同時に求められる
細部を語る力

 ところがこれらの能力がなくても会話の文脈が読めると、英会話ができてしまいます。相手が言いたいことがゼスチャーや前後の流れから読めると、個々の言葉がまったく聞き取れなくても、構文をつなげられなくても、単語を返すだけでコミュニケーションが成立します。会話という本来の目的を達成するためにはそれで十分なのです。しかし、仮に本来の目的がそうであったとしても、「英会話力」を鍛えたい場合、この文脈を読む力がマイナスに働きます。ここのヒアリング力やスピーキング力を鍛えようとするより、文脈を読もうとしてしまうことで、代用してしまうからです。

「英語力は低くても英語でコミュニケーションできる」。これは正しいあり方のようであり、いつまで経っても英語力は身につかない。つまり、「the」の発音も間違っているし、相手の言っている単語はまったく聞き取れないままです。これで本当にいいのか、とても悩ましい問題です。

 全体像をつかむことと細部をつかむことは両立するのか。全体像が見えてない状況に対し、文脈を読むことが重要になりますが、細部をつめない限り物事が進まない状況も多いものです。

 たとえば技術的な話しが分かりやすいかもしれません。システム設計など全体像が明確であっても個々の要素技術を積み上げていかないと、目指す要件は実現しません。神は細部に宿るではないですが、職人の仕事の素晴らしさも細部にまで技術を活かした仕事が行き届いていることであり、それらがないと全体のクオリティの高さは実現しません。

「文脈を読む」ことが肯定的に使われるのは、個々の事象を追求するあまり復袋小路に入ってしまうことへの注意喚起が大きいように思われます。個々の最適化が全体最適を実現しないことがあるように、大局観をもつことは重要です。

 一方で「文脈を読む」ことに逃げてしまうのも問題です。総論賛成・各論反対という現象を解決するには、各論で議論できる力が必要です。いくら素晴らしい構想も、それを実現する要素技術がない限り絵空事です。もちろん文脈を読む力も大切ですが、いざという時に力を発揮するには、細部を語る力も欠かせません。(編集長・岩佐文夫)