仮想通貨の「化体」をどう可視化するか

――一部の投資家にとって、仮想通貨は投機の対象となっています。はたして仮想通貨は貨幣なのでしょうか。貨幣として信用力を高め、広く社会に受容されるには、何が課題ですか。

 貨幣らしきものがどういうときに成立するのかは、昨今、世界的な関心事です。国が法律で決めたものがお金なのか、それとも、みんながお金だと思ったものがお金なのかは長年のテーマです。モザンビークで電子マネーによる金融システムづくりに奮闘する合田真さん(日本植物燃料社長)が、著書『20億人の未来銀行』(日経BP社)のなかで「貨幣とは物語だ」とおっしゃっています。私も同感ですが、ある社会が成立するときには、必ず物語があります。商慣習や文化、文明、神話以来の無意識に共有している約束事の上に社会は成り立っています。

 貨幣とは何かを考えたときに、たとえば、1万円札はただの有体物、紙なのですが、その紙の上に1万円という金銭的価値が乗っています。これを「化体」と言いますが、1万円の価値が乗っているとみんなが思えば紙幣なのですが、そうした約束事を共有できていない人にとってはただの紙切れです。多くの場合、文化や歴史、宗教などと結びついて、形而上的な価値が有体物に固着していることを、だれもが直感的に理解しているときに貨幣は成立します。

 化体について説明するときに、私がよく例に挙げるのが台湾の「冥銭」です。台湾の道教寺院を訪れる参拝客は冥銭という紙片の束を購入し、火のなかに投げ込みます。すると、有体物としての紙片は消えて、形而上の価値だけが残り、あの世に送金できると考えられています。冥銭は、化体という抽象的な概念を可視化しようとする儀式であり、紙幣という社会システムの受容にひと役買っていると思われます。ブロックチェーン上でこれに近いことを表現できない限り、仮想通貨に金銭的価値が乗っかっているという理屈を広く社会に受容してもらうことは難しいでしょう。

 仮想通貨には実体がなく、あるとすればノードだけです。1万1000個のノードがプラネタリウムの投影機のような役目を果たし、金銭的価値の流れを映し出しています。それが、どこに映っているのか、ある人には見えていますが、外の世界の人には何も見えません。ある種、同じ幻想を共有している人のあいだでは、UTXOは秘密鍵がないと絶対に動かないから、「あれは確実にお金なんだ」と受け止められますが、そうでない人にとっては、仮想通貨のユーザーは、勝手に小宇宙をつくって、「宇宙ってどうなっているんだろう」と自問自答している人にしか過ぎないのです。