これまでの連載で述べてきたように、市場という場では、時の経過とともに、企業や地域の弱みは強みに転じてきます。そして、強みは弱みに転じていきます。しかし、こうした市場の逆説性を忘れてしまい、「反転など起こらない」と思い込んでしまうことによって、マーケティングの実践ではさまざまな思考の罠が生じます。マーケティング・リフレーミングにあたっては、このような思考の罠を乗り越えていくことが必要です。今回はその第2弾、顧客志向の罠をとりあげ、その克服のための道筋を探ります。

顧客重視が苦境の原因?

「顧客の声に忠実であることが優良企業を苦境へ追い込んでいる」。このような指摘を、高名な経営戦略理論家であるクレイトン・M・クリステンセンは、その主著、『イノベーションのジレンマ』のなかで行っています。

「顧客志向が企業の苦境の原因」というのは、マーケティングの存在意義を根幹から揺さぶるようにも思える問題提起です。今回は、この顧客志向の罠を企業が乗り越えていくための道筋を、同じく高名な戦略的マーケティング理論家であるジョージ・デイの見解を参照しながら検討していくことにしましょう。

技術は最先端だった

 クリステンセンは、技術開発の先端を行くイノベーターの直面するジレンマを語っています。クリステンセンは、ハードディスクドライブの技術革新の歴史を振り返り、「高度な技術を開発すれば、事業は成功する」との思い込みの危険性を指摘します。

 ハードディスクドライブの世界的なリーダー企業であるシーゲート・テクノロジー社は、1980年代に3.5インチのハードディスクドライブの事業化に乗り遅れるという失態をおかしました。このときにシーゲートは、技術開発で後れを取ったわけではありません。シーゲートは高度な研究開発力を誇るイノベーション企業であり、3.5インチのハードディスクの技術開発でも最先端を走っていました。

イノベーターが直面するジレンマ

 何が問題だったのでしょうか。市場サイドを見ると、シーゲートは当時5.25インチのハードディスクの最大手企業でした。そして、この3.5インチより一回り大きいハードディスクの主要顧客は、IBMをはじめとするデスクトップ・パソコンのメーカーでした。当時は現在のようなノートタイプやモバイルタイプのパソコンではなく、据え置き型の重たいパソコンが主流だったのです。

 当時これらのメーカーが求めていたのは、60MBの容量のハードディスクでした。しかし、新しい3.5インチのハードディスクドライブの利点は、小型軽量性、耐久性、省電力であり、容量については、わずか20MB程度でした。デスクトップ・パソコンのメーカーは、同時に1MB当たりのコストも重視していましたが、この点でも3.5インチのハードディスクは5.25インチと比べて相当に割高でした。

 最先端の技術はあるが、顧客はそれを求めていない。このジレンマのなかでシーゲートの経営陣は、主要顧客の意向に合わない選択はできないと考えました。シーゲートは、低コストでの大容量化の実現がより容易な5.25インチのハードディスクの開発に力を入れることにしたのです。

 その一方で、3.5インチのハードディスクの開発は、シーゲートをスピンアウトした技術者たちを中心にした新興企業によって続けられ、やがて新たな販売先が見いだされていきました。どのような販売先があったのでしょうか。それは、当時はまだ目新しかったポータブルタイプのパソコンを手がけていたメーカーでした。現在のノートタイプやモバイルタイプのパソコンの前身となるような製品を手がけていたメーカーです。これらのメーカーは、ハードディスクに対して軽量であること、小型であること、高い耐久性があること、消費電力が少ないことを求めており、これらの要件が満たされるのであれば1MB当たりのコストの高さはあまり問題視されませんでした。