20年の歳月を費やした日本初の抗体医薬が
世界110カ国以上で承認
大川 研究開発型の製薬企業として、革新的なグローバル製品を上市し続けておられますが、その成功要因は何でしょうか。
永山 振り返ってみると、1980年代初めに当時の社長だった上野公夫と研究開発担当の役員だった佐野肇(のち社長)の2人が、バイオの研究に投資を続ける決断をしてくれたことが大きかったと思います。
中外製薬は1970年代半ばから、白血球を増やす遺伝子組換えバイオ製剤「ノイトロジン」の研究を始めていました。分子量500以下の低分子薬に対して、分子量は2万くらい。開発も製造も低分子薬とはまったく方法が違いますから大変な苦労をしましたが、1980年代には薬になりそうな段階に来ていました。その開発を続ける決断を当時の経営者がしていなかったら、いまの中外はないと思います。
ノイトロジンの臨床試験が始まったのは1987年、上市したのは1991年ですから、研究開始からずいぶん時間がかかりましたが、バイオ医薬品の開発について多くの知見と技術を蓄積することができました。
大川 日本の製薬会社はいまでも低分子薬が中心ですから、バイオ医薬品開発に踏み切るのは大きなチャレンジだったでしょうね。

デロイト トーマツ コンサルティング
ライフサイエンス&ヘルスケア
執行役員
ライフサイエンス&ヘルスケア業界に20年以上従事。製薬企業を中心に、医療機器企業、保険企業、製造業、テクノロジー企業を支援。イノベーションを通じた持続的成長をコンセプトとし、事業ビジョン、事業戦略、組織変革、R&D戦略、オペレーション変革、DX(デジタル・トランスフォーメーション)などのプロジェクトを手がける。
永山 低分子薬の開発は、製薬会社が自社で保有する化合物のライブラリーから、新薬開発の候補物質探索の出発点となる化合物(ヒット化合物)を探します。そこから目標とする薬効や物性の向上、副作用低減に向けて合成展開し、非臨床・臨床試験へと開発を進めていきますが、そもそもヒット化合物が見い出せなければ開発しない。それが常識でした。
バイオ医薬品は、ライブラリーを根拠にして開発するのとはまったく違います。創薬プロセスは疾患に関与する標的タンパク質の解析から始まります。標的タンパク質の解明や解析は基礎医学の世界の話で、製薬会社が手をつけるものではないと当時は考えられていました。
大阪大学の岸本忠三先生のグループが、関節リウマチなどの炎症反応を引き起こす原因になるタンパク質「インターロイキン6」(IL-6)を発見したのが1986年ですが、中外製薬はその年からIL-6の働きを抑える薬について岸本先生のグループと共同研究を始めました。日本の製薬会社はどこも研究対象にしていませんでした。
共同研究を進めるうちに、IL-6阻害剤は低分子では難しく、抗体でないと薬にできないことがわかったので、社内の研究者2人を英国医学研究会議(MRC)分子生物学研究所に2年間派遣し、ヒト化抗体の技術を学ばせました。
そんなふうに無我夢中で開発を続けるうちに、研究者が育ち、バイオ医薬品の基礎を築くことができました。アクテムラを国産初の抗体医薬として上市できたのが2005年で、実に20年の歳月を費やしましたが、いまは自己免疫疾患の治療薬として、世界110カ国以上で承認されています。
根岸 私たちが外から見ていても、中外製薬では若くて優秀な研究者が増えていると感じます。

デロイト トーマツ コンサルティング
ライフサイエンス&ヘルスケア
執行役員
医薬・医療機器などの内資/外資系ライフサイエンス企業や他業界からの参入企業に対して、戦略立案、オペレーション/組織改革、およびデジタル戦略立案/実行支援、アウトソーシング戦略立案、当局規制コンプライアンス対応などのプロジェクトを数多く手がけている。
永山 21世紀に入ってバイオテクノロジーへの注目が高まったことで、大学でも分子生物学を学ぶ学生が増えました。バイオ研究の分野で活躍するなら中外製薬ということで、当社を選んでくれる学生が増えて、最近はいままで以上にバイオ分野のレベルの高い研究者を採用できるようになりました。
研究部門の幹部たちは、「いま自分が学生だったら、とても中外には入社できない」と苦笑いしています。