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偏ったリーダーシップ論
「我々は、生きていくために物語をみずから語り聞かせる」
これは、ジョアン・ディディオン[注1]が人間に生来備わっている、根拠のない楽天的性向について表現したものである。よい物語は世界を住みやすくする。だからこそ、本来必要な全体像を犠牲にしても、我々は心地よい物語を語りたがり、聞きたがる。
リーダーシップ研究家はたいてい、この性癖の犠牲となっている。過去数十年のリーダーシップ関連の著述で高い評価を得ている著者の大半が、読後感のよい物語という、読者の(そしておそらくはみずからの)ニーズに応えようとしている。
ここ2、30年のベストセラーを振り返ってみても、このことが当てはまる。たとえば、トム・J・ピーターズとロバート・H・ウォーターマン・ジュニアの『エクセレント・カンパニー』、ウォレン・ベニスとバート・ナヌスの『リーダーシップの王道』、ジョン・P・コッターの『変革するリーダーシップ』、ジェイ・A・コンガーとベス・ベンジャミンのBuilding Leadersなどだ。
しかし最近、何人かの著者たちは、リーダーシップの生来的善性をやみくもに信奉する立場と距離を置くようになっている。好例が、シドニー・フィンケルスタインのWhy Smart Executives Fail: And What You Can Learn from Their Mistakes(なぜ賢い幹部が失敗するのか、その間違いから何を学べるのか)である。
それでも、大成した学者の大半が、実効を上げるリーダーたちは優秀であるか、少なくとも善意に基づいていたと熱心に論じる。まるで「悪人はよいリーダーになれない」と定義しているかのように──。
もしすべてのリーダーが立派な人たちであれば、その長所が際立っている理由を理解するのはたやすい。しかし、現実にはもちろん、欠点を抱えたリーダーたちが至るところに存在する。
企業を見れば、思い上がった個人的な野心や欲望のために、多くのCEOが法律に触れる面倒を起こしている。ここ数年だけでも、権力と成功を得た経営者たちが、さまざまな金融不祥事で告発されている。