人の行動変化を、強制ではなく「間接的に促す」のが、行動経済学に基づく「ナッジ」である。本記事では、会社が従業員に対してこれを悪用する例として、ウーバーを取り上げる。


『ニューヨークタイムズ』紙の最近の記事によれば、ウーバーは行動経済学のさまざまな知見を活かし、ドライバーにより多くの乗客を拾うよう「ナッジ」(間接的に誘導)しているという。だが、それがドライバーにとってはほとんど利益にならない場合もあるようで、同社は大きな批判を浴びている。これも、昨今のウーバーに暗い影を落としている数ある話題1つにすぎないのだが。

 私は当該記事を読んだ際、企業の幹部からよく受ける質問を思い出した。

 私が行動経済学のメリットや社内での活用事例について説明すると、彼らは「悪用されるおそれはないのだろうか?」と尋ねるのだ。これに対し、私はいつも「多くのツールと同様に、行動経済学の活用法には良いものも悪いものもある」と答えている。

 両者の違いを掘り下げる前に、まずは比較的新しい分野である行動経済学について簡単に説明しよう。

 従来の経済学では、人間とは合理的な主体であり、十分な情報を持ち合わせ、その選好は安定しており、自制的かつ利己的、そして最適な行動を取るものと見なす。この考え方に異を唱えるのが行動経済学だ。すなわち、人間は誤った判断を下すものであり、その選好や行動は状況次第で変わり、リスクの計算においても過ちを犯す。さらに、衝動的または近視眼的であり、社会的欲求(他者によく見られたいなど)に駆られる性質を持っている。換言すると、我々は実に人間らしいということだ。

 行動経済学は上記の前提から始まる。この学術分野は、心理学、経済学、判断と意思決定、脳神経科学の知見を融合したものであり、各領域を単独で実践するよりもいっそう効果的に、人間の行動を理解・予測して最終的には変えることを目的としている。

 ここ数年、官民両方の組織が行動経済学の知見を適用し、多岐にわたる問題に対処している。たとえば、脱税や仕事のストレスや離職の削減、健康的な習慣の促進、老後に備えた貯蓄の奨励、投票率の向上などがある(拙著論文「行動経済学でよりよい判断を誘導する法」を参照)。

 ウーバーも同様の知見を活かし、ドライバーの行動に影響を及ぼそうとしている。『ニューヨークタイムズ』紙の記事で、ノーム・シャイバーはこう書いている。「ウーバーは何百人もの社会科学者とデータサイエンティストを雇い、ビデオゲーム風の手法、アプリ上で表示するグラフィックの工夫、ほとんど無価値の非現金報酬を駆使して、ドライバーをもっと長く、もっと必死に働くよう駆り立てている。ときには、ドライバーにとって利益の低い時間帯や場所でも、それをやっているのだ」

 シャイバーによると、ドライバーにもっと客を拾うよう強いる同社の手法の1つは、「人間は目標に大きな影響を受ける」という行動科学の知見に基づいている。記事によれば、ウーバーはドライバーがアプリからログアウトしようとすると、「もうひと踏ん張りで大きな目標が達成できる」というアラートを表示する。また、現在の乗客を目的地に送り届ける前に、次の乗客の情報がドライバーに通知される。

 ここで、ナッジの活用法の良し悪しに関する話題に戻ろう。

 経営幹部とこの問題について話す際、私は最初にいくつかの事例を紹介する。特に気に入っているのは、患者の合併症を減らすために手術でチェックリストを活用する例だ。