連載第2回目は「デザイン思考」や「デザイン言語」がキーワードです。私たちは経験から獲得する“身体的経験を伴う知識”を持ちますが、これを他人と共有することは難しくもあります。知識の共有で大きな役割を果たすと言う「デザイン思考」や「デザイン言語」。これらの活用方法は、日本企業への示唆に富みます。


 さて第2回では、なぜ「デザイン思考」が“異なる知性がコラボレーションできる状況を創り出す”「集合知」のツールになるのかを説明していきたい。 

 ここでは、前回紹介した「集合知」を「集合的な創造性による問題解決の手法」と定義する。

1.“身体的経験を伴う知識”を共有できる「デザイン言語」について

 なぜ「デザイン思考」が「集合知」のツールとなるのか。結論から言えば、「デザイン思考」が「エスノグラフィー」(文化人類学や社会学に基づき、フィールドワークで社会や集団の行動様式を調査する手法)や「プロトタイピング」(試作品の作成)を通じて、“身体的経験を伴う知識”を獲得し、共有できる統合プロセスだからであると筆者らは考えている。

 そもそも人が知識を獲得する場合、身体的な経験を伴わない知識は深くは理解できないものである。知識は理解の一部分にすぎず、本物の理解とは実際の経験によって得られるものである。人が経験から獲得された“身体的経験を伴う知識”を他人と共有するには、日常的に会話で用いる「自然言語」やC言語などのコンピューター言語である「人工言語」では的確に表現することが難しい。なぜならば“身体的経験を伴う知識”の多くは暗黙知を含むため、形式知に変換することが難しいのである。

 一方で色や形状、ビジュアルで表現できる「デザイン」は暗黙知の集合体とも言える。デザイナーは、あらゆるメッセージをデザインの中に埋め込み、作品を通してユーザーとコミュニケーションをしている。

 つまり、「デザイン」は形式知に変換することが難しい知識を共有できる強力な言語であり、「デザイン思考」で用いる「デザイン言語」とは“身体的経験を伴う知識”を共有できる言語のことを指す。

「デザイン思考」が目指すのは、観察対象に感情移入をして自らの経験を拡大する「エスノグラフィー」や、手を動かしながらアブダクション(仮想法)を無数に繰り返す「プロトタイピング」の経験を共有することで暗黙知と暗黙知の「共同化」、暗黙知から形式知への「表出化」である。

 野中ら(1996)が指摘するように、経験を何らかの形で共有しない限り、他人の思考プロセスに入り込むことは非常に難しい。情報は経験の共有に伴う様々な感情やその特定の文脈から切り離されてしまえば、ほとんど意味を失ってしまう(注1) 。 

 つまり「デザイン思考」は「デザイン言語」という経験の共有に伴う様々な感情やその特定の文脈を共有できる言語が介在することで、“異なる知性がコラボレーションできる状況”を創り出すことができるのである。