新しい戦略フレームワーク
「リソース・ベースト・ビュー」

 1980年代半ばまで、我々は戦略について知らないことはないと思い込んでいた。ポートフォリオ・プランニング、経験曲線効果、PIMS(市場戦略の収益影響度分析)、マイケル E. ポーターのファイブ・フォース・モデル等々──。このような分析ツールのおかげで、事業戦略と企業戦略の両方について厳密性と正当性のお墨つきが与えられたのである。

 ゼネラル・エレクトリック(GE)のような先進的な企業では、戦略プランニングの価値がますます信奉されるようになり、巨大な本社部門を抱えるまでになった。また、戦略系コンサルティング会社が急速に拡大し、広くその名を知られるようになった。

 しかしその後、この様相は一変した。80年代の環境変化によって戦略立案者の一群は一掃され、ほとんど姿を消した。そして、戦略論はさまざまな批判の矢面に立たされるようになった。

 事業部門のレベルでは、ライン・マネジャーたちはグローバル競争と技術変革のスピードに追いつけず、四苦八苦している。市場の動きが加速度的に速くなっているにもかかわらず、戦略プランニングは十年一日のごとく昔日のままであり、こちらについては「遅すぎる」と、現場は不満を訴える。

 かつての戦略論は、全社レベルでも深刻な問題を引き起こしている。80年代に入ると、ボストンコンサルティンググループ(BCG)が開発した「BCGマトリックス」(成長性と市場シェアのマトリックス)に従って各事業部門を振り分け、これがみごとはまっている企業では、かえって価値が損なわれていることがわかってきた(囲み「『負け犬』と『金のなる木』の行く末やいかに」を参照)。

「負け犬」と「金のなる木」の行く末やいかに

 1960年代後半から70年代前半にかけて、マネジメントの専門性がもたらす競争優位は幅広い事業領域に適用できると考えられていた。多くの企業はこれを信じて、事業領域を拡大していった。

 分権化され、限定があるとはいえ厳しく財務コントロールした企業が主にM&Aを手段に、関連分野のみならず非関連分野へと多角化していった。そして、こうしたコングロマリットは小さな経済圏を形成していった。当時、企業の事業範囲はどこまでも際限なく拡大できるかに思えた。

 73年に第1次石油ショックが起こり、業績が落ち込むなか、企業経営者はこの状況にどのように対応すべきなのかについて、何のアドバイスも得られなかった。この空白を埋めてくれたのが、ボストンコンサルティンググループ(BCG)の「プロダクト・ポートフォリオ・マネジメント」(PPM)である。

 いまでは有名になった「BCGマトリックス」(成長性と市場シェアのマトリックス)のおかげで、企業経営者はさまざまな事業部門を管理するツールをようやく手にした。

 この単純なマトリックスは、事業部門──以後SBU(戦略事業ユニット)と呼ばれるようになる──を、業界の成長性とそのSBUの相対的競争優位に基づいて4つの象限に分類する。各象限における戦略は、次のようにはっきりしていた。

(1)「金のなる木」を維持する。

(2)「負け犬」からは、撤退するか、徹底的にしぼり取る。

(3)金のなる木から得たキャッシュフローを「問題児」に投資し、次世代の「花形」事業を育てる。

(4)花形事業の市場シェアを市場成長が止まるまで伸ばし続けて、金のなる木に育てる。

 こうした単純な処方箋によって、企業経営者は、戦略によって達成すべきこと、つまり事業ポートフォリオのバランスを図り、各事業部門を管理し、適切に資源配分する方法について、何がしかの知識を得られるようになった。

 ただし、このPPMにも問題があった。すなわち、半導体からハンマーまで、多岐にわたる事業部門すべてに共通する価値がどのように生み出されるのかについて言及していなかったのである。各事業部門における唯一の接点は、キャッシュフローだけだった。事業部門間のシナジーが多角化企業における価値創造の核心であるとわかるのは、後のことである。

 またBCGマトリックスは、資本が潤沢であることを前提にしていたことも問題だった。つまり、企業がその内部で生み出されたキャッシュフローを全額使い切ること、そして資本市場から資金調達できないことを前提としていたのである。80年代の資本市場を見れば、この前提が間違いだったことがわかる。

 そのうえBCGマトリックスは、当該企業が有する競争優位を、その保有コストとの対比で評価できなかった。80年代、多くの企業がインフラに巨額の投資を行ったが、事業部門レベルで生み出された利益はわずかなものだった。

 同時期、市場ではM&Aが過熱し、株主価値に注目が集まるようになった。そして、模範的なポートフォリオ経営と思われていた多くの企業が、このなかで解体されていった。

 屈強と思われた大企業の多くが、社内階層が少なく、より小回りの利くライバルに脅かされ、IBM、ディジタル・イクイップメント、ゼネラルモーターズ、ウェスチングハウスなどは立ち直れないほどの打撃を被り、またGEやABBなどは、劇的な改革や組織再編を余儀なくされた。80年代の終わりまでには、多角化企業はその存在意義を正当化するのがますます難しくなった。

 戦略プランニングの正当性を疑問視する、これらさまざまな批判に応え、一連の新しい戦略アプローチが提案されたのは自然の成り行きといえる。その多くは、企業内部に目を向けたものであった。

 トム・ピーターズとロバート・ウォーターマンによる『エクセレント・カンパニー』[注1]がその先鞭をつけ、TQM(総合的品質管理)が注目され、その一環としての戦略、ビジネスプロセス・リエンジニアリング、コア・コンピタンス、ケイパビリティ競争、そして学習する組織など、さまざまなアプローチが生まれた。