インターネットの登場を待たずして、なぜ集合知は活用されなかったのか。そして、ネットの登場で、無償にも関わらずフリーソフトの開発はなぜ進んでいったのか。簡単に機能しそうで、実は奥が深い。集合知の理論について理解が深まります。
集合知とコースの天井
さて前回、集合知というのは必ずしも目新しいものではないことを述べた。それはぼくたちが日常見かけることであり、三人寄れば文殊の知恵、ということわざそのものだ。だがそれがインターネットの普及で、まったく予想外の分野にまで使われるようになっている。
だが、なぜインターネットの登場を待たねばならなかったのだろうか。なぜ「三人寄れば文殊の知恵」をそのまま発展させて、「100人、1000人よればスーパー文殊の知恵」にできないのだろうか?
ここに作用するのは、普通の組織や企業の論理と同じだ。通常、ものを作るときには規模の経済が働く。大量生産すれば安くモノが作れ、競争力が高まる。ではなぜあらゆる企業がどんどん巨大化しないのか? あらゆる分野が超巨大企業ばかりにならないのか? もちろん、大企業ばかりの産業分野はあるが、そればかりではない。
これを説明したのが、ノーベル経済学賞を受けたロナルド・コースの提案した「コースの天井」「コースの限界」なる理論だ。コースは、世の中のものは財産権さえ明確に決めておけば、あとは関係者の自発的な取引ですべて丸く収まる(かなり極端なまとめだが)、という「コースの定理」で有名だが、企業の存在意義として取引費用の最小化を挙げた業績も大きい。
そしてその理論の中で、かれは企業や組織の規模についても検討し、組織規模は、情報のやりとりの限界で制約されることを指摘した。組織内では人々や部局同士が情報交換しなくてはならない(そうしないと組織の意味がない)が、組織が大きくなれば、情報交換の手間も増える。そしていずれ、コミュニケ-ション費用が規模拡大のメリットを上回る。人を組織に1人加えても、規模のメリットが内部調整の手間で相殺されてしまう。そこがコースの天井となる。
組織内のコミュニケーションというとわかりにくいが、企業の人ならこれは会社の間接部門だと思えばいい。人事や経理、総務などの部局は、現業部門の人(たとえばぼく)から見ればつまらない書類や手続きばかり要求して仕事の効率を落とす(つまり内部に費用負担をかける)部門だが、一方でそれがないと会社がまわらないのも事実だ。こうした部門がやっているのは、基本的には社内の各種コミュニケーションを担当している。会社の規模が大きくなると、こうした間接部門も大きくなり、全体の効率は下がる(ちなみにこれをイギリス式の嫌味全開ユーモアで鋭く解説したのが、かつてはサラリーマン必読書と言われた『パーキンソンの法則』だ。いまなお、サラリーマンたちが本当にきっちり読んで理解すべき名著だと思うので是非)。
文殊の知恵でも話は同じだ。高校や大学でサークルを運営したり、会社でちょっとした会議を運営したような経験があれば、人数が増えるにつれて各種の調整がいかにむずかしくなるかはご存じの通りだ。3人が寄り集まるのは簡単だが、10人寄ろうとすれば、そもそも寄り集まるためのスケジュール調整だけで一苦労となる。さらに実際に集まったあとでも、会議の方向性を決め、議論をとりまとめ、10人それぞれの意見や主張をちゃんと聞き、それをまとめて知恵に仕立てるのも一苦労だ。ましてインターネット以前の時期で、自発的に数十人を集めるのはほぼ不可能だ。何らかの権限を使って強制的に集めるしかない。そして集めたところでほとんどの人は1度も発言できず、それがわかっているからこそ敢えて顔を出す気にもならない。こうした内部調整と内部コミュニケーション費用が、これまでは集合知がなかなか活用できなかった理由に他ならない。
だが、ネットの存在でそれが変わった。コミュニケーションの費用は下がって、それぞれの意見をもっと多くの人に一度に伝えられるようになったし、その調整も容易になった。これにより、情報を集め、動かし、まとめ、分析し、流通させるコストが下がり、コースの天井もどんどん上がっていった。これが集合知を可能にしている原動力の1つだ。