
-
Xでシェア
-
Facebookでシェア
-
LINEでシェア
-
LinkedInでシェア
-
記事をクリップ
-
記事を印刷
第二の創業を支えたDXは「内製化」がカギ
編集部(以下色文字):富士フイルムは、主力ビジネスだった写真フィルム関連の需要が2000年をピークに落ち込み、わずか10年間で売上げが10分の1以下へと減少する本業喪失の危機に直面しました。そこから技術の棚卸を行い、重点事業に経営資源を集中投資した結果、現在は医療機器などを扱うヘルスケア、半導体材料などのエレクトロニクス、オフィス向け複合機などを展開するビジネスイノベーション、写真関連のイメージングという4つのセグメントでビジネスを展開されています。この「第二の創業」といわれる大転換で、デジタル・トランスフォーメーション(DX)はどのような役割を果たしましたか。
杉本(以下略):「第二の創業」をきっかけにDXが行われたという印象を持たれることがありますが、実は、私たちは何十年も前からデジタル化に取り組んできました。1956年には真空管を使用した日本で最初の電子式コンピュータを開発・実用化し、レンズ設計の自動計算などに活用しました。
その後、1980年代にPCの進化によりデジタル化の波が押し寄せる中で、1983年には世界で初めてX線画像をデジタル化した診断システムであるFCRを発売し、医療のデジタル化を牽引してきました。また、フィルム撮影が全盛だった1988年には世界初のフルデジタルカメラを開発しています。このように、日本でDXという言葉が認知されるはるか以前から、私たちはデジタル化の進展による急激な社会変化に向き合ってきました。
デジタル変革は第二の創業において多様な事業で役割を果たし、なかでも大きく成長したのがメディカルシステム事業です。メディカルシステム事業としては、CT、MRIなどの画像診断機器で撮影した画像を病院内で管理・保管する医用画像情報システム、画像診断支援AI、保守サービスなどが挙げられます。
デジタル化にいち早く取り組んできたことが、第二の創業において功を奏したと考えられますね。杉本さんご自身はデジタルを通じた変革にどのように携わってこられましたか。
私はシステム開発やプログラムをつくるエンジニアとして入社し、1990年代には印刷システム事業の集版システムの開発、その後はコーポレート研究部門に異動して画像処理の共通プラットフォームの開発に携わるなどキャリアを積んできました。たとえば、メディカルシステムや複合機の事業に再利用可能な共通部品としての画像処理ソフトウェアを提供し、メディカルシステムや複合機事業のデジタル化を支援してきました。
近年、ビジネス部門の経験を経てデジタル分野のトップに就く方が増えていますが、杉本さんはエンジニア出身です。ご自身が技術に精通されているからこそ、その後のプロジェクトや変革をリードするうえで活かされた強みはありますか。
一つは、私自身がデジタル技術やプロジェクトマネジメントに深く携わってきたため、その分野をしっかりと理解し、内製にこだわってDXプロジェクトを推進していることだと思います。その結果として、プロジェクトのアウトプット(O)、インプット(I)の比率(O/I比)を高く維持し、プロジェクトを推進するうえで直面するキャズムを乗り越えられました。
より具体的にお話しすると、アウトプットは、利益やキャッシュアウトの抑制効果などで計算し、大きくすることを目指します。また、プロジェクトの成果が現場やお客様のニーズを満たし、お金を払って使い続けてくださるかどうかの定性効果も重視します。インプットはプロジェクトの予算で、人員もソフトウェアも可能な限り内製で賄うことで抑えてきました。