富士フイルムはいかに本業消失の危機を乗り越え、業態転換を遂げたか
PHOTOGRAPHER AIKO SUZUKI
サマリー:富士フイルムホールディングスは、同社の中核を担ってきた写真フィルム事業が2000年代に入り大幅に落ち込み、本業喪失の危機に直面した。しかし、事業構造の抜本的な転換に挑み、多様な事業から成るポートフォリオを... もっと見る構築し、見事に「第二の創業」を果たした。現在の主力事業となったメディカルシステム事業を2013年から統括し、成長を牽引してきたのが、同社代表取締役社長・CEOを務める後藤禎一氏だ。2021年の社長就任以降、後藤氏はメディカルシステム事業をはじめとしたヘルスケアや半導体材料などの重点分野でのM&A(企業の合併・買収)や設備投資、技術開発の強化を行い、企業成長を加速させている。後藤氏に、危機を乗り越え、持続的な成長を実現する投資戦略について話を聞いた。(聞き手:村田康明・DIAMONDハーバード・ビジネス・レビュー編集部副編集長、撮影:鈴木愛子)※本記事は、ダイヤモンド社が主催したウェブセミナー「持続的な成長を実現する企業戦略」(2024年5月29日)の基調講演の採録です。 閉じる

風呂の栓が抜けたように需要が激減
本業喪失の危機に直面した

編集部(以下色文字):富士フイルムに対して「写真の会社」というイメージを持っている方は、非常に多いと思います。しかし現在は、写真関連製品・サービスを提供するイメージング事業、医療機器やバイオCDMO(バイオ医薬品の開発・製造受託)事業を主体とするヘルスケア事業、半導体材料やディスプレイ材料などを扱うエレクトロニクス事業、印刷用機材やオフィス向けの複合機などを扱うビジネスイノベーション事業という多様な事業を展開されています。そのきっかけとなったのが、2000年代に起きた写真事業喪失の危機です。当時の富士フイルムは、どのような状況に直面していましたか。

後藤(以下略):以前は「富士写真フイルム」という社名だったことからも明らかであるように、当社の祖業は写真であり、本流のビジネスでした。しかし、2000年を境に写真フィルム市場がシュリンクし始めました。当時、写真関連製品で売上げの6割、利益の3分の2を稼いでいた時代です。年率20%から30%の急降下で需要がなくなり、10年後には10分の1へとマーケットが縮小しました。前CEOの古森(重隆)が言った「風呂の栓が抜けたように、みるみる写真フィルムの需要が減っていった」という言葉は、まさにぴったりの表現だったように思います。

出所:富士フイルムホールディングス
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 私は1995年からベトナムのホーチミンに初代所長として赴任し、1999年からはシンガポールに駐在していたため、当時を海外で過ごしました。

 シンガポール駐在時代は東南アジアの周辺国を管轄し写真事業をメインに携わり、高シェアを獲得していました。常識的に考えれば、こうした国々で写真フィルムの需要がシュリンクするのは日本よりずっと後になるはずと誰もが考えていました。しかし、デジタルの力は凄まじく、あっという間に市場が縮小していきました。