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あまり知られていないもう一つの思想
ピーター・ドラッカーといえばすぐさま想起されるのが「経営学者」だ。だが、それは欧州から米国に渡った後の話だ。経営に関心を抱いた真の理由を知るためには、多感な青年期を欧州で過ごし、ナチスと筆の力で闘った姿を知る必要がある。そして、そこに氏が生涯追求し続けた社会像の原点がある。
なぜ人々は全体主義に傾倒したのか
ドラッカーが追求し続けた社会像とは、人類が二度と全体主義に陥らないための社会である。熟考を重ね到達したのが「一人ひとりが位置と役割を持つ自由社会」であった。その熟考の過程を著したのが『「経済人」の終わり[注1]』(1939年)と『産業人の未来[注2]』(1942年)である。いずれもドラッカーが20代から30代にかけて出版したものだ。
ドラッカーは1909年にウィーンのユダヤ系家庭に生まれた。父は貿易省次官、母はオーストリアで初めて医学を学んだ女性の一人で、教養豊かな家庭環境で育った。だがまもなく2つの世界大戦を経験する。24歳の時、ドイツのフランクフルト大学で講師の職に就くが、それはナチスが政権を掌握した時でもあった。そして、ナチス全体主義に染まる知人たちを目の当たりにし、大学の職を解かれるなど自身も屈辱を受ける。その憤りが、筆の力でナチスと闘うことを決心させ、先の2つの書籍が生まれた。

『「経済人」の終わり』はナチス全体主義を批判的に分析した書である。ドイツは、わずか10年の間に世界で最も民主的な憲法を有したワイマール共和国から、ナチス全体主義国家へと転落した。同書は、その状況を政治、経済、社会、そして人々の心理と幅広く分析し、深く洞察している。その分析は大きく3つに捉えることができる。
第1にドイツ国民の心理である。ドイツ帝国が第1次世界大戦に敗戦してまもなくワイマール共和国が生まれる。しかし財政は逼迫し、高額の戦争賠償金が課されていた。政治は選挙と政権交代を繰り返し、議会は機能不全に陥った。1929年、世界大恐慌が起こる。ちょうどベビーブーマーが18歳の就労年齢になった年でもあり、記録的な大失業に見舞われた。
人々は選ぶ政党がないと嘆き、経済的な不安に怯えた。ドラッカーは失業者について「位置と役割を持たなければ社会からつま弾きにされる。根無し草の彼らにとって社会は半分しか見えず、残りの半分は予測不可能な魔物の存在[注3]」と述べ、社会的排除の状態にある人間の心理を捉えた。そして、人々の関心の中心は、戦争や失業の恐怖から逃れ、いかに安定を手に入れるかになった。そこを突くようにナチスが登場し、軍事と公共事業を軸に完全雇用を約束した。人々は安定のためなら職業、思想、言論の自由を犠牲にしてもよいと考え、ナチス全体主義に傾倒した。
また、ドラッカーは知識層にも着目していたことが、『傍観者の時代[注4]』(1979年)に記されている。そこには、ナチスが政権を掌握したことを受け、ドイツを去ろうとしていた時のエピソードが書かれている。象徴的に描かれているのがフランクフルト大学の生化学者だ。彼はリーダー的な存在だったが、ナチスから屈辱的な扱いを受けるユダヤ人の同僚を目の当たりにしながらも沈黙し、自分の研究費のことのみ述べた。
多くの知識人や指導的立場にある者が、この教授のように自分に火の粉がかかることを避け、ナチスの残虐で矛盾だらけの行為を見て見ぬふりをした。そして、沈黙という消極的な態度が全体主義を推し進め最悪の事態を招いた。ドラッカーはそれを「無関心の罪」と呼び、20世紀の新しい最大の罪であると述べている。
    


