最初に「目標による管理」(Management by objectives)を提唱したのは、ピーター・F・ドラッカーとされる。ただし、その意味が正しく理解されてはいない。ビジネスの世界では、経済合理主義的な「目標による管理」ばかりが重要とされるが、それを追求した先に見えてくるのはアドルフ・アイヒマンの姿である。企業はこの課題にいかに向き合えばよいのだろうか。慶應義塾大学商学部の菊澤研宗教授がこの難問をひも解く。前・後編の全2回。
 

ドラッカーの真意は伝わらなかった

「目標による管理」という言葉は、おそらくピーター・F・ドラッカーが最初に提唱した管理論の名称である。しかし、不幸にも、ドラッカーによって提唱されたこの管理論は、彼の意図とは全く異なる形で解釈され、今日、日本のビジネス界で広がっている。

 ここでは、2つの異なる「目標による管理」についてお話しする。1つは経済合理主義的な「目標による管理」であり、それは人間の他律性にもとづく経済合理的な管理である。もう1つは、人間の自律性や自由意志を利用した人間主義的な「目標による管理」である。

 もちろん、ドラッカーが語っていたのは後者であり、そして、ドラッカーが終生嫌っていた全体主義を生み出したのが前者である。両者を排他的に扱う、つまり、どちらか一方だけではなく、いかにしてバランスよく両者を補完的に利用できるか。そこに、経営の神髄がある。

 古い概念を打ち破り、ベンチャー企業設立を夢見て、ひたすら経済合理的な経営を学ぶ若い有望な人たちに、この論考を捧げたい。

ヴェーバーの予言

 インド、イスラム、そして中国などの高い文明をもっていた地域があったにもかかわらず、なぜ西欧にだけ近代資本主義が成立したのか。ドイツ最強の社会学者であるマックス・ヴェーバーが、晩年、頭を抱えていたのはこの歴史的問題であった。

 この問題に対する彼の答えは、プロテスタンティズムの宗教倫理の存在であった。それは、エートスとして西欧の人々に心理的禁欲をもたらし、そしてそれが行動として倹約や質素な生活として現れた。こうして、結果としてお金が蓄積され、資本主義が成立した。このことから、ヴェーバーは、プロテスタンティズムの倫理こそ「資本主義の精神」であったと説明した。

 しかし、ヴェーバーは、その後の歴史の動きも見逃さなかった。やがて目的と手段が転倒し、結果であったお金儲けが目的となり、そのために質素・倹約行動が手段となっていったのである。

 人々の行動は、ひたすら救済を信じて行動する価値合理的行為から、与えられた目的を効率的に達成することだけに関心をもつ目的合理的行動へと変化していった。そして、ヴェーバーはやがて、感情も魂もないひたすらルールと規則に従うような人間から構成される、鋼鉄の檻のような組織社会がやってくることを予言した。