長州五傑とほぼ同時期に、薩摩藩からも19名(うち2名は他藩出身者)からなる密航留学生がロンドンに派遣されました。両藩の若き密航留学生たちは、ロンドンで交流があったことが知られています。

 薩摩藩の密航留学生のなかにも、長州五傑と同じく「父」なる称号を得た藩士がいます。五代友厚(ごだいともあつ・1835~85)、寺島宗則(てらしまむねのり・1832~93)、町田久成(ひさなり・1838~97)、村橋久成(1842~92)の4名です。五代は「大阪財界の父」、寺島は「日本電気通信の父」、町田は「日本の博物館の父」、村橋は「ビールの父」と称され、密航時の年齢は、五代が30歳、寺島が33歳、町田が27歳、村橋が23歳でした。

 薩摩藩では、「維新の父」と呼ばれた薩摩藩主・島津斉彬が1857年(安政4)から密航留学を構想し、1859年(安政6)の春に留学生を派遣することが決定していました。1862年(文久2)6月の幕府による日本初のオランダへの留学生派遣や、1863年(文久3)5月の長州五傑に先立つこと数年、斉彬は実に開明的な思想の持ち主でした。

 ところが、1858年(安政5)7月に斉彬が急死したため、留学生の派遣は頓挫してしまいます。7年後の1865年(元治2)四月、斉彬の遺志を継いで留学生の派遣の実現に尽くした中心人物が五代友厚でした。

 薩摩藩士の次男に生まれた五代は13歳の時、父が藩主・島津斉興(なりおき)から世界地図の模写を命じられると父に代わってこれを二枚模写し、一枚を斉興に献じ、もう一枚を自宅に掲げて日夜眺め、さらにはこの地図から地球儀を制作して世界に羽ばたく夢を膨らませていきます。五代は早くから才能を認められ、1857年(安政4)、長崎海軍伝習所に留学、航海・砲術・測量・数学などを学びます。

五代友厚(1835~1885)

 1862年(文久2)には島津久光から汽船購入の命を受け、上海に渡りました。まだ海外渡航が禁止されていた時代だったので、水夫に変装しての密航でした。上海に着いてから羽織袴に着替えて奔走し、ドイツ製の汽船八隻を買い入れ意気揚々と帰国すると、長崎港で出迎えた人々は驚愕します。五代はいち早く外国情勢を見聞し、商才の片鱗を見せたのです。

 1863年(文久3)、生麦事件を契機に起こった薩英戦争の際、五代は藩船・天佑丸(てんゆうまる)に乗り込みますが、寺島宗則と共にイギリス海軍に捕らえられてしまいます。そして、鹿児島がイギリス艦隊の砲撃を受ける様をイギリス艦の甲板上から痛感し、外国の実力をまざまざと見せつけられました。

 この時、五代は、すでに鎖国攘夷論を主張する余地はなく、むしろ開国こそが日本を発展させる道であることを身をもって知りました。そして、富国強兵の基礎をつくるため上海との貿易を振興させようと考え、同時に西洋文明を取り入れるため、藩内の俊才たちの海外留学を建言します。これが受け入れられ、1865年(元治2)4月、視察員・通弁・留学生からなる密航遣英使節団19名が旅立つのです。五代と寺島は視察員として、町田と村松は留学生として参加したほか、初代文部大臣となる森有礼(ありのり)なども留学生として参加しました。

大阪をつくった男

 1866年(慶応2)に帰国した五代は、薩摩藩の討幕運動を支えます。貿易拡張や武器弾薬の調達などを通じて、西郷隆盛や大久保利通をはじめ、木戸孝允、高杉晋作、坂本龍馬、伊藤博文、井上馨ら当代の志士たちと広く交わり、「日本経済の近代化の恩人」ともいうべき存在として、維新後は「東の渋沢(栄一)、西の五代(友厚)」といわれます。特に関西財界では、「大阪をつくった男」として、いまなお尊敬されています。

 渋沢と五代が、日本経済の近代化を推し進めたのには、共通する危機感があったからにほかなりません。

「国家の基礎は商工業にある。政府の官吏は凡庸でもよい。商人は賢才でなければならぬ。商人賢なれば、国家の繁栄たもつべきである……」

 これは、渋沢が大蔵省を辞めた時の言葉です。渋沢がこうした考え方を持ったのは、ヨーロッパを回って産業、商業、金融などの先進国の経済実状を学んだからです。当時の欧米諸国では、商人(経済人)が政治家や軍人たちと対等の関係を持ち、ベルギーなどでは王がみずから鉄を売り込むように、ビジネスが立国の基盤でした。渋沢が大蔵省を辞し、ビジネスの世界に身を置いたのは、当時の優秀な若者がすべて明治政府に取られ、実業界に優秀な人材が足りなくなると考えたからです。

 五代が渋沢と同じ危機感を持ったのは、やはり、幕末に上海やイギリスに密航し、国際情勢・外国の実力を体感し、富国強兵のためには商工業の振興が不可欠だと考えたからです。長崎での経験やヨーロッパでの経験から、維新後は参与職外国事務掛として「神戸事件」「堺事件」「イギリス公使パークス襲撃事件」などの外交処理に当たり、大阪造幣寮(現造幣局)の設立に尽力した後、五代は新政府を退官します。

 そして、大阪を拠点に実業界に身を投じ、政界の実力者・大久保につく「政商」として、鉱工業・船舶・港湾・鉄道・出版・印刷・商社・銀行など、あらゆる事業の創始に関与しました。また、大阪商業講習所(現大阪市立大学)、大阪株式取引所(現大阪証券取引所)、そして大阪商法会議所(現大阪商工会議所)の設立にもかかわっています。

 この時期、大阪では、維新の混乱で「天下の台所」とまで言われた大阪の伝統的商慣習がまったく役に立たない窮状に瀕していましたが、五代は彼らを奮起させ、大阪の経済的基盤を再生しました。

 日本経済史の権威・宮本又次も、五代について次のように指摘しています。

「五代は志士的態度を失わず憂国的で、ナショナリズムの気概が旺盛であり、また正義派でもあった。常に国民経済の成立に対応して、多かれ少なかれ、国民的利害を念頭においていた。しかしその上に五代の場合、大阪にその本拠をもっていた関係上、地域社会の発展をも念願していた。かつて「天下の台所」「諸色値段相場の元方」であった大阪の過去の輝かしい繁栄とその復権を考えていた」(『五代友厚伝』有斐閣)

 1885年(明治18)、五代は50歳の短い生涯を閉じます。この時、大阪の街では多くの人がその死を悼み、おかみさん連中が「五代はんは大阪の恩人や」と語り継いだといわれています。五代が、関西財界の恩人として、「近代大阪経済の父」「大阪財界の父」と呼ばれるゆえんです。