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我々2人は、長年にわたる親しい研究仲間として、野中郁次郎教授の素晴らしい著作と深い友情にじかに接し、大きな影響を受けてきた。
より人間味のあるアプローチ――ヘンリーの思い出
親愛なる野中郁次郎教授の訃報を知った時、私は次のメッセージをご遺族に送った。
「ジロウ〔私は野中さんのことをこのように呼んでいた〕は、私にとってはやさしくよき友人であり、学界においては伝説的な研究者であり、大学の学生や同僚にとっても素晴らしい人間性の持ち主でした。我々欧米の研究者は、ジロウが先鞭をつけた研究を通じて、日本流のマネジメント慣行について、そして人間的な組織を築くうえでの文化の重要性について多くのことを学びました。我々は、これから心から寂しく感じることでしょう」
野中さんと最初に会ったのがいつだったかは記憶が定かでないが、たぶん後輩に当たる伊丹敬之さん(一橋大学名誉教授)に紹介されたのだろう。まもなくして、野中さんとも親しい友人になった。いまも脳裏を離れないのは、我々3人の真面目な大学教授が楽しい夕食のひとときを過ごしたことだ。そんな機会が度々あった。本当に活気に満ちていて、愉快な時間だった。
野中さんの経営学者としてのキャリアの源流は、勤務先だった富士電機製造の幹部研修を担当した時まで遡る。その内容は、のちに多くの日本企業に影響を及ぼした。その後、野中さんは米国に留学し、カリフォルニア大学バークレー校ハーススクール・オブ・ビジネスで学んだ。デイビッド・ティースとの友情が芽生えたのは、その頃のことだ。そこから2人の長年にわたる協働が始まり、野中さんは日本と米国を行き来しながら多くの共同研究や共同執筆を続けた。
野中さんは、すぐに日本の経営学を牽引する存在になっていった。
1995年、私は伊丹さんに、新しい世界規模のマネジャー育成プログラムを立ち上げる計画について相談を持ち掛けた。現役マネジャーがみずからの経験を振り返り、共有し合うよう促すことを通じて、マネジャーを育てようというアイデアだった。すると、尊敬する先輩でありメンターでもあった野中さんに相談するよう勧めてくれたのである。野中さんとの協働が実現していなければ、このプログラムが日の目を見ることはなかっただろう。おかげで、強い熱意の持ち主とともに前に進むことができた。
やや風変わりなプログラムだったこともあり、当初は否定的な反応もあった。しかし、野中さんはただちに賛同してくれた。野中さんは、イノベーションについて深い洞察に基づく著作を発表していただけでなく、みずから率先してイノベーションを強力に支援しようとしたのである。
この計画は最終的に、IMPM(国際マネジメント実務修士課程)として実現した。野中さんは、IMPMの日本モジュールで長年教鞭も執った(現在は横浜国立大学にて開催)。のちにこのプログラムのマネジメントを担ったクイ・フイ(INSEADソルベイ寄付講座教授)は、野中さんの影響力の大きさについて私にこう打ち明けてくれた。
「このプログラムに参加した企業幹部たちの多くが、組織と知識に関する(野中教授の)モデルに触発され、自社の状況を振り返る際の思考の幅がおおいに広がったと、リフレクションペーパーやリポートに書き記していました」