日本三大写真発祥地と写真の父

 1874年(明治7)12月7日、地球と太陽の間に金星が通過する天文現象、いわゆる金星の日面通過を日本で観測できることを知った欧米各国は、日本へ観測隊を派遣しました。フランスからの観測隊は神戸を訪れますが、そのなかに、「マッチ業の父」と呼ばれた日本人留学生清水誠がいました。フランスで写真技術も学んでいたため、望遠撮影を担当したのです。日本人で初めて金星日面通過写真15枚の撮影を成功したのは清水の隠された功績の一つで、フランスで最先端の技術を学んでいたからこそといえるでしょう。

 この時の天文写真の撮影から遡ること20年以上、3人の写真家が活動を開始しています。彼らが先駆的な活躍をした開港の地、長崎、横浜、函館は、「日本三大写真発祥地」といわれています。

 世界最初の実用的写真技法とされるダゲレオタイプ(銀板写真)は、湿板写真技法が確立するまで最も普及した技法ですが、このダゲレオタイプ写真機が日本に輸入されたのは1848年(嘉永元)で、長崎の蘭学者上野俊之丞(としのじょう)によって薩摩藩主島津斉彬に贈呈されました。その後斉彬の命により研究が進められ、1857年(安政4)9月17日、薩摩藩士市来四郎(いちきしろう)らが斉彬を撮影し、これが日本人の撮影による現存最古の写真といわれています。

 上野俊之丞の次男として長崎に生まれた上野彦馬(ひこま・1838~1904)は、広瀬淡窓(たんそう)の咸宜園(かんぎえん)で漢学を、海軍伝習所の医師ポンペに化学や物理、医学などの自然科学全般を学びます。ある日、蘭学の教科書で「ポトガラヒー」の文字と珍しい絵図面を見て写真の存在を知り、これが上野の一生を決定づけました。

上野彦馬(1838~1904)

 器材や薬品の研究を重ね、独力で写真技術を習得した上野が撮影に成功した第一号の被写体は興福寺山門(長崎県長崎市寺町)、人物第一号はポンペ塾の塾頭を務めていた、後の軍医総監松本良順(りょうじゅん)でした。この時良順は、「今生の思い出に」と、紋付の陣羽織に義経袴、腰に刀、右手に陣笠、顔いっぱいに白粉を塗りつけ、5分間も椅子に座ったままであったというエピソードが残っています。最先端の科学知識を身につけた良順でさえ写真撮影は覚悟をもって臨んだわけですから、当時、一般の人が「魂を抜かれる」と誤解するのも、あながち大袈裟な話ではなかったのでしょう。

 上野は、1862年(文久2)、長崎に写真館を開業します。開業当初は誤解もあり客足はさっぱりでしたが、写真を怖れない外国人たちを見て、徐々に日本人の依頼客が増え、坂本龍馬や高杉晋作ら幕末の志士たちを撮影するようになります。現存する龍馬の写真は上野が撮影したものです。

 維新後は、清水と同様にアメリカ観測隊に加わり、金星の日面通過観測写真の撮影に成功しています。また、1877年(明治10)の西南戦争の記録写真(そのため日本初の従軍カメラマンともいわれます)などの貴重な記録を残しています。日本初の写真家・上野は、「写真の父」と称されています。