していて、それぞれの境界がはっきりしています。ただ、それはゴッホの脳の中でもそうだったわけではなく、脳の中にあるものを現実世界に存在させるために、キャンバスと絵具という物質を媒介したがゆえに境界が生まれただけなんじゃないかなと思っていてね。

 本当にそうなのかはわからないよ。でも、境界とは物質が後天的に生んだものにすぎないのであれば、それを曖昧にすることによって、ふだんとは違った体験をしてもらえるかもしれない。そして、それが、多くのことが物質から解放されていく新しい時代において、すべての事柄を根本から考え直すきっかけになればいいなと思っています。そのような体験になれる新しい作品群の空間を将来つくれたらいいよね。

 今回の「チームラボ 小さき無限に咲く花の、かそけき今を思うなりけり」では、その実験的な作品を展示しています。たとえば、「増殖する生命Ⅱ」と「境界のない群蝶」という作品。「増殖する生命Ⅱ」という作品は独立した作品だったんだけど、「境界のない群蝶」が「増殖する生命Ⅱ」の中に勝手に入り込み、勝手に出ていくようになっています。

 どう見えました、今回の蝶の作品?

 ちょっと引いて見ると一つの作品に見えるし、でも、あるポイントだけを見ていると別のものにも見えました。おもしろいですよね。

 あれは、群蝶が「増殖する生命Ⅱ」という別の作品の中に本当に入っている。それによって、境界みたいなものが少し曖昧になっていくんじゃないかなと思っています。

 それから「境界のない群蝶」は、蝶が「増殖する生命Ⅱ」の外にいるとき、人が触ると蝶は死んでしまい、下に落ちていなくなります。

 新作の「小さきものの中にある無限の宇宙に咲く花々」という茶の作品もそうです。あれは茶を点てて初めて器の中に花が咲いていくし、茶を飲み干すと花はなくなってしまう。器に茶が存在して初めて作品が生まれる。器の中の茶がなくなると作品は存在しなくなる。作品の存在自体がすごく曖昧なものなんですね。そして、キャンバスが茶という変容的な液体であるため、茶の量によってキャンバスの大きさが変化し、生まれる花の大きさが変わる。変な話、お茶をこぼすと、そこにも花が咲く。器を手に取って動かすと、花は散り、花びらは器の外へと広がっていく。キャンバスは大きさや数が変容的な存在であるし、そのキャンバスの境界すら曖昧なんですよ。

 僕は境界がなくなっていくことは自然なことで、気持ちがいいことだと思っているので、今回の作品の体験を通して、すべての領域の境界に対して考え直すきっかけになってほしい。

「DMM.プラネッツ Art by teamLab」でも境界を曖昧にするような意図を感じました。

 あれはその意図がもっと明確で、自分と世界との境界をなくすことを体感してもらいたかった。

「DMM.プラネッツ Art by teamLab」に入ると、道を見失い、本当に迷子になる。実際は、あまりに迷子になりすぎるから運営ではスタッフが張り付いて、迷わさないようにしたくらいです(笑)。もともと迷子になるように設計しているんですよ。僕でも一人では出られない。作品に身体ごと没入している状態で道を失い、やがては自分も失うようにしたかったんです。

 自己を失うことは、近代の考え方ではあまりよくない意味を持つよね。近代の理解では、自己とは境界がはっきりした明確なものであり、アイデンティティみたいなものが人間の前提になっている。でもさ、「自分は何者かである」なんていう概念自体が、そこまで重要ではないのかもしれないと思わない?

 自己との境界が曖昧になり、他者との境界も曖昧になり、作品、つまりは世界と自分との境界も曖昧になる状態を体験することは、実はすごく重要なことだと思う。他者との境界も不明確になれば、ふだん得られないような感覚を覚えられるし、世界との境界もなくなると、自分は世界の単なる一部でしかないことを知ることができるから。

「DMM.プラネッツ Art by teamLab」の外に出たとき、ちょっと見え方が変わらなかった?同じ風景には見えなかったでしょ?どう変わったかを言語化するのは難しいだろうし、それほど世界の見え方は変わらないかもしれないけど、世界がちょっと違って見えたのなら、それで十分な意味を持つんじゃないかな。世界がちょっとでも違って見えるってことは、価値観が変わったってことだから。そんな作品をこれからもつくっていきたい。